会社を経営していて、「会社を成長させたい」とお考えの社長は多いことと思います。
いくつもの急成長した企業の社史を分析していると、会社が成長する共通の要因として、「優秀なナンバー2が在籍している」ということがあげられます。
組織経営をされている社長に「ナンバー2はいますか?」と質問したら、ほとんどの社長は「いる」と答えられることでしょう。そのナンバー2は、2番目のポジションにいるだけなのか、それとも、優れたナンバー2であるのかは、別の話しになります。
「当社には、優れたナンバー2がいる」とおっしゃる社長もいますが、そのナンバー2が本当に優れたナンバー2であることは、実のところ稀です。
なぜなら、優れたナンバー2がいたら、会社は急成長するからです。
もし会社が急成長していないのであれば、本当のナンバー2ではありません。社長の雑用をこなしてくれる秘書役であったり、別の部門を任せ切って社長と連携が取れていない部門長であったりと、ナンバー2と称していてもナンバー2としての役割が果たせていない可能性があります。
この記事では、主に優れたナンバー2との出会い方や、優れたナンバー2が入社したらどういったことが起こるのか、優れたナンバー2の条件について、本田技研工業を創立された本田宗一郎先生(1906~1991)と、その経営を支えられた藤沢武夫先生(1910~1988)を例にご説明いたします。
本物のナンバー2と経営参謀の違い
よく、ナンバー2と経営参謀が混同されて述べられていることがあります。私自身、本田宗一郎と藤沢武夫について詳細に調査するまでは、ナンバー2と経営参謀が同じような位置づけの人材だと思っていました。
ところが、藤沢武夫について調べれば調べるほど、本物のナンバー2は一般的な経営参謀とは、明らかに格が違っているのです。
本物のナンバー2と経営参謀の違いは、まだ明確にはご説明できませんが、おそらくは社長との付き合い方が大きな違いだと思います。
藤沢武夫は、引退後の講演会にて本田宗一郎のことを「最高の友達だ」と述べています。本田宗一郎はそのことを否定していません。
本田宗一郎は、家族づきあいをしている友人を、自宅近所の鰻屋によく連れて行ったようです。ところが、鰻屋の女将談によると、「うちには、藤沢武夫が来たことはない」そうです。
つまり、本田宗一郎と藤沢武夫は、共同経営を始めた頃は単なる「社長とその部下」や「ビジネス的な関係」を超えて、夢を語り合い寝食を共にしていたぐらいの友人であったけれども、「ビジネスの関係だ」ということを割り切って、家族づきあいまでは積極的に行っていなかったことが分かります。
トップとナンバー2は、完全に信頼し合い出処進退まで共にする、「ビジネスの関係以上、友達未満」といった関係なのだと思います。
経営参謀は、社長とはそこまでの関係ではなく、あくまでも社員や一時的なアドバイザーとしての扱いなのだと思います。
本田宗一郎と藤沢武夫の運命の出会い
本田宗一郎と藤沢武夫は、竹島弘を通じて会うことになります。
もともと、藤沢武夫は工作機械の刃物を製造する会社を経営していました。本田宗一郎は、ピストンリングを製造する会社を経営していました。どちらの会社も、中島飛行機に納品をしており、その担当者が竹島弘でした。
藤沢武夫は、本田宗一郎の天才的な発明家であることを竹島弘から聞いていたので、「いずれは、本田さんのような人と組んで仕事がしてみたい」と考えていました。
藤沢武夫と竹島弘との偶然の出会い
そして戦後の焼野原がまだ残る東京で、新規事業の可能性を求めて藤沢武夫が上京したときに、市ヶ谷の道端で偶然にも竹島弘とすれ違ったのです。
藤沢武夫はすぐさま竹島弘を追いかけました。お互いに「生きていたか」と、仕事を忘れて3~4時間ほど近況報告を兼ねて話し込んでいました。その中で、藤沢武夫がふと本田宗一郎のことを訊ねたようで、次のような会話があったのだと思います。
