当社では、戦後に発展した企業をいくつも分析しているのですが、発展している企業では、必ずナンバー2が存在します。
社長一人で経営をしていたときは、従業員数が50人までぐらいにしかならないのですが、理想のナンバー2が経営幹部として入社してから、会社が発展していきます。
そのナンバー2の仕事能力は、ある意味で、社長よりも優秀です。
会社が発展した企業で、ナンバー2がどのような仕事をしたのかを、世界企業に発展していく本田技研工業の経営を陰から支えた理想のナンバー2、藤沢武夫先生(1910年~1988年)から学びたいと思います。
ナンバー2がいても発展しない中小企業
従業員数が複数人になってくると、社長には右腕とされる人材がいると思います。社長は、その人材のことを「ナンバー2だ」と言っていることが多いのです。
その人材は、確かにナンバー2なのですが、理想のナンバー2かと言えば、そうではありません。なぜなら、そのナンバー2がいながら、会社が発展していないからです。
会社の発展を阻害するダメなナンバー2
社長が「わが社の事業を拡大したい」と考えていたとしても、ナンバー2が会社の発展を妨害している場合もあります。
例えば、親子2代で経営している企業がありました。父親が社長で、息子さんが次期社長候補として社長の補佐役をされ、さまざまな業務をこなしていました。先代の社長は、「会社を大きくしたい」と考えていたのですが、息子さんの方が、「事業拡大の予算がない」「それよりも先にやることがあるでしょう」と、会社の成長を妨害していました。
他の企業では、ご夫婦で事業をされている企業で、旦那様が社長で、奥様が事務長をされている企業がありました。その社長には夢があり、それを事務長に語ると、事務長が夢を潰すような現実を突きつけたり、「もっとこうすべきだ、ああすべきだ」と夢に横槍を入れたりして、夢を壊してしまうという事例もありました。
そのようなナンバー2は、社長の良き相談役だとしても、理想のナンバー2とは言えません。
ナンバー2の仕事は「社長の夢を実現すること」
最初に述べておきたい、理想のナンバー2の仕事は、要約すると、社長の夢に共感し「社長の夢を実現すること」です。
そのために何が必要か、会社全体から考えて、布石を打っていく人です。そして、次から次へと社長の夢を実現していってしまうのです。それこそ、最強のイエスマンです。
そのためには、ナンバー2には会社経営の権限と経営能力が必要となります。
社長から権限を与えられるためには、社長の信頼を得ないといけません。社長の信頼を得るためには、私利私欲を無くし、高い経営能力や先見性が必要となります。
そして、入社したらすぐに、社長だけでなく古参社員も納得するぐらいの実績を出す必要があります。
以下、ナンバー2の仕事内容を、藤沢武夫を研究した結果のまとめとして述べたいと思います。
会社を成長させたいと考えている社長が、どのような人材をナンバー2に抜擢するべきか、またナンバー2を目指している人にどのような仕事をしたら良いのか、参考にしていただけたらと思います。
なぜ藤沢武夫なのか?
ナンバー2の研究は、「なぜ藤沢武夫なのか?」と疑問に持たれた方もいらっしゃるかもしれません。もしかしたら、他にももっと優秀なナンバー2がいたかもしれません。
当社で藤沢武夫を研究した理由は、次のようなことからです。
- 藤沢武夫の資料がたくさん残っていること
- 最後まで社長と共にした純粋なナンバー2であったこと
ナンバー2は、自分の資料を自分で残すことはあまりしません。ところが、藤沢武夫は、たくさんの人がいろいろな資料を残してくれていて、研究しやすいことです。
ヘンリー・フォードの右腕であったジェイムズ・カズンズや、アンドリュー・カーネギーの右腕であったチャールズ・シュワブは、資料が残っていても社長と最後まで共にしていません。
数多くの資料が残っていて、なおかつ社長と最後まで共にしたナンバー2は少ないのです。
ナンバー2の条件については、「本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶトップとナンバー2がうまくいく条件」ごご覧いただくとして、ナンバー2の仕事についてご紹介いたします。
ナンバー2の仕事1.会社成長のボトルネックを改善する
ナンバー2が会社に入社して、すぐに取り組む仕事は、会社が成長するためのボトルネックとなっている箇所を改善することです。
大きな会社の社長の器のある人は、誰しも人情味のある人です。その人情味が故に、会社の成長を妨げている部分があります。
例えば、外注先に相場よりも高い費用を払っているとか、納期の多少の遅れを許しているとかです。
そういった箇所を切っていくことは、社長にはできませんが、社長に代わってナンバー2が行っていき、会社の経営体質を改善していきます。そして、社長は自分自身の強みのある仕事に専念できるようになります。
最初は社内では、ナンバー2の仕事に反発がありますが、そのようにして会社の業績が回復し、実績が出てきたときにナンバー2への反発が消えていきます。すると、ナンバー2も仕事がしやすくなります。
