社長の夢実現への道

みづほ自動車製作所の倒産理由から見える価格戦略の正しい考え方

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みづほ自動車製作所の倒産理由から見える価格戦略の正しい考え方

今回のコラムは、みづほ自動車製作を取り上げました。

みづほ自動車製作所は、オートバイ「キャブトン」のメーカーでした。社長は、内藤正一(ないとうしょういち、1899~1960)氏です。出身は、愛知県中島郡祖父江町です。

内藤正一は、とても優秀な技術者で、戦前からオートバイや四輪自動車を開発し、日本全国にまでオートバイの名前が知られるようにもなりながら、時代の流れを読み間違い、価格戦略に失敗して、会社を倒産させてしまいました。

チームコンサルティングIngIngでは、さまざまな企業の社史を研究しています。戦後10年ほどのオートバイメーカーの戦い方を研究していると、今現在でも「どのような経営方針を取ると倒産するのか」「逆に、どのような経営方針だと事業が継続・成長するのか」という教訓が、本当にたくさん得られることに気づきました。

調べていると、内藤正一は、本当に優秀な技術者で、大型オートバイが好きだったのだなと感じました。そのような人物がなぜオートバイ事業に取り組み、なぜ倒産させてしまったのか。みづほ自動車製作の時代や市場の背景と倒産理由を探り、何らかの教訓を得たいと思います。

価格戦略をしたいと考えている経営者様、会社の事業規模を大きくしたいとお考えの経営者様の参考になれば幸いです。

みづほ自動車製作所のオートバイの特徴

みづほ自動車製作所のオートバイと言えば、大型車「キャブトン」です。そして、キャブトンに用いられていたマフラーの形状のことを、キャブトンマフラーといいます。この2つの特徴をご紹介します。

大型オートバイのヒット商品「キャブトン」

みづほ自動車製作所が開発したオートバイのブランド名は、戦前から発売され高級で重量感のあるイメージを持っていた「キャブトン」と、戦後にキャブトンのブランドイメージからの脱却を試みた小型オートバイの「みづほ」です。

もともとキャブトンは、オートバイの輸入販売していた大阪市北区の中川幸四郎商店が、1933年(昭和8年)から販売していたブランドでした。

中川幸四郎商店は、もともと輸入オートバイを販売していた商社でしたが、世界恐慌のあおりでオートバイが輸入できなくなりました。そこで、オートバイの部品を国内で調達して自社生産して販売しました。そのオートバイの名称がキャブトンでした。

キャブトンの由来は、「Come And Buy To Osaka-Nakagawa」(大阪の中川幸四郎商店に来て買ってください)の略です。なので、みづほ自動車製作所とはまったく関係のない車名であることを覚えておいてください。

初期のキャブトンのエンジンは、目黒自動車のものが使用されていました。このときの内藤正一は、合資会社高内製作所を経営しており、自動車やオートバイのエンジンの製造をしているにすぎませんでした。

高内製作所のエンジンは、目黒自動車と同程度の性能が出ていたこともあり、中川幸四郎商店はオートバイの仕様変更を考え、1936年(昭和11年)、高内製作所にキャブトンのOEM製造を依頼し、内藤正一はそれを引き受けました。

キャブトンマフラー

オートバイに詳しい年配の方であれば、キャブトンマフラーという形状のマフラーをご存じのことでしょう。次の写真は、丸正自動車製造が発売したライラック号のマフラーです。(浅間記念館、二輪展示館にて撮影)

キャブトンマフラーが採用されたライラック号

写真のように、エンジンから出たエキゾーストパイプが、少し太くなっているマフラーにつながっています。マフラー部分の太さは、その入り口から出口まで変化せずに伸びています。そして、排気口は、エンジンからマフラーまでのパイプ「エキゾーストパイプ」と同じ太さのパイプが出ています。このような形状のマフラーのことを、キャブトンマフラーというそうです。

キャブトンマフラーは、写真のように初期のライラック号に採用されただけでなく、本田技研工業のドリームD型などの、初期のドリーム号にも採用されました。このように、ごく一般的な名称として知られるぐらい、キャブトン号は知名度がありました。

キャブトンは、戦後に生まれた多くのオートバイメーカーに模倣された、代表的な国産オートバイでした。

内藤正一の経歴とみづほ自動車製作所の沿革

内藤正一は、1899年(明治32年)、愛知県中島郡祖父江町に生まれました。本田技研工業の創立者、本田宗一郎(ほんだそういちろう、1906~1991)氏よりも7つほど年上です。

