社長の夢実現への道

HONDAを世界企業に成長させたナンバー2藤沢武夫の経営哲学とは?

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藤沢武夫と本田宗一郎

藤沢武夫(1910~1988)氏は、本田宗一郎(1906~1991)氏を支え、本田技研工業を世界のHONDAに成長させた、理想のナンバー2です。

本田技研工業の社長は本田宗一郎でしたが、実際に会社を経営していたのは藤沢武夫でした。

本田技研工業は何度も倒産の危機に遭遇しますが、藤沢武夫は本田宗一郎や従業員と力を合わせ、また運も味方につけて、難局を乗り越えてきました。

藤沢武夫は、1949年(昭和24年)に本田技研工業に常務取締役として入社し、1973年(昭和48年)に副社長を退任しました。24年間、本田技研工業の経営を支えましたが、その間に本田技研工業単独の売上高は、実に9,700倍以上、連結で2万3,000倍以上に成長しました。静岡県浜松市にあった町工場を、世界企業にまで成長させたわけです。

そのような実績を出すことができたのは、本田宗一郎の技術力や藤沢武夫の経営手腕があったためです。藤沢武夫が経営手腕を身に着け、大胆に発揮できた理由は、二人とも使命感に目覚めていたことが前提となりますが、正しい経営思想があったからだと思われます。

本田技研工業の最初の経営理念は、「社是」と「わが社の運営方針」です。この2つには、二人の経営哲学がうまく融合して盛り込まれています。

藤沢武夫の主な経営哲学は、次の2つです。

  1. 万物流転の法則に逆らえ
  2. 松明は自分の手で

この2つは、現在の経営者にとっても大切なことですので、次の目次に沿って詳しくご説明したいと思います。

1.万物流転の法則に逆らえ

万物流転の法則とは、簡単に述べると「物事は必ず移り変わること」です。仏教では、「諸行無常」でも有名です。

藤沢武夫が愛読した書籍「萬物流轉」

萬物流轉(平泉澄著、至文堂)

藤沢武夫は、本田技研工業の未来を考えるときに、「萬物流轉」(平泉澄著、至文堂)を繰り返し読み、万物流転から逃れられる方法を模索したようです。

この書籍の発行は、昭和11年となっているので、藤沢武夫が昭和17年に独立したときには読んでいた可能性があります。

藤沢武夫が独立以前に起業していた日本機工研究所は、藤沢武夫が独立した頃に中島飛行機と取引を開始し、後の本田宗一郎との仲介人となった竹島弘(1913~?)氏が検査のために会社に訪れていました。このとき、ピストンリングの製造に成功した本田宗一郎の存在を教えてもらい、「チャンスがあれば組んでみたい」と思い至りました。

書籍に書かれている内容は、最初は和歌で詠まれた世の中の移ろいについて述べられ、西洋哲学やキリスト教、仏教、神道、儒教などの宗教的観点から流転について考察されています。

その一節に、万物流転について、次のように書かれています。

プラトンの記述というのは、その対話篇のうち、クラチュロスに見る左の一文である。

「ソクラテス曰く、会してヘラクレイトスは、万物は流転し、一物として止まるなきを説き、これを河の流れに例えて、人の足を再び元の流れにひたし難しと言った。」

川の水は絶え間なく流れています。川に再び入ったときに、同じ川でも流れている水は異なったものになっているので、同じ流れに足をひたすことはできないことが述べられています。つまり、万物は移ろい流れていくものなのです。それは法則です。

万物流転の法則に逆らうためには、具体的にどのようなことをすれば良いのでしょうか?

