コンサルタントへの道

本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶトップとナンバー2がうまくいく条件

投稿日: / 最終更新日:

本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶトップとナンバー2がうまくいく条件

小企業が急成長して大企業になるため、またトップの大きな夢を実現するために必要な人材がいます。

それは、理想のナンバー2です。

明治から平成にかけて急成長した企業を見ていると、必ず能力の高いナンバー2の活躍があります。

有名な大先輩で、その一例を述べると

トップナンバー2
豊田佐吉石田退三
松下幸之助高橋荒太郎
井深大盛田昭夫
本田宗一郎藤沢武夫

今現在、一代で会社を大きくされた社長であれば、ナンバー2の存在や、その人物の能力を否定なさらないことでしょう。

ナンバー2は、トップを支える人材であれば誰でもよいかと言えば、そうではありません。

当社では2021年4月に、本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶ、「トップの夢を実現するための条件」という名称で経営者研修を行いました。そのため、本田宗一郎と藤沢武夫について、緻密に分析しましたので、そのお二人を題材として、トップとナンバー2がうまくいく条件を考察したいと思います。

トップとナンバー2がうまく連携できたら

トップとナンバー2がうまく連携できると、今まで以上に会社が成長します。会社の経営者がトップ独りの場合、またはトップと同じような性質を持った人ばかりの経営陣だと、会社の従業員数が30人以になることは難しいと聞きます。

ナンバー2が入り、トップと馬が合い、連携が取れるようになると、会社は成長して30人の壁、10億の壁などの、経営の壁を突破していくことができるようになります。

本田技研工業の場合には、終戦直後の本社が浜松市にあり、藤沢武夫が参画する前は、売上高は3,500万円程度(現在の価値に換算して3億円程度)、従業員数が35人前後と、小さな会社でした。

1949年、本田技研工業に藤沢武夫が参画。それから4年後、従業員数が2,200人ほどの約60倍に急成長、売上高も77億円ほどの約220倍へと急成長しています。

本田技研工業に藤沢武夫が参画して4年後、従業員数が約60倍、売上高も約220倍へと急成長

このように、トップとナンバー2がうまく連携できると、会社は急成長する場合があります

この記事をお読みの方の中には、知り合いや兄弟・親戚などと会社を共同経営し始めたところ、1~2年ほどでうまくいかなくなった経験をお持ちの方もいることでしょう。当初は「共に大企業を夢見て」と始めるのですが、1~2年で終了することがほとんどです。また、そのような経験があることで、自分に必要なビジネスパートナーを明確にイメージすることができます。

この記事が、今まで会社が大きくならなくて悩んでいたり、会社や事業を大きくしたりしたいと思っている社長、これから会社を立ち上げて大きな事業にしていきたいと思っている起業家だけでなく、今まで誰かと共同経営をしてうまくいかなかった社長、もしくは元ナンバー2の方に、参考になれば幸いです。

それでは、本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶ、トップとナンバー2がうまくいく条件について、間違いを恐れずに述べたいと思います。

条件1. 年齢差がそれほどない

まず、条件の1つ目として年齢差をあげたいと思います。本田宗一郎と藤沢武夫が出会ったときの年齢は、それぞれ42歳と38歳です。年齢差は4歳です。

もし、年齢差が開きすぎていたらどうでしょうか。

例えば、本田宗一郎と藤沢武夫の年齢差が20歳もあったら、本田宗一郎は藤沢武夫を信頼しなかった可能性があります。二人は、ある程度近い年齢だったので信頼して組むことができたのではないかと思います。

本田宗一郎は30代中頃に、石田退三と共に仕事をしています。石田退三は、後に豊田自動織機やトヨタ自動車の社長を務めた人物で、トヨタ自動車の大番頭とも言わる人です。そのときの本田宗一郎と石田退三のぞれぞれの年齢は35歳と53歳。石田退三が18歳年上です。

本田宗一郎(29)は、1936年にピストンリングの研究を開始します。1939年に製品化に成功し、東海精機重工業株式会社(現在の東海精機株式会社)を設立し、社長に就任します。その直後、豊田自動織機の自動車部門(後のトヨタ自動車)で使用するピストンリングの調達で、二人は出会いました。