オートバイ製造前夜まで

1911年(明治44年)、12歳のときに鷲野商店(ワシノ商店)に奉公に出て、機械加工の技術を身に着けます。

1923年(大正12年)、23歳のとき航空機部品製作会社「みづほ」を名古屋市中区に設立します。

1927年(昭和2年)、名古屋市中川区玉船町に合資会社高内製作所を設立し、純国産の2サイクルエンジン(175cc)を開発します。

このときから、自動車やオートバイのエンジンの製造を開始します。内藤正一が27~28歳のときにエンジンを開発したわけですが、本田宗一郎が、自身で初のエンジンを開発したときは40歳のときですので、かなり高度な技術を持っていたことが伺えます。

1931年に(昭和6年)、川真田和汪(かわまだかずお、1901~?)と共同で前輪駆動式(FF)の四輪自動車「ローランド号」を開発します。川真田が設計を担当、内藤は製造を担当しました。上野で行われた自動車市場博覧会に3台を出展し、その内の1台を高松宮殿下がご購入されたほどの出来栄えでした。

1932年(昭和7年)、四輪自動車「みづほ」も少量生産しています。

1934年(昭和9年)、資金難に陥り、ローランド号の製造権利を昭和自動車に譲渡して個人経営に戻ります。川真田も昭和自動車に移籍したと思われ、戦時中はトヨタ自動車工業研究所にて嘱託勤務をします。

ちなみに川真田は、1949年(昭和24年)にトヨタ系列の出資を受けて、愛知県刈谷市でオートバイメーカー「トヨモータース」を設立しています。

キャブトンをOEM製造

1936年(昭和11年)、中川幸四郎商店の依頼でキャブトンを製造開始し、社名をみづほ自動車製作所に改名。他にも、オート三輪のエンジンなどの製造も手掛けます。

ここで、みづほ自動車製作所にとって第1号のオートバイを製造するわけですが、この時点ではオートバイ業界の中でも古株であり、大型車の分野では、陸王や目黒製作所と並ぶトップ3の1社となりました。

日本が戦争に突入すると、みづほ自動車製作所は海軍の指定工場となり、軍からオートバイの製造が禁止され、その後は軍用のエンジンや部品を製造していたようです。目黒製作所もオートバイの製造を中止し、航空機の部品や小型船舶用のエンジンなどを製造していました。3社の中で、軍用として採用された陸王のみがオートバイを生産していました。

1945年(昭和20年)、玉船町の工場が空襲に遭って工場と家族を失い、自らも大やけどを負ってしまいます。それにも負けずに工場を再開させようとして、軍の協力で犬山市に土地と工作機械を手に入れ、工場を疎開させます。

おそらくですが、この時点で、中川幸四郎商店は大阪大空襲の戦災で焼けてしまい、お店を畳んだのではないかと思われます。

戦後復興でビスモーターを製造・販売開始

1946年(昭和21年)、終戦になるといち早く工場を操業させました。

そのとき、川真田から「自転車用補助エンジンを製造してもらいたい」と依頼を受けます。戦時中海軍に納入されていた発電機用小型エンジン(36.4cc)を改造し納品しますが、自分もそれを「ビスモーター」という名称で販売することにします。

当時は闇市が流行していて、商品を運ぶために、自転車でリヤカーを引いていました。そういった、自動車どころかオートバイすら走っていない名古屋市内に、突如、自転車にエンジンを取り付けて走っていたのですから、とても目立ったと思います。

自転車では、重たい荷物を運ぶのに苦労しましたし、当時の道路はアスファルトはありませんので、雨で地面がぬかるんだら自転車では運べません。そういった時代背景の中で、ビスモーターが販売されました。名古屋市内ではオートバイのことを、ビスモーターというほど注目されました。

ビスモーターのエンジンは、同年に販売されたとトヨモーターのエンジンと酷似していましたが、川真田がオリジナルで設計したものでした。

戦後、軍用のエンジンを自転車用補助エンジンとして販売した会社の一つに、本田宗一郎が設立した本田技術研究所があります。本田技術研究所よりも、みづほ自動車製作所の方が、販売開始時期が早かったと思われます。

キャブトンを製造・販売開始

1948年(昭和23年)、みづほ自動車製作所がキャブトンの製造・販売元となり、大型車のキャブトンAH型(500cc)を発売します。

このキャブトンは、戦前のものとほとんど同じデザインや構造でした。しかし、業務用の輸送でエンジンパワーを必要としていた人に売れました。

物資が不足している中、いち早くオートバイの製造に乗り出せたことは、名古屋やその周辺には戦前からのオートバイ部品メーカーが多数あったこと、自社でエンジンを製造していたことが考えられます。