本書の最後に、次のような文で締めくくられています。

忠孝は道の究極であり学の発端でもある。道忠孝に極まるというは、ここに道徳千古の準則あるを示す。そして学ここに始まるというは、これより修練の険難に足一歩を踏み出すをいうのである。よどみに浮かぶうたかたを、ただつかの間の命と見破って、一時の幻影にあざむかれざるすら、並大抵のことではない。まして変化改換あってやまざる流転のうちに、永遠不朽の道徳を認むることは、なおさら容易のことではないのに、かくして看出されたる忠孝の道は、これよりようやく険難の一歩を踏み出すというのである。しからばまことにこの道に志す者の、猛く精彩を著けて(たけくせいさいをしるけて)、堅固不抜、千辛万苦を甘しとするの覚悟なかるべからざるは、もとよりいうまでもない。

この文を、私なりに現代語に訳してみましょう。

「臣下としての義務を尽くすことは、道の究極であり学びの発端です。その忠孝の中に、道徳におけるさまざまな法則があるということです。忠孝は、険しい修練の道の一歩を踏み出すということです。それを妨げる欲を、水溜まりの水面にできた泡のように、一時の幻影だと見破ることは、並大抵のことではありません。まして、変化の激しい流転の中に、永遠で変わることのない道徳を発見することは、なおさら困難なことです。このようにして忠孝の道が見いだされたならば、それは険しい一歩を踏み出したということです。そのようにこの道を志した者は、力あふれんばかりに、どのようなことがあっても心を動かさず耐え、多くの辛いことや苦しみがあることを受ける覚悟ができていることは、言うまでもありません。」

忠孝は、本田宗一郎にとって理想のナンバー2であった藤沢武夫にふさわしい言葉です。大戦前後にはこの書籍を読んでいたであろう藤沢武夫は、忠孝に値する大きな夢を持った人物を探していたときに、本田宗一郎という天才と出会いました。

また本田宗一郎も、本田技研工業を創業したときには、天下・国家のためという忠孝を志していました。

会社経営における万物流転

書籍「萬物流轉」の最後の内容を、経営に当てはめてみたいと思います。

顧客ニーズは変わっていきます。人は老いて世代も交代しますし、人の考えは変わっていきます。そのため、同じ商品やサービスを続けていたり、同じ取引先、同じ考えや発想で経営したりしていては、会社の倒産は免れません。

それに抗うために、学び、徳を磨き、欲に囚われず、苦難や困難に耐えて、不屈の心で進んで行かなければならないということでしょう。

会社経営は、下りのエスカレーターを逆走しているようなものです。その場にじっとしていたら、下の階に降りてしまい、会社は倒産します。会社が生き残るためには、エスカレーターに逆らって登っていき続ける必要があります。

藤沢武夫の著書「経営に終わりはない」(文藝春秋)の中には、さまざまな苦難や困難に対して、調べ、考え、対策をしていったことが書かれていました。

  • 他社の企業研究
  • 本田宗一郎と藤沢武夫の量産
  • 銀行との付き合い方の研究
  • 鈴鹿サーキットの建設
  • 海外進出
  • 本田技研工業の研究部門を別会社に分離
  • 技術者に経営や数字のことを教育した
  • 技術者が技術開発に集中しつつ出世できる仕組みを構築
  • 役員たちが意見交換できる仕組みを構築
  • 独自の販売網の構築
  • 従業員のやる気やチャレンジ精神を引き出すための仕組みを構築
  • 他社よりも先んじて高付加価値なサービスを提供
  • いくつもの日本初を実施

これらのこと以外にも、たくさんのことを行っています。次の「松明は自分の手で」も、万物流転の法則に逆らうための思想でもあります。

2.松明は自分の手で

藤沢武夫の経営哲学「松明は自分の手で」

松明(たいまつ)は、夜道を照らすための道具です。「松明は自分の手で」の意味は、「経営は暗闇の中を進んで行くようなもの。松明を他人に依存していては、何があるかわからない。暗闇を自分の力で照らして進んでいく。」という意味です。

このことは、経営者の意思決定において、大切な考え方です。

他人に松明を持たせていたら、両手が使えるかもしれませんが、松明を使える人がいなくなってしまったときに、暗闇の中で立ち往生してしまうことでしょう。松明は自分で持つことはもちろんのこと、松明の点火の仕方などの扱い方も覚えておいた方が良いことでしょう。

松明を自分の手で持った経営とは?