石田退三は、本田宗一郎のことを「豊田佐吉のような人だ」と人物を見抜きます。また、本田宗一郎は石田退三の資金調達の仕方に感心しています。

その後、豊田自動織機からの出資によって石田退三が社長となり、本田宗一郎は専務に降格されてしまいます。終戦前には、本田宗一郎は、終戦直前に東海精機重工業の株式をすべて売却して退社しました。

このエピソードは、トップとナンバー2が入れ替わったケースです。

石田退三はすでに豊田自動織機のナンバー2であったこともありますが、トップの年齢が18歳もの年下では幼く見えてしまい、ナンバー2はトップを支えることはできないでしょう。やはり、トップの方がナンバー2よりも年齢が若干上、もしくは年齢差がほとんどない方がうまくいきやすいと思います。

もし、トップの年齢が若い場合には、トップはナンバー2が認めるぐらいの徳が求められます。

条件2. お互いに事業家である

2つ目の条件として、トップやナンバー2が、それぞれ事業家である。つまり、事業ができる、もしくは、事業を行ってある程度成功していることです。

「事業ができる」とは、自分で事業を興し、家族の生活を成り立たせ、従業員や取引先などが潤うように仕事を生み出せることです。

もし、どちらか片方に事業経験や能力が足りなかったら、相方に依存しすぎてバランスが取れなくなる場合があります。すると、トップとナンバー2の関係がうまくいかなくなり、優秀な方が去っていきます。たいていは、ナンバー2の方が優秀ですので、ナンバー2が去っていきます。

本田宗一郎は、終戦直後に一時期引退を考えますが、開発への情熱が冷めず、東海精機重工業の株式を売却したお金を資金として、本田技研工業の前身となる本田技術研究所を立ち上げました。その直後に、自転車用補助エンジンを開発して大ヒットし、従業員が35人前後までになります。

一方、藤沢武夫は、切削工具を製造する会社を東京で立ち上げ、成功させています。また、疎開先の福島県で木工の会社を立ち上げ、数名の工員を雇い、主に進駐軍と取引をするほどに成長させました。

本田宗一郎と藤沢武夫は、各々独りでは、戦後で貧しいながらも、従業員をかかえて食べていくことができていたようです。

お互いに「自分独りになってもなんとかできる」という思いがあると相手に依存しすぎませんし、実力差もあまりないので、相手の実力が成長するまで待つこともありません。二人が組んだときに、お互いに、すぐさま能力を発揮することができます

条件3. お互いに持っていない能力を持っている

3つ目の条件として、お互いに持っていない能力を持っていることをあげたいと思います。

本田宗一郎は超一流の製品開発力や製造技術を、藤沢武夫は販売と金策に対する高い能力を持っていました。

小さな会社のときに、社長独りで把握しなければならない業務は、次の4つです。

  1. 開発
  2. 販売
  3. 経理・財務
  4. 人事

これらの中で、社長が得意なことはたいてい2つまででしょう。新しく会社を立ち上げるのであれば、できれば、開発と販売が得意な社長が望ましいです。

これが、大企業になってくると、項目が増えます。

  1. 開発
  2. 生産
  3. 営業・販売
  4. 経理・財務
  5. 人事
  6. 広報

社長は、せいぜい2つしか把握できないため、社長独りでは大企業を創ることが難しくなります。そこで、経営幹部で分担して把握しなければならなくなります。藤沢武夫を得た本田宗一郎は、開発に専念することができました。まさに、水を得た魚です。

本田技研工業が日本有数の企業に成長したころの本田宗一郎は、この6つの項目の中で、「開発」を100%、「生産」と「広報」をそれぞれ30%ほど把握していたものと思われます。そして、その他のすべては、藤沢武夫が把握していました。

このように、経営に関してはナンバー2はトップよりも優秀であることが多いものと思われます。

条件4. お互いに尊敬しあえる

4つ目の条件に、お互いのリスペクトをあげたいと思います。やはり、尊敬できる何かがあり続けることで、共に共同経営ができます。尊敬しあえるかどうかは、今まで述べてきた、条件1と条件3も、尊敬できるかどうかの要点でもあります。