1949年(昭和24年)、ビスモーターは地元名古屋で定着していましたが、ガソリンが配給制だったことや、ビスモーターでは力不足なこともあり、あまり売れなくなり赤字が続きました。そこで、ビスモーターの製造・販売を中止し、キャブトンの製造に一本化しました。

ちなみに、川真田のトヨモーターは、トヨタ自動車系列で販売したため、たくさん売れたそうです。

1950年(昭和25年)に船橋オートレース場が開設され、それを皮切りに園田、長居、柳井、川口、甲子園、浜松、飯塚と、全国各地にいくつかのオートレース場が開設されていきます。みづほ自動車製作所は、協会から研究助成金を受け、オートレース用のエンジンも開発します。

1950年から1952年まで、日本は繊維業界を中心に朝鮮特需に沸きました。キャブトンは、内藤正一が予想したよりも売れたと思われます。

1952年(昭和27年)に、みづほ自動車製作所は海外から工作機械を導入し、ベルトコンベア方式の採用など、設備投資と工場拡張を行い、生産性向上を行いました。同時期に本田技研工業と同じような設備投資を行っています。

同年にガソリンの価格統制や配給統制が廃止されました。また、道路交通法が改正され、軽自動車の免許を持っていたら、4サイクルのオートバイなら250ccまで、2サイクルのオートバイなら125ccまで乗ることができるようになったようです。

また、当時は125ccや250ccといった小型オートバイであっても、性能が向上していきました。前年の1952年には、本田技研工業が4サイクル125ccのドリームE型を開発し、国産オートバイで初めて箱根峠越えを実現しました。

そのようなことから、運搬用として小型オートバイの需要が急激に伸び出しました。つまり、市場はキャブトンといった大型オートバイを必要としなくなっていきました。

一時期業界第3位に浮上

1953年(昭和28年)、内藤正一は「大型オートバイを多くの人に乗ってもらいたい」という思いから、全国統一価格を発表します。

当時は、製造した場所に購入しに来てくださることが当たり前だったので、別の場所に輸送するのにコストがかかり、販売価格がその分だけ高くなっていました。例えば、「工場渡し価格」や「東京渡し価格」という具合に、引き渡される場所によって、価格を決めていました。

この全国統一価格の発表は、後に本田技研工業も他社に先んじて行うのですが、本田技研工業よりも4年も早いものでした。

また、同時にオートバイの価格を3~5万円とも、5~8万円とも言われるぐらい、大幅に値引きを段階的に行いました。目標は、「同じ価格でワンランク上のオートバイが買えるようにすること」でした。

そのころのオートバイの価格は、17~20万円のものがよく売れたそうです。そこで、価格の大幅値下げと、全国統一価格を打ち出します。例えば、キャブトンRTS(600cc)の販売価格は、1953年9月に30万円から28万5,000円にし、全国統一価格としました。それが、1954年6月には21万5,000円で販売されていました。このように、業界でも突飛な価格で販売します。

ともあれ、大幅な値引き戦略によって、1953年から1954年にかけて、生産台数が月産100台と、トーハツ、本田技研工業に次ぐ国内第3位となりました。

無茶な戦略で経営悪化

この頃には1952年に発注した工作機械が工場に届きはじめ、内容は金策が苦手だったように思うので、その支払いに追われていたことでしょう。「優秀な工作機械が入り、生産性が上がることで、増産に対応でき、生産コストが下げられて支払いができる」と単純に考えていたものと思われます。

1954年(昭和29年)には、キャブトンVB1(350cc)、キャブトンRBH(350cc)、キャブトンRL(400cc)、キャブトンRTF(500cc)、キャブトンRK(500cc)、キャブトンRTS(600cc)と、矢継ぎ早に重量級を6車種販売するという無茶をしています。

また、1954年公開の「ゴジラ」第一作目のスポンサーになり、映画の中でキャブトンを登場させています。これにより、みづほ自動車の名前を知らない人が多い中、「キャブトンを知らない人はいない」とまで言われました。

ここで、値下げによる利益圧迫から、部品の品質が悪くなり、オートバイのトラブルが増え、キャブトンに「安かろう悪かろう」のイメージが定着してしまいます。

この時点で、戦後復興の時期はほぼ終了しており、人々はオートバイを荷物運搬用から少しずつ趣味嗜好品へと移りつつあり、品質や性能、デザイン性が重視されるようになってきました。