「松明を自分の手で持つ」ということを会社経営に置き換えたら、何が言えるでしょうか。松明を他人に依存した経営を考えてみましょう。

  • 技術開発を他社に依存している
  • 主要部品を自社生産していない
  • 販売を他社に依存している
  • 収益をメイン顧客1社に依存している(売上高の1/3以上を1社が占めている)
  • 材料の調達先を1社に依存している

これらは、社外のことを述べていますが、社内でも同様に考えることができることでしょう。

例えば、人使いのところで松下幸之助先生は「任せて任さず」という言葉を残されていますが、経営者は部下にお仕事を任せたら任せっきりでなく、フォローして導いていくこと。つまり、経営者が松明を持って導いていくことです。

倒産していった数々のオートバイメーカーの傾向

大戦後、オートバイを製造していた企業の数は、日本国内だけで実に250社を超えていました。しかし、そのほとんどの企業は倒産したり、吸収合併されていったりしました。その結果、オートバイメーカーは4社になり、今でも4社のみです。

当時、倒産したり吸収合併されたりしたオートバイメーカーを調べていると、次のような傾向があることが分かりました。

  • 高い目標がなかった
  • エンジンという主要パーツを外注していた
  • オートバイ製造以外の事業を行っていなかった / 親会社などの強力な支援がなかった
  • 販売を他社に依存していた
  • 生産性の向上をおろそかにしていた

このような状態は、明らかに松明を他人が持っている状態です。

これらの傾向は、新しい知識によるイノベーションにおいては、現在でも頻繁に起こりうることです。会社に高い目標がなく成り行き経営で、主要パーツの製造を他社に依存し、事業は1つのみ。販売を他社に依存し、生産性も悪い会社は、危険極まりないものです。

新しい知識によるイノベーションは、市場が開かれた期間があり、日本国内におけるオートバイ製造は、1955年まででした。それ以降は、淘汰で市場は混乱したので、オートバイメーカーは生まれていませんし、生まれたとしてもすぐに消えたことでしょう。

これらの傾向は、すぐに改善することが難しいものもあることでしょう。しかし、長期的な計画を立てて、少しずつ手を打っていかなければ、いつまでたっても会社は危険な状態のままです。新しい知識によるイノベーションの事業であれば、なおさらです。

1950年代は、数多くのオートバイメーカーが倒産していった理由には、他にもあります。その倒産の条件は、企業の規模によって異なります。

いずれ別のコラムで、規模別に世界企業になっていった会社と、倒産していった会社の条件をまとめて発表する予定ですので、ご期待ください。

藤沢武夫の経営哲学につながったエピソード

藤沢武夫は、本田技研工業を経営していく中で、さまざまな経験をし、経営哲学を醸成していき「松明は自分の手で」という考えに至りました。ここで、経営哲学の醸成につながった、2つのエピソードをご紹介いたします。

銀行からお金を借りずに工場を取得したエピソード

藤沢武夫は、東京工場の購入に続いて、ここでも銀行に資金調達を依頼せず、地主との交渉によって、月賦にて工場跡地の購入を成功させました。その工場は、備え付けの工作機械があったのですが修理が必要で、雨漏りもしていました。藤沢武夫は本田宗一郎と工場の修理や中古の工作機械の購入・設置などを行い、2か月ほどで生産体制に入ることができました。

銀行にて資金調達をしなかった理由は、「借りに行ったとしても貸してくれなかっただろうから」と述べています。銀行からお金を借りるためには、「貸すようにさせてから借りに行くのが原則」というスタンスでした。

このことを三菱銀行に正直に報告し、支店長を新工場の見学に招待しています。また、それ以降は本田技研工業の経営状態の良し悪しに関係なく、何でも銀行に報告するようにしたので、銀行が本田技研工業の状態を把握でき信頼を得るようになりました。