年齢差がありすぎたら、尊敬しあえることが難しくなります。ある程度の近しい年齢が望ましいです。そして、自分がボトルネックと感じている能力を相手が得意としていることは、大きな尊敬に値します。

本田宗一郎と藤沢武夫の二人は、お互いに戦前からの知り合いであった竹島弘の仲介のもと、竹島の自宅で会い、わずか10分ほどで意気投合し、共に事業を行うことを約束します。

その後、藤沢武夫が浜松を訪れ、4回に渡り本田宗一郎と夢や事業内容、未来の計画などを話します。最終日、本田宗一郎は藤沢武夫に会社の実印を預けます。

この速さは何でしょうか。

それはお互いに竹島を信頼していたこともありますが、それとは別に、お互いに事業で苦労し人物で失敗してきた中から教訓をつかんできたために、自分に必要なパートナーを見抜く人物鑑定眼を身に着けていたのでしょう。

藤沢武夫が参画する前の本田宗一郎は、苦手な金策を自分で行わなければなりませんでした。技術屋特有とも思われる営業や集金の苦手さには、本田宗一郎自身も経験していたようです。それゆえに、資金繰りにも苦労し、トップが超一流の技術を持っていたにもかかわらず、会社は大きくなりませんでした。

そのような苦手なところを、すべて藤沢武夫が得意とするところだったので、本田宗一郎は研究開発に没頭できるようになり、世界一のオートバイやエンジンなどを生み出し続けることができました。

では、藤沢武夫においてはどうでしょうか。藤沢武夫は、自身で立ち上げた会社にて、商品開発で苦労した経験があります。

藤沢武夫は、営業で実績を重ねた後、28歳のときに軍需による切削工具の需要増加を見込んで、匿名組合「日本機工研究所」を設立しました。

このとき、軍の紹介で切削工具を製造できる技術者と組んで起業したのですが、その者は話に聞いていたのとは程遠いほどの技量不足でした。

藤沢武夫は、仕方なく自分自身で金属加工技術を身に着け、苦労しつつも品質の高い切削工具を完成させました。

このとき藤沢武夫は、自身の強みは何かを知り、どのような人と組むべきかを学んだものと思われます。

このように、超一流の経営者と言われる方であったとしても、経営を始めたばかりの頃は、パートナー選びで失敗し、そこから教訓を習得していくようです。

ちなみに、藤沢武夫はこのときに品質の高い部品を製造することで評判となり、当時の花形企業であった中島飛行機との取引に成功しています。このときに、仕入れ担当であった竹島弘と出会っています。

同時期、本田宗一郎は、ピストンリングを中島飛行機に卸していたので、そのときに竹島弘と知り合ったものと思われます。

先ほども述べたように、竹島弘を通じて二人が出会うことになりまs。

条件5. トップの大きな夢をナンバー2が共有できる

5つ目の条件に、トップに大きな夢があること、そしてナンバー2は「その夢の実現を自分の夢とすること」をあげたいと思います。

トップとナンバー2の夢の方向性が一致しない場合、二人はいずれは離れていくことを意味します。ですので、最初はうまくいって会社が大きくなったとしても、10年ほどでトップの元をナンバー2は離れていくことがあります。

藤沢武夫は、本田宗一郎と出会ったときに、次のように述べています。

私も商売人ですから損はしませんよ。それは、金じゃなくて何か実りをつかみたい。

藤沢の夢は、「超一流の技術と大きな夢のある人物とともに、その夢を実現すること」でした。そして、このセリフは、豊かさも貧乏も経験してきた中で、お金の作り方を心得ている経営者だから言えることだと思います。

もちろん仕事で生活費を稼ぐことは大切です。しかし、優秀なナンバー2はお金だけを求めて事業をすることを超えて、崇高な理念に導かれて合流するものだと言えます。

条件6. 参画してからすぐに実績を出す

ナンバー2は、いきなり経営幹部として会社に参画するため、古参の経営幹部たちにとっては不愉快な話です。ですので、イジメに遭うことが多く、なるべく早く実績を出さなくてはなりません。