リリースした種類は多かったのですが、ほとんど違いがないものだったので、目新しさを重視する人にとってはガッカリする内容だったと思います。

そのようなことがあり、市場の流れを大型車志向に変えることはできせんでした。

1955年(昭和30年)、会社を株式会社化します。おそらく、資金調達のためだと思われます。

同年の浅間火山レースでは、500ccクラスで2~4位を占め、大型車の中でも優秀なオートバイであることを証明しました。

小型車を開発するも売れず

1955年(昭和30年)、ここでようやく小型車の開発し、250ccのオートバイをミズホMJ(13万5,000円)とミズホMM25(12万円)と、125ccのオートバイほどの値段でリリースします。また、125ccのオートバイとしてミヅホQM125をリリースします。

オートバイの名称がキャブトンでなく、ミヅホであることにご注目ください。内藤正一に「みづほ」という名称へのこだわりがあったことや、キャブトンはもともと他社の名称だったこともあり、名称をミヅホにしたようです。

みづほ自動車製作所は、知名度のない名称のオートバイを、競合よりも1ランク安い値段で販売したため、ユーザーからは「実績がない」と思われたり、「安いのはすぐに壊れるからではないか」と不信感を抱かれて売れませんでした。

当時は、レースが各地で開催されていました。それらのレースで優勝することで品質や性能が証明され、オートバイが売れる流れになっていました。しかし、内藤正一が大型車にこだわっていたので、大型車が出場できるレースがあまりなく、PRの機会が少なかったと思われます。

また、ようやく小型車の製造を開始しましたが、今からレースのノウハウを身に着けていくことになり、あまり勝てなかった可能性もあります。

その後は、名称をキャブトンに戻し、キャプトンFXP(250cc)、キャブトンFXO(350cc)、キャブトンFXN(500cc)、キャブトンFXT(600cc)と3車種販売します。しかし、キャブトンは「安かろう悪かろう」のイメージが定着していて、これもあまり売れませんでした。

浅間火山レースで優勝できず倒産

1955年(昭和30年)11月、第1回全日本オートバイ耐久ロードレース(第1回浅間火山レース)に出場します。125ccクラスと250ccクラスの出場は見送り、350ccクラスに2台、500ccクラスに4台と、重量級のクラスのみにエントリーしました。結果は、どちらのクラスも、本田技研工業のドリーム号に1位を奪われてしまいました。

350ccや500ccの市場は微々たるものだったので、本田技研工業のようにレースで優勝しても、売上アップはほとんど見込めなかったようです。

しかし、125ccクラスで優勝した新参者だったヤマハYA-1や、250ccクラスで優勝した丸正自動車製造のライラックSYは、売上アップに大きく貢献しました。軽量部門で優勝していたら、この2車種のように、時流は違っていたものと思われます。

みづほ自動車製作所は、部品のほとんどを外注して、自社で組み立てて完成品を提供するアセンブリメーカーだったので、オートバイの性能を高めることができなかったため、レースで勝てなかったと思われます。

オートバイレースの大会に出場するためには、レース用に改造されたオートバイやレーサーの準備、出場費、レーサーやメカニックの宿泊費等で、今の金額に換算して1台当たり1,000万円ほどかかったと言われています。6台出場させたわけですから、5,000万円以上はかかったものと思われます。

浅間火山レースでの優勝が、最後の頼みの綱だったと思われます。

1956年(昭和31年)1月、ついに不渡りを出し倒産を宣言。負債総額は6億円とも9億円とも言われる大型倒産となりました。

その後、債権者によって1960年(昭和35年)まで、オートバイの生産が続けられました。内藤は、細々とオートレース用エンジンを製造するも、1960年に木曽川に投身するという、悲しい最後を迎えました。

みづほ自動車製作所が倒産した根本理由を探る

内藤正一は、とても優秀な技術者だったのにもかかわらず、なぜ、みづほ自動車製作所は倒産してしまったのか。内藤正一の経歴やみづほ自動車製作所の遠隔を見ていると、倒産の根本理由が見えてきますが、その理由をまとめたいと思います。

まずは、みづほ自動車製作所のビスモーターを除く、戦後のオートバイの生産台数の推移をご覧ください。2つの資料を参考にした生産台数です。当時は、半年で1期だったため、前後どちらの年の台数をカウントするかで、生産台数がことなっているものと思われます。