藤沢「そういえば、本田さんはどうなさっているのですか?」
竹島「本田さんは生きているよ。浜松でオートバイメーカを始めたよ。」
藤沢「そうなんですね。ぜひ本田さんに会ってみたいな。いっしょに事業がしたいといつも考えていたんです。」
竹島「わかった。連絡しておいてあげるよ。」
藤沢「ぜひお願いします。」
藤沢武夫は、まさしく強運の持ち主だったと思います。その運をつかむ早さも、運を引き寄せるポイントなのではないかと思います。
そのころは、本田宗一郎はドリームD型という本格的なオートバイを初めて製造した頃でした。
「世界最高のエンジンを開発したい」と考えていた本田宗一郎は、徹底してパワーが出て壊れにくいエンジンの開発にこだわりました。
その甲斐あって、評判の良いオートバイとなり、売れることには売れたのですが、オートバイの開発に資金を使い果たしたことや、またドリームD型の代金を踏み倒されることもあり、資金繰りは綱渡り状態でした。
本田宗一郎は、竹島弘に「財務とか販売とかやってくれる人はいないかな?」と相談していたのです。
二人の初対面からわずか10分で意気投合
当時、荻久保にあった竹島弘の自宅で二人は会うことになりました。そして、なんと10分ほど話したところで意気投合したのです。
二人の会話の内容は、藤沢武夫の著書「経営に終わりはない」の中に記載されています。
本田「金のことは任せる。交通手段というものは、形はどう変わろうと、永久になくならないものだ。けれども、何を創り出すかということについては一切掣肘(せいちゅう)を受けたくない。おれは技術屋なんだから。これは、タンスだの呉服を売るのとは違って、人間の生命に関することなんだから、その点にいちばん気をつけなければならないと自分は考える」
藤沢「それじゃお金のほうは私が引き受けよう。ただ、今期いくら儲かる、来期いくら儲かるというような計算はいまたたない。基礎になる方向が定まれば、何年か先に利益になるかもしれないけれど、これはわからない。機械が欲しいとか何がしたいということについては、いちばん仕事のしやすい方法を私が講じましょう。あなたは社長なんですから、私はあなたのいうことは守ります。ただし、近視的にものを見ないようにしましょう」
本田「それはそうだ、おたがいに近視的な見方はしたくないね」
藤沢「わかりました、それでは私にやらせてくれますか」
本田「頼む」
これで、二人はいっしょに事業をやることが決まりました。
なぜ10分ほどでお互いに意気投合できたのか?
この決断の早さは、何でしょうか?
お互いに志があり、自分自身のボトルネックで苦労してきた経営者だったこと、お互いの強みを知っていて、二人が組むことで弱みを打ち消し合えること、二人ともチャンスをモノにする行動の早さが理由だと思います。
本田宗一郎は、そのときに考えたことを次のように述べています。
「顔を見ていいと思ったよ。食うか食われるか、どうにも困っているときだから真剣ですよ。数分話したら、僕とは違う性格だとわかったから、これはいいと思った。」
お互いに真剣勝負で事業経営をされているので、お互いが本物の人物だと見抜けたのだと思います。本田宗一郎は、軽い気持ちで「会社が大きくなったらいいな」というものではなく、本気で世界企業を目指していたのです。
意気投合したとしても、お互いに会ったのは、わずか10分ほどです。それでビジネスをいっしょにやれるぐらいの信頼はまだしていなかったと思います。
本田宗一郎の提案で、浜松にある工場を視察してもらえるように伝え、その場は別れました。
視察をさせてもらって、本田宗一郎の得意なことや不得意なことを把握し、それを補うことができるのかを推し量ろうとしました。
藤沢武夫は本田宗一郎の何を見て彼を信頼したのか?