銀行から信頼を得て、お金を貸すようにさせるための考えや行動も、藤沢武夫にとっては「松明を自分の手で持つ」ということでした。

カブF型のエピソード

自転車用補助エンジン「カブF型」

カブF型とは、1952年(昭和27年)に開発された、自転車の後輪に取り付ける自転車用補助エンジンのことで、赤色の小型エンジンと、白色の丸いガソリンタンクのオシャレな製品でした。

本田技研工業が日本全国に販売網を構築するのに貢献した製品でもあります。

カブF型は、台湾からの要請があり、本田技研工業で初めて海外に輸出された製品でした。このとき、商社を通じて300台ほど販売したそうです。その後は、続けて販売してくれることを期待して商社に通ったそうですが、商社は商品知識が乏しいので積極的に売る意思がなかったそうです。

藤沢武夫は、海外進出するときに、当時は当たり前だった商社を通じての販売を一切行わず、国内販売網の構築と同様に、自分たちの力でパイプをつくっていくことを決意しました。

また、カブF型は自転車用補助エンジンですので、自転車メーカーがフレームの形状を変更するだけで、取り付けることが困難になる可能性があります。つまり、他社に依存した製品だということです。

これらのエピソードでも、「松明を自分の手で持つ」という経営哲学に至ったようです。

当社のコンサルティングを受けていただいているお客様にも、「松明は自分の手で」という考えを伝えるようにしています。つまり、いずれは当社のコンサルティングの内容を自社で行うことができるようになっていただき、当社のコンサルティングを卒業して、次のステージに上がっていただきたいと思っています。

そのため、お客様のご要望に応じて、できる限りノウハウをご提供し、丁寧な説明を心がけるようにしています。「コンサルタントに頼らなくてもやっていける会社にしたい」とお考えの社長には、チームコンサルティングIngIngにご相談ください。

藤沢武夫が後のHONDAのために至った結論

藤沢武夫は、2つの経営哲学から導き出した答えは、「本田宗一郎と藤沢武夫の量産」でした。実に面白い発想ですが、社内の仕組みで天才が量産されるわけですから、理に適っていると思います。

二人の量産のための土台となっているものが、二人の経営思想を醸成させて明文化した経営理念と、社内報で述べられた二人の言葉の蓄積だと思います。これらの言葉は、「Top Talks」という非売品の書籍で内容の一部が残されています。

「Top Talks」には、本田宗一郎と藤沢武夫、二代目社長の河島喜好の言葉が収録されています。

久米是志氏が、本田技研工業の三代目社長に就任(1983~1990)されたとき、原因不明のトラブルでクレームが相次いだそうです。その原因究明に行き詰まり、藤沢武夫に相談しました。すると、藤沢武夫は「すべては過去の泥の中にある」とアドバイスをされ、忘れていたような過去の細かなことも調べて、解決の糸口をつかみました。

その出来事が強烈な印象として残り、3名の言葉を残すことを考えられ、翌年1984年に「Top Talks」が発刊されました。

藤沢武夫や本田宗一郎をはじめ、多くの経営者を調べていると、精神性と合理性の両立ができた人物が、一代で巨大企業を創り上げているように思えます。

本田技研工業の場合、合理性の部分は「いつ何をしたのか?」といった歴史が詳細に残されているので調べることができますが、精神性の部分は文章で表現しがたいものがあるので、秘された部分でもあります。

精神性の部分を知るためには、彼らにどのような生い立ちがあり、どのような出来事があり、そのときどのような気持ちになり、何を考え、どのように行動したのか。残された文章を緻密に読み解き、彼らの歴史を何度もたどり、その場所に行き、空気を味わっていると、彼らと同じ気持ちを味わえ、じわりと感じられるようになります。

以上、藤沢武夫の経営哲学、「万物流転の法則に逆らえ」と「松明は自分の手で」についてまとめました。経営理念づくりや、ナンバー2や経営幹部の育成に役立てば幸いです。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

経営全般からマーケット分析、集客コンサルティング、SEO対策、SEOコンテンツ・マーケティング、ホームページ制作等を主に行っています。Web集客と併せて、新商品開発やブランディングの支援など、クライアント企業が競合企業に勝つためのコンサルティングを提供しています。

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