みづほ自動車製作所のオートバイの生産台数(ビスモーターを除く)
資料1資料2
1949年19
1950年58
1951年165
1952年1,149708
1953年8,1245,638
1954年10,73711,484
1955年10,344
1956年2,343
1957年905
1958年503

価格戦略の失敗

1953年(昭和28年)9月に、全国統一価格の実施と同時に、3~5万円とも、5~8万円とも言われるぐらい、大幅な値下げを行いました。「大型なのにワンランク小型のオートバイと同程度の価格で発売する」という価格戦略に打って出たわけですが、この理由は、社長が「大型車をもっと多くの人に利用してもらいたい」という夢があったからでした。この価格戦略により、みづほ自動車は大型オートバイを中心としながらも、一時期業界3位までに成長しています。

なぜ、この時期に値下げを行ったのか。それは、オートバイの在庫を一掃するためだったのではないかと考えます。朝鮮特需が1950年~1952年ですので、1953年には各社とも在庫の山を抱えてしまったことでしょう。この値下げで、案外売れてしまったのではないかと思われます。それに味をしめて、数度目の値下げを行います。

1954年(昭和29年)には大型の新型車種を業界最多の6車種をリリースするという無茶振りでした。しかし、エンジンを同排気量の車種で流用していたため、性能は同じで、消費者にとっては面白味に欠けたものになりました。

この値下げで、販売台数が増え、生産性が高まってスケールメリットで利益アップし、値下げにも耐えられると期待したことでしょう。

しかし、市場は高性能化されてきた小型車へと移っていっていたこと。また、オートバイの性能は他者と比べても遜色ないが、業界最安値を狙っての値下げで部品の品質が落ち、走行中のトラブルが頻発して、「値段が安すぎるのは、それなりの品質だから」という悪い噂が広がって、ブランドイメージと売上高をダウンさせていったことにより、業績がさらにダウンしていきます。

みづほ自動車製作所は、オートバイの車種や排気量が違っても、価格差はあまりありませんでしたので、大型車が売れても利益はほとんどありませんでした。また。市場での大型車の人気が伸びなかったことと併せて、余計に利益が出ませんでした。

販売戦略の失敗

1952年頃までは、オートバイは造れば売れる時代でした。オートバイを製造し、工場の軒先に並べていたら、現金を持った人が工場まで買いに来てくれていました。まさしく、セーの法則が成り立っていた時代でした。

ところが、1953年頃からは、売れるオートバイを作らないといけない時代になり、代理店販売をする時代になりました。なるべく多くの販売店を持ったメーカーが勝ち残っていったのです。

販売代理店では、売れるオートバイを仕入れて、利益をたくさん得たいものです。そのように考える代理店は、価格の安い商品に飛びつくでしょうか。

代理店としては、売れたとしても、利益が出ない商売はあまりしたくはありません。つまり、代理店からそっぽを向かれてしまい、代理店の数を増やせなかった可能性があります。

市場の変化に乗り遅れた

次の表は、国内におけるオートバイ、補助エンジンの生産台数です。1951年からは250cc以下の生産台数が急激に伸びています。250cc以上は、伸びているとしても250cc以下の1/10程度です。また、1954年から生産台数は減ってきていることがわかります。

国内におけるオートバイ、補助エンジンの生産台数(原付を除く)
250cc以下251cc以上補助エンジン
1946年18252 
1947年120326 
1948年709685 
1949年933675 
1950年2,63685112,867
1951年13,6472,32917,232
1952年56.3165,04570,863
1953年110,85614,599275,781
1954年106,73211,674202,505
1955年222,3306,445172,032
1956年  237,032

1951年(昭和26年)頃から、各社のエンジンの性能が向上し、小型車でもパワーが出るようになり、市場の認識が「小型車はパワーがない」から「小型車で十分」に変わっていきました。それにも関わらず、社長が大型オートバイを愛するがゆえに、顧客ニーズへの対応が遅れてしまいました。

朝鮮特需が1950年~1952年ですので、1953年には各社とも在庫の山を抱えてしまったことでしょう。

小型車をリリースするのが、1955年(昭和30年)であり、かなり後発になってしまいました。しかも、名称を「みづほ」としたため、認知されなくて売れませんでした。また、販売網の整備も後手になった可能性があります。

また、1952年(昭和27年)から、自転車用補助エンジンの生産台数が急激に伸びています。この年に、本田技研工業がカブF型を、鈴木式織機(現、スズキ)がパワーフリー号を発売していたことが、大きな要因となっています。

もし、ビスモーターをあと3年間売り続けることができたら、みづほ自動車製作所は躍進できていたかもしれません。

みづほ自動車製作所の倒産理由から見える正しい価格戦略とは?