藤沢武夫は、4回にわたって浜松に赴いて、今後のことを話し合いました。その間に、本田宗一郎の魅力に陶酔することになります。
さち夫人が出したうどんのエピソード
藤沢武夫が浜松に行ったのが、初めての面会から数日のことです。時期は8月で、終戦からちょうど4年です。
藤沢武夫が浜松に滞在した2泊3日の期間は、おそらく本田宗一郎の自宅で寝泊まりをすることになったと思います。初日は、本田宗一郎の自宅でお昼をいただくことになりました。
本田宗一郎の自宅は、壁に穴が開いているぐらいのボロボロで、部屋の中は子供が走り回っている状態でした。本田宗一郎の着ている作業着も、ところどころ穴が開いている状態です。
そのうち、さち夫人の手作りによる、ざるうどんが出されました。まだ闇市が横行していた時代を考えると、山盛りのうどんは、貴重なものだったことでしょう。
藤沢武夫は、思わず「こんなにいっぱいのうどんを出していただいて、申し訳ないです」というような言葉をかけます。
すると、さち夫人は「自宅の庭で取れた小麦を使ったものですから、ご遠慮なさらずに。」と気遣ってくれました。
それを見た藤沢武夫は、「初めて会う私なんかに、こんなにたくさんのうどんを出してくれた。本田さんは、この奥さんに支えられているんだな。このような奥さんがいる本田さんは信頼できる。」と感じたそうです。
夢を語り合った3日間
最初の浜松の訪問は3日間でした。本田宗一郎と藤沢武夫は、本田技研工業の工場を見学しつつ、夢について語り合いました。藤沢武夫は、後にこのように述べています。
「私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎと出てくる。それを実行に移してゆくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。」
本田宗一郎は、藤沢武夫に「世界に負けないものを製造すること」という夢を語っている。おそらく、マン島TTレースのこと、F1に出場して優勝したいこと、飛行機を製造したいことなどを語ったと思われます。
藤沢武夫は、そのときに「本田宗一郎の夢を実現してあげたい。私はお金でない何かの実りを得たい。」と考えたようです。
4回の訪問の後、本田技研工業の実印を渡したエピソード
4回にわたり、夢を実現するために東京進出することや、新工場を東京に建設することなどを話し合い、藤沢武夫が経営する会社を譲渡し、10月から本田技研工業に入社することに決まりました。
その日の別れ際に、本田宗一郎が「ちょっと待ってくれ、これを持っていってくれ」と述べ、作業着の胸のポケットから本田技研工業の実印を取り出し、藤沢武夫に手渡してしまったのです。
本田宗一郎は、心底信じ切った相手には、こういう接し方ができる度量がありました。
実印を受取った藤沢武夫は、あまりにも唐突なことで一瞬呆然としてしまったようです。その後、実印を受取った意味をかみしめ、「必ず本田さんを世界に送り出してやる」と誓ったことと思います。
それ以来、本田宗一郎は本田技研工業の実印を手にしたことがなかったそうです。
藤沢武夫が本田技研工業に入社して最初にした仕事とは?