本田技研工業に入社した藤沢武夫の最初の仕事は、本田宗一郎(1906年~1991年)の人柄の良さから来ていた資金繰りの悪さの改善でした。
藤沢武夫が入社した当時の本田技研工業は、エンジンのみを販売していました。オートバイの販売店である自転車屋は、本田技研工業からエンジンを仕入れ、フレーム屋からオートバイのフレームを仕入れていました。それを組み立てて販売していました。
フレーム屋は現金が欲しいので、わざと納期を送らせ、「本田技研工業よりも先に現金を払ってくれるなら、フレームの増産が可能だ」として現金を受け取り、本田技研工業への支払いが後回しになっていました。そのようにして、本田技研工業は現金の回収が遅れて、資金繰りが悪くなっていました。
藤沢武夫は、そういったズルい商売をしているフレーム屋とは、人情を抜きにして理性的に提携を切りました。また、自社でフレームを組み立てて販売するようにして、資金繰りを改善しました。
技術に対して厳しい本田宗一郎でも、経理や社内業務についてはさっぱりでした。その部分は、藤沢武夫が厳しい態度で臨み、技術スタッフも社内スタッフもどちらも厳しく指導されたようです。
このように、本田宗一郎の性格を見抜きつつ、本田宗一郎にはできない仕事を藤沢武夫が代行しました。
ナンバー2の仕事2.社長の弱みを打ち消す
理想のナンバー2に必要とされる経営能力は何かということですが、それは、社長が持っていない能力を持っていることです。
社長は、自分と同じような能力を持った人を評価したがりますが、自分とは異なる能力を認め、権限を与えてしまい、お金の管理すら任せてしまえるような人を、ナンバー2に据えなければなりません。社長は、そういった人物を見抜く能力と度量が必要となります。
ナンバー2に抜擢された方は、社長の弱みとしている部門を担い、会社の発展に貢献します。
例えば、社長が開発と生産が得意であれば、ナンバー2は営業と財務を担当します。社長が営業を得意とするのであれば、ナンバー2は開発・生産と財務を担当します。そのようにして、社長の弱みを打ち消すように動きます。
本田宗一郎の強みは開発でした。藤沢武夫は、本田宗一郎が開発に専念できるように、販売や人事、経営・財務など、他の社内業務をすべて引き受けました。
ナンバー2の仕事3.経営の勉強をする
そして、ナンバー2に抜擢された人は、自分の能力が認められたわけですけれども、そこからさらに精進する姿勢が大事です。なぜなら、会社が成長していったら、自分自身の経営能力の成長が追い付かないこともあるからです。
藤沢武夫は、同じような製造業を分析しつつ、独自の経営分析手法を編み出して、自社の経営に生かしました。
また、マーケット調査や情報を仕入れることを怠らず、チャンスがものにできるように、本田宗一郎にさまざまなアドバイスをしていました。
本田技研工業のスタート時の製品は、自転車に取り付ける自転車用補助エンジンでしたが、それを止めてオートバイを製造するようになり、高性能なエンジンまで開発していました。
ところが、藤沢武夫は市場動向を読み取り、もう一度、新たな自転車用補助エンジンの開発を提案し、「カブF型」という名称で販売します。それが大ヒットし、本田技研工業は日本全国に販売店ができ、多大な資金ができました。
その大ヒットの裏には、藤沢武夫の販売手法の勉強もありました。
ナンバー2の仕事4.社長をうまく誘導する
ナンバー2は、社長の強いが活かせるように社内体制を整えることが仕事の1つですが、それだけではなく、社長のやる気が出るようにうまく誘導することも仕事です。
会社の発展の勢いは、社長のやる気や熱意で決まるとも言われています。社長のやる気や熱意を引き出すことができるナンバー2は、理想のナンバー2と言えます。
本田技研工業がオートバイを製造し始めたときのエンジンは2サイクルエンジンばかりでした。2サイクルエンジンは、パワーが出るのですが音がうるさいという問題がありました。市場では、音の静かな4サイクルエンジンが求められるようになってきていました。
その市場動向をつかんだ藤沢武夫は、さっそく本田宗一郎に4サイクルエンジンの開発を依頼します。ところが、本田宗一郎は、「そんなエンジン、パワーが出ないから売れないんだよ。」と一蹴されてしまいます。
ところが藤沢武夫は、「本田さん、あんたならパワーが出る4サイクルエンジンが創れると思うんですよ。いや、あんたにしか出来ないですよ。」と本田宗一郎を持ち上げて、その気にさせて開発させているのです。
本田宗一郎は、国内製造の4サイクルエンジンで日本初の箱根越えを実現するエンジンを開発しました。
藤沢武夫が、自転車用補助エンジンの開発を本田宗一郎に提案したとき、本田宗一郎は「そんなものさんざん製造してきたんだよ。そんなもの売れやしないよ。」と一蹴されてしまいます。
ところが、藤沢武夫は「いや、それが売れるんですよ。あんたが創れば。」と本田宗一郎を持ち上げて、その気にさせて開発させているのです。
ナンバー2の仕事5.未来構想のロードマップを描き実現する
ナンバー2は、社長の夢を実現することが大きな仕事ですが、それを実現するためのロードマップを描かなければいけません。