経歴や遠隔、倒産理由から正しい価格戦略の教訓を学びたいと思います。

顧客マインド

内藤正一は、本田宗一郎と同様に吐出して優秀な技術者でした。にもかかわらず、片や倒産し、片や世界一のオートバイメーカーになっています。

その差は、二人の顧客マインドの微妙な差にあったと思われます。顧客マインドとは、お客様に対する姿勢のことです。

内藤正一は、大型オートバイが好きだったので、それをお客様に購入してもらいたいと考え、値下げして買ってもらえるようにし、大型オートバイを普及することを考えていました。つまり、自分の意見を押し付けるようなものでした。

それに対して本田宗一郎は、もちろんオートバイが好きであったことは同じでしたが、お客様が将来欲しいと思うであろうオートバイを先んじて開発し、それを販売していました。つまり、顧客の要求の変化に先んじて、提案営業しているようなものでした。

内藤正一の顧客マインドは、沈みゆく太陽を引き上げるかのようです。それに対して本田宗一郎は、昇る太陽を待ち受けているかのようです。

このことから、製品開発は、市場と顧客の要求の変化に合わせて行い、自社をイノベーションさせることが正しいスタンスだということを教えてくれます。そのような売れる製品のことを、商品というのです。

市場動向の読みの甘さ

内藤正一は、顧客マインドの間違いから、市場動向の読みの甘さにつながっています。市場の動向に合わせて、小型のオートバイを販売しても良いのにも関わらず、

価格戦略で、「大幅な値引きをすると、顧客は大型オートバイを購入してくれるに違いない」という読みの甘さにつながったと思います。当時の多くのオートバイメーカーでは、このような単純な発想で、直観経営が行われていました。

価格を下げるということは、値引き分だけ利益が減ることを意味します。その分を、生産性向上や仕入れ原価を下げることで対応しようとしました。

その結果、一時的には生産台数は伸びて、国内台3位の生産台数になりました。しかし、生産台数の割に利益が大幅に減ったどころか、赤字になってしまいました。

1950年代に入りオートバイレースが開催されるようになり、レースで優勝するオートバイが売れるようになったことは確かです。しかし、1955年まではあくまでも小型で高性能な運搬用のオートバイが売れていました。

1955年頃から、市場動向として、戦後復興が終えたこともあり、レジャーでオートバイに乗る人が増えてきましたが、市場はまだまだ小型でした。大型オートバイ専門でやるのには早すぎました。実際に大型オートバイが売れ始めるのは、1960年代に入り舗装道路や高速道路ができはじめてからです。

本田技研工業が、初めて排気量250ccを超えるオートバイを製造したのは1955年、ドリームSB(345cc)でしたが、本格的に市販オートバイを開発しだしたのは、10年後の1965年頃からでした。

価格戦略の成否の差とは?

1957年(昭和32年)に本田技研工業は、全国統一価格や2回の値下げを実施し、日本一の売上高に返り咲いています。これは、みづほ自動車製作所が行った方法と同じものでした。しかし、その戦略には大きな差がありました。

なぜ、みづほ自動車製作所の価格戦略は失敗し、本田技研工業は成功したのか。当時のオートバイ市場は、高性能なオートバイが求められていましたが、本田技研工業のオートバイは品質で定評がありました。そして、品質に定評のある販売済みのオートバイを値下げしました。

それに対して、みづほ自動車製作所では、ほとんどモデルチェンジできていない新商品を、前モデルよりも値下げして販売するという作戦に出て、それを短期間で連発させていきました。そして、オートバイの品質まで下げてしまいました。

一方、本田技研工業が全国統一価格と値下げを行ったときは、高性能な工作機械の導入と生産体制の増強によって、日本最高の開発力と品質、生産力を持ち、販売体制も自社で構築し、値下げに打って出られる体制を整えていました。それによって、品質を下げることは、本田宗一郎が許しませんでした。

本田技研工業の品質に関する哲学「120%の良品」

本田技研工業では、「120%の良品」という品質に関する哲学があります。統計学に100%を超えるものはありませんが、120%というものは「絶対に不良品は出さない」という本田宗一郎の気持ちの表れです。