お待たせしました。ここから、優れたナンバー2が入社したときの急成長の話が始まります。
東京進出のための資金づくり
藤沢武夫が最初に行なった仕事は、東京進出の準備です。藤沢武夫の手持ちの資金に知り合いから融通してもらった資金を足して、増資用の資本金100万円をかき集めました。
その資金で東京進出をしようとしたのです。
なぜ東京進出なのか。
本田宗一郎が開発したオートバイを見た藤沢武夫は、「これなら浜松だけでなく、日本国中で売れるに違いない。そのためには東京で販売をしないといけない。」と考えました。
ところが、この増資した100万円を、経理担当者に没収されてしまったのです。なぜなら、本田技研工業は、お給料の支払いも滞るぐらいの資金難になっていたためです。
経理担当者からすると、「東京に行くお金があったら、先にお給料を払ってほしい」という理由だったのでしょう。
経理担当者は、入社したばかりの藤沢武夫に、会計を任せることを躊躇したと思います。どこの馬の骨かもわからない人に、会社の資金を任せるわけにはいきません。経理担当者は、本田宗一郎とは、旧友の仲だったと思うので、「自分の方が、会社にとって信頼性が高い」と考えたことと思います。
また、戦後のドタバタの時代で、当然ながら泥棒も多い時代だったので、会ったばかりの人に、会社のお金を任せるわけにはいきません。
本田宗一郎の性格によるボトルネックの解消
藤沢武夫は、どうしても東京に進出することを諦めたくありませんでしたし、資金繰りの改善は今すぐにでもやらなければいけない時期でもありました。そこで藤沢武夫は、先に本田技研工業の資金繰りの改善を行うことにしました。
資金繰りが悪化していた原因
なぜ、こんなに良いオートバイを製造していて、飛ぶように売れているのに資金繰りが悪化しているのか。お金の流れを調査したところ、フレームの製造を委託しているメーカが原因でした。
詳細はこうです。
当時は、本田技研工業で製造されたオートバイは、自転車屋などの販売店で販売していました。自転車屋は、本田技研工業からエンジンを、フレーム屋からフレームを仕入れて、販売店で組み立てて販売をしていました。
販売店は、仕入れた代金を、本田技研工業とフレーム屋などの部品屋にそれぞれ支払っていました。
ここで、フレーム屋としては、販売店から先にお金が欲しいわけです。
例えば、販売店はオートバイ10台分のエンジンとフレームを仕入れて、販売したいと思って、本田技研工業とフレーム屋にそれぞれ10台分のエンジンとフレームを発注します。本田技研工業からは10台分のエンジンが送られてきます。ところが、フレーム屋はわざと9台分のフレームしかよこしませんでした。
販売店は、1台分のエンジンが余ってしまい、フレーム屋に「早くフレームをよこしてくれ」と催促をします。フレーム屋としては、「先に代金をいただかなければ、1台分のフレームは出せない」と反論します。
そのようにして、フレーム屋に先に代金を支払い、本田技研工業への支払いが後回しになっていました。そのようにして、フレーム屋は、自社に先にお金が入ってくるように工作していたのです。
その結果、本田技研工業は資金繰りに苦しんでいました。
藤沢武夫が汚れ仕事を実施
それを知った本田宗一郎でありましたが、フレーム屋には強く言えませんでした。なぜなら、本田宗一郎は、お金のことに関して、あまり強く言えない性格だったのです。
そこで、藤沢武夫自身がフレーム屋への対応をすることにしました。
まず、そのような工作をする部品屋に対して、「本田技研工業の図面を渡さない」というお触れを出しました。また、「不誠実な工作をする部品屋と付き合う販売店には、本田のエンジンは卸さない」と決め、それを徹底しました。
商品に優位性があるからできた作戦です。
部品屋は「仕事が減ったらたまらない」と思いますし、販売店は「本田のエンジンが仕入れられないと困る」ということで、たちまち資金繰りが解消されていきました。藤沢武夫が入社してから2~3ヶ月で能力を発揮し、実績を出しました。
営業部門・経理部門を引き受け、財務担当も担う
この後、藤沢武夫は東京営業所で、営業部門・経理部門を引き受けて、財務担当も担います。
その半年後には、銀行から資金調達をせずに、敷地400坪ほどの東京工場を開所します。そして、本田宗一郎が上京して東京工場にて勤務することになります。
これほど鮮やかに実績を積み重ねた藤沢武夫に対して、社内では誰も文句を言わなくなったと思われます。
本田技研工業を日本一の売上高に