そのためには、まず事業構想力が必要となります。ナンバー2に抜擢されたばかりのときは、社長と寝食を共にするぐらい、社長から話を聞いて、社長の夢をまとめ上げ、どのように実現するかを検討します。
具体的には、経営理念を作成したり、社長の夢の実現に向けての経営計画を立てたりすることです。そして、それを忠実に実現していくことです。
藤沢武夫が本田技研工業に入社した直後から約2年間、それこそ本田宗一郎と寝食を共にするほどでした。その間に、本田宗一郎の夢をすべて聴き出し、その実現を語り合いました。
後の本田技研工業は、オートバイレースのオリンピックと言われるマン島TTレースに出場したときも、鈴鹿サーキットを建設したときも、もともとは本田宗一郎の発想でしたが、藤沢武夫がタイミングを見計らって提案しているのです。
ナンバー2の仕事6.資金繰りを担当する
会社が発展する過程では、どうしても人材と資金の不足がボトルネックとなります。そこで、たいていは利益と銀行からの融資で資金調達をすることになりますが、たいていの創業社長は資金調達が苦手です。本田宗一郎も資金繰りが苦手でした。
本田技研工業が東京に進出するときに、本田宗一郎は浜松の地元の銀行に資金調達を依頼します。ところが、銀行の担当者とケンカして帰ってきて、自分のやったことの重大さに青ざめてしまったことがありました。
それを聞いた藤沢武夫は、本田宗一郎を安心させるべく、「今後の資金調達は、私にお任せください」と伝え、どこからともなく資金を調達してくるのです。
その後は、本田宗一郎は資金繰りについての一切を藤沢武夫に任せました。
本田技研工業が全国展開したとき、故障や販売不振で経営危機に陥ったとき、スーパーカブを開発したとき、マン島TTレースに出場するとき、鈴鹿サーキットを建設したとき、F1に進出したとき、研究所を設立したときなど、あらゆる場面で資金繰りを采配しました。
ナンバー2の仕事7.経営担当者を育成する
会社が大きくなってくると、経営担当者の育成も大事になります。理想のナンバー2は、経営担当者の育成も行っていく必要があります。
技術系の人材であれば、お金の流れや経営の知識を教えたり、営業系の人材であれば技術系の知識を教えたりします。その方法としては、研修をしたり、いろいろな部署を担当してもらったりします。
今まで経験したことのない部署を任された人材は、何をやっているのかさっぱりわからなくても、うまくやっていける能力を身に着けてもらいます。
本田技研工業は、本田宗一郎という天才と、藤沢武夫という名参謀の2人で回っていたようなものでした。この2人の肩代わりができるような人材は、そういるものではありません。
そこで藤沢武夫は、開発や製造をしている人材に、企業のお金の動きについて勉強させて、経営担当者や後継者を育成していきました。
あるとき、幹部候補に対して、熱海の温泉で経営に関する勉強会が開催され、藤沢武夫も自ら教鞭を振るったとされています。また、重役の英知を結集するために本社ビルに重役室を創設し、すべての重役がそこに集められて仕事をしました。
ナンバー2の仕事8.社長を輝かせる
ナンバー2の仕事として、最後に「社長を輝かせる」という仕事をご説明いたします。理想のナンバー2は、社長の名前が伝説として残るような手を打っています。
本田宗一郎は伝説の人として、今でも多くの人に知られています。ところが、藤沢武夫という名前は、あまり聞かれません。つまり、社長の名前でさまざまなことを行い、社長を伝説として輝かせているのです。
次の、本田宗一郎に関するエピソードを聞いたことはないでしょうか?
- 本田宗一郎が、日本一の性能のエンジンを開発した
- 本田宗一郎がオートバイを開発して、マン島TTレースで優勝した
- 本田宗一郎が鈴鹿サーキットを建設した
- 本田宗一郎が開発したF1マシンが優勝した
これらは厳密には、藤沢武夫が焚きつけたり、資金を準備したり、実務を部下が行ったりして実現しているのです。F1については、本田宗一郎は余計な口出しをして、現場を困らせたぐらいです。
ところが、これらを社長の功績として、輝かしい伝説とストーリーをつくったことで、本田技研工業は魅力のある企業になっていきました。実は、それらをナンバー2を始め、社員たちが演出しているのです。
藤沢武夫の仕事として最後に、本田宗一郎の引退の花道まで準備したほどでした。
会社が発展した企業で、ナンバー2がどのような仕事をしたのかを、本田技研工業が世界企業に発展していくのを支えた、藤沢武夫先生から学ばせていただきました。
企業経営をされている社長や経営幹部の方に、ご参考になれば幸いです。
この記事の著者
経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)
国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら万を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくる独自の戦略系コンサルティングを開発する。