「120%の良品」は、1953年(昭和28年)3月のホンダ月報に、公式に述べられました。

「・・・

製品をお買い求め下さる方にとっては、その製品は2200分の1でもなければ、1万分の1でもない、1分の1であり、その1台が本田技研の全技術と全信用を担う1台である。

お客様にとっては、お手に渡った1台が本田技研そのものなのである。たとえ何千台、何万台の中の1台であっても、何千、何万分の1であるといっても許していただけないのである。

何千分の1、何万分の1台の不合格品を許さぬためには、どうしても120パーセントの良品でなければならない。

・・・」(抜粋)

このエピソードからは、本田宗一郎の顧客マインドの高さと、社員への徹底ぶりが伺えます。

1954年4月、本田技研工業は浜松市葵町に2万坪の新工場(浜松製作所葵工場)を稼働させます。その工場では、組立工員よりも検査工員の方が、人数が多かったと言われています。それだけ、品質にこだわっていました。

本田技研工業の実質的な経営者でナンバー2の藤沢武夫(ふじさわたけお、1910~1988年)氏による、市場動向の読みと販売力、生産調整力が合わさり、国内生産で不動の一位となりました。

本田宗一郎は品質の高いオートバイの開発に専念できたのは、戦略をすべて藤沢武夫に任せ切っていたからです。また藤沢武夫は、開発を本田宗一郎に任せ切っていて、生涯お互いにほとんど口出ししませんでした。本田宗一郎は、藤沢武夫と組むことを決めた瞬間に会社の実印を預けてしまい、それ以来触ったことがないと言われているぐらい、藤沢武夫を信頼し切っていました。

藤沢武夫のような任せ切ることができる戦略家のいない内藤正一は、本来なら開発、生産、営業、販売、経理、資金調達、人事など、すべて自分が管理しないといけない状態でした。

さて、オートバイの値下げと需要の関係を見ると、みづほ自動車製作所はニーズが減っていった大型車で値下げを行い、品質まで下げています。ところが、本田技研工業は需要が伸びていた小型車で値下げを行い、品質はそのまま維持しています。

ニーズが減ったものを値下げしても、販売数が伸びることはほんの一時的なものでしょう。販売力の弱いみづほ自動車製作所での販売は、代理店に頼るしかないのにも関わらず、代理店がそっぽを向いてしまうような価格戦略を打ち出してしまいました。

藤沢武夫の価格戦略

本田技研工業では、戦略家とも言える藤沢武夫が需要の伸びている商品で値下げを行い、いっきに市場を独占していっています。しかも、その値下げのタイミングは、公定歩合の引き上げのタイミングに合わせて、かつ生産体制や販売体制、資金繰りの状態を確認して行われ、他社の追従を許さないものにしました。

1957年(昭和32年)3月と8月、日銀は2度の公定歩合引き上げを行い、銀行の金利が上がりました。その2度のタイミングで価格を下げたのです。

公定歩合が上がると、銀行からお金を借りるための利子が高くなり、企業は銀行から資金調達がしにくくなります。すると工場の設備投資がしにくくなり、生産性向上が難しくなります。しかし、オートバイの価格を下げるためには、生産性向上が必要です。親会社がなかったり、資本家の力が弱かったりしたオートバイメーカーは、銀行からお金が借りにくくなったら、オートバイの価格を上げたいところです。オートバイ価格を据え置いても、本田技研工業のオートバイのみが売れていくのを、指をくわえて眺めることになってしまうのに、オートバイ価格を上げたらたちまち倒産です。

3月の1回目の値引き交戦は、体力のあるオートバイメーカーは、なんとかついていけたようです。8月の2回目の値引き交戦では、資金力があり生産体制を高め、値引きに追従できたオートバイメーカーのみが生き残ることができました。当時100社あったオートバイメーカーは、3年後の1960年(昭和35年)には35社に減ってしまったようです。

当時の本田技研工業には、販売代理店がたくさんありました。藤沢武夫の性格からすると、販売代理店にはあらかじめ値下げを打ち出すことを伝え、すると販売台数が大幅に伸び、結果的に代理店の収益になることを、根回しをして了解を取っていたことでしょう。

ここから、値下げに打って出て成功できる企業の条件が伺えます。内藤正一氏も倒産後に「当社にも藤沢武夫がいたら」と感じたに違いありません。

みづほ自動車製作所が取っておくべきだった方針

後だから言えることですが、みづほ自動車製作所が取っておくべきだった方針を考察したいと思います。

一つ目は、値引き販売については、一斉に値下げをするのではなく、テスト販売で1車種だけに絞って、廉価版を開発して行うべきでした。

廉価版のテスト販売の動向を見て、「値引きをしたらどれぐらい売れるようになるのか」「その場合の利益性はどうか」を分析して、次のようなことを検討してから、一斉値下げを行うかを決めても良かったはずです。

  • 一斉値下げでどれぐらい販売台数が伸びそうか?
  • 工場がフル稼働をしたときに、必要な収益を得られるか?
    • レースに出場する費用は捻出できるか? 勝てる見込みはあるか?
    • 値下げをしても、開発や設備投資を続けられるか?
  • 販売代理店にとって魅力的な利益が得られるのか?