1949年に藤沢武夫(39)が経営陣として参画した直後、経理担当からイジメに遭います。

本田技研工業は、最初の資本金が100万円でした。そこに、藤沢が用意した100万円を増資します。藤沢武夫と本田宗一郎との打ち合わせでは、そのお金で東京進出をすることになっていました。

ところが、経理担当者から「今の本田技研工業には東京に進出するお金がない」と言われ、なかなかお金を出してくれませんでした。そこで、藤沢武夫は東京に進出するお金を別にかき集めて、1950年に本社を浜松から東京の八重洲に移し、東京進出を果たします。

藤沢武夫が提案したカブF型

翌年の1951年、東京都北区に東京工場を開設します。新工場の設立は、地主との交渉により銀行に頼らずに成功しています。新工場ができ、本田宗一郎は藤沢武夫のアドバイスにより、4サイクルエンジンのドリーム号を開発し、売上を伸ばします。翌年の1952年に、カブF型(写真)を開発します。

藤沢武夫は、斬新なアイデアで全国に販売代理店網を構築。見事に販売し、オートバイメーカーとして日本一の売上高、世界第二位の売上高に急成長させることに成功しています。

藤沢武夫は、これほどの実績を出したため、古参の経営陣からは何も言われなくなりました。

これほどの実績を出した後でも、藤沢武夫は更なる実績を求めて、次のミッションに入ります。そして、自ら経営の勉強や他社研究を続けるのです。

条件7. ビジネス仲間以上友達未満

藤沢武夫は、晩年に本田宗一郎のことを、ビジネスパートナーでなく「友達だ」と言っています。しかし、一般的な友達付き合いという妥協したり安易になったりするような関係ではビジネスはうまくいきません。かといって、ビジネス仲間という表現では、若干空虚な感じがします。

本田宗一郎と藤沢武夫は、共に経営を始めたころは毎日のように夢を語り合いました。ところが、本田技研工業が大企業になってからは、ほとんど会うことはありませんでした。二人が仲たがいしたと噂されるほどでした。

このエピソードからも、二人は一般的な友達という感覚ではないと言えます。そこで、条件7として「ビジネス仲間以上友達未満」と表現しました。

この関係性が、単なるお金での結びつきでなく、そして妥協を許される関係性でもない、本田技研工業の急成長の原動力を生み出したのだと思います。

本田宗一郎や藤沢武夫は、お互いにプライベートな話題はしなかったようです。もしくは、お互いにプライベートを公言しなかった、ということかもしれません。特に藤沢武夫のプライベートについては、多くの文献を紐解いても、ごく一部にしか記載されていません。

藤沢武夫先生に敬意を払い、プライベートな話題はここでは述べないことにします。

ナンバー2の条件には、さらに重要なことが、あと5つほどあります。

それらを述べるにはページが長くなってきたため、ここでキーボードを置き、当社主催の研修に譲りたいと思います。「トップの夢を実現するための条件」研修と、またはナンバー2の発見や育成に特化した「理想のナンバー2の条件」研修を2022年に行う予定です。

あと5つほどの条件は、ここに述べたことを補完する内容で、トップとナンバー2をより高い位置から俯瞰したときに見えてくる条件です。

開催予定の研修は、理想的なナンバー2を会社に迎え、会社を大きく成長させるための人材論です。会社を成長させたいとお考えの社長や、これから共同経営を考えている起業家まで、多くの方に受講していただきたい研修です。

次回は、2022年の4月、ツインリンクもてぎでの開催を予定しています。研修の詳細が決まりましたらご連絡を差し上げますので、ぜひお問い合わせください。

お問い合わせは、お電話(03-6821-1277)もしくはお問い合わせフォームにて承っております。

平野亮庵

チームコンサルティングIngIng 代表
Web集客コンサルタント

平野 亮庵 Hirano Ryoan

Web集客だけでなく、新商品開発やブランディングの支援など、クライアント企業が競合企業に勝つためのコンサルティングを提供しています。チームコンサルティングIngIngでは、各コンサルタントが持つ技術や理論の体系化やサービス開発を担当しています。


「コンサルタントへの道」一覧に戻る

ページトップ