二つ目は、「みづほ」の名称でも良いので、市場動向に合わせて小型車のラインナップを増やし、キャブトンの車種を絞るべきでした。一斉値下げの前に、市場動向に合わせてラインナップを増やすべきでした。

三つ目は、値下げや生産性向上、原価率を下げることよりも、販売に力を入れるべきでした。いくら優秀なオートバイを製造しても、店頭に並んでいなければ売れませんので、販売代理店を増やしていくことを同時にすべきでした。

競合他社が無謀な価格戦略を仕掛けてきたら?

大型車を製造していた、陸王や目黒製作所にとっては、みづほ自動車製作所が取った無謀な価格戦略に、迷惑被ったことでしょう。

陸王の生産台数は、みづほ自動車製作所の価格攻勢により、販売台数を伸ばせずにいました。目黒製作所は、市場の動向を読み取って、125ccや250ccを販売していたために、直接のあおりをあまり受けていません。

このような無謀な価格戦略を仕掛けてくる企業が、ときどき散見されます。その場合には、その価格戦略の性質を見抜いて対応する必要があります。

もし、大企業が値下げによる価格戦略に出てきたら、相手は体力があるので、それに直接対抗してはいけません。こちらは高品質・高価格を狙っていくように、対象顧客を絞り込んで対抗します。

小さな会社が値下げをしてきたら、その価格で相手は耐えられるのかどうかを分析します。相手は事業を継続できるのであれば、こちらは生産性を高めたり、顧客サービスを強めたりする必要があります。相手が赤字覚悟で一時的な交戦を仕掛けてきたのであれば、相手との根競べの体力を計算したら良いでしょう。

新しい知識の活用による産業の興隆は淘汰の時代が来る

戦後日本のオートバイ産業のように、新しい知識の活用による産業の交流は、設備投資、生産性向上と性能向上の競争、世界企業との戦いの末、国内では強い数社が生き残るようです。

オートバイ産業が最盛期の1953年(昭和28年)には、204社あったと、本田技研工業の2代目副社長を務めた西田通弘(にしだみちひろ、1923~2019)氏の著書「語りつぐ経営―ホンダとともに30年」(講談社)に記載されています。一説によると、300社を超えていたとも言われています。

今や、オートバイを市販している会社は、国内に4社しか残っていません。

こういった厳しい時代が、産業が生まれてから10年ほどでやってくることは、マネジメントの生みの親であるピーター・ドラッカーが「イノベーション7つの機会」で指摘しているところです。すでに産業として残っているところは、数社しか生き残っていません。現在で言えば、半導体の生産に手を出す起業家は少ないことでしょう。

「大好きな大型オートバイを多くの人に乗ってもらいたい」という夢を持った内藤正一、世界一のオートバイメーカーになり、人々の生活を支え日本人の希望となることを志とした本田宗一郎。二人は、それに本気で取り組みました。その結果、みづほ自動車製作所は倒産し、本田技研工業は世界一のオートバイメーカーとなりました。

以上、みづほ自動車の倒産理由から見える正しい価格戦略の正しい考え方についてまとめました。ご参考になったでしょうか?

このように、1950年代のオートバイメーカーの攻防を調べていると、現在にも活きる教訓を得ることができます。内藤正一氏に感謝いたします。

中小企業の社長で価格戦略で迷ったら、経営・集客コンサルタントである私に、スポット対応でご相談ください。業界や市場、顧客、貴社の事情を分析しつつ、このコラムのような過去の事例などを交えて、貴社にとって最適な価格戦略をアドバイスさせていただきます。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

経営全般からマーケット分析、集客コンサルティング、SEO対策、SEOコンテンツ・マーケティング、ホームページ制作等を主に行っています。Web集客と併せて、新商品開発やブランディングの支援など、クライアント企業が競合企業に勝つためのコンサルティングを提供しています。

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