さて、藤沢武夫が本田技研工業に入社してから2年で東京進出を成功させました。次に行った仕事が、マーケティングと銀行との交渉です。
藤沢武夫は、入社してからはもちろんよく街中を見て歩いたそうです。そうした中で、世の中の変化を見抜きました。
その傾向を本田宗一郎に伝え、本田技研工業を日本一の売上高に押し上げた2車種が、本田宗一郎の陣頭指揮で開発されます。
- ドリームE型
- カブF型
藤沢武夫が販売の陣頭指揮を執り、斬新なアイデアを繰り出していきます。これにより販売店数は数十店ほどだったものが、1万件以上に増え、ここで本田技研工業は日本一の売上高となりました。
藤沢武夫が入社してから4年間の売上高推移
さて、藤沢武夫は1949年10月に本田技研工業に入社し、常務取締役で手腕を振るった結果、1952年には売上高で日本一のオートバイメーカに成長させました。
次の図は、その売上高の推移です。
このように、本田技研工業の売上高は、藤沢武夫が合流してから3年後には、実に220倍ほどに急成長したのです。イメージができない数字です。
優秀なナンバー2が会社に入って力を発揮できたら、このようなことが起こり得るのです。
このように会社が急成長したときに、トップのスタンスとして大事なことは、「急成長に臆することなく、大胆に発想していけること」です。本田宗一郎は、まさしくそのような大人物だったと思います。それを目の当たりにした藤沢武夫は、安心て次々と手を打ち続けることができたのだと思います。
その後も、藤沢武夫の活躍は続きます。本田宗一郎と力を合わせて、主に次のことを行っていきます。
- 米国・ドイツ・スイスから最新鋭の工作機械や検査装置を108台購入
- 新工場の建設
- 国内のオートバイレースをリードする
- マン島TTレース出場宣言
- 経営理念の策定
- 倒産の危機を乗り越える
- 社員の処遇改善
- 競合他社を凌駕するサービスと価格設定
そして、藤沢武夫が入社してから10年を経過しようとしている1958年に、本田技研工業を世界一の売上高にし、その後の売上高増大の起爆剤となる「スーパーカブC100」を開発。量産化させます。
そのときの売上高が、次の図です。
会社の成長に合わせて社内外の体制をイノベーションさせていき、スーパーカブの利益に匹敵する金額を研究開発にぶち込みます。アメリカホンダの設立、鈴鹿サーキットの建設、国外での生産・販売、F1への出場、四輪自動車への参入、航空部門の設立などを成功させていきます。
藤沢武夫と本田宗一郎の引退のときには、藤沢武夫が入社したときと比べて、売上高は本田技研工業単独で10,000倍ほどになっていました。本田技研工業は、二人の引退後もさらに売上高を数倍以上に伸ばしているので、後継者の養成にも成功させたと言えます。
古参社員から受けるイジメの対応方法
藤沢武夫の功績は凄まじいものがあります。しかし、入社したばかりのときは、どれほどの実力があるのか、社員は誰もわかりません。社長が相談もなく勝手に連れてきて、自分たちよりも上の立場に据えるものですから、社員は冷ややかに見ることもあり、中には反発する人も出てきたりします。
藤沢武夫は、入社した直後に経理担当者から「自分が出資したお金を使わせてもらえない」というイジメのようなものに逢いました。
このように、入社したばかりのナンバー2は入社した直後に古参社員からイジメに遭うことがよくあります。
本田宗一郎は、古参社員の経理担当者のことを「この者はナンバー2ではない」と思っていたとしても、経理担当者は「本田さんはお金が苦手だ。だから僕がいないとダメなんだ。」と勝手にナンバー2のように振舞っていたと思います。
会社のお金の部分を握っている人の中には、「自分は会社のお金の部分を担っているから偉いのだ」と考え、社長の命令に従わない人もいます。社長がやりたいことがあっても、「お金がありません」と言って、社長をコントロールしているように見えてしまうのです。小さな会社の経理担当者は、財務のことを理解できていない人が多いので、「お金がありません」が口癖なのです。
古参社員が入社したばかりのナンバー2にイジワルをしてしまう理由は、理解できます。誰しも自尊心があり、自分が社長に可愛がられたいものですし、自分を大きく見せたいですし、いきなりナンバー2に据えられた人物に対して嫉妬するからです。
当時の経理担当者は、藤沢武夫に対しても、「お金がありません」と言ったらコントロールできるように思っていたのでしょう。ところが、マーケティングや財務など、会社全体の経営に知見のある優秀なナンバー2に対しては、そうはいきませんでした。
優秀なナンバー2は、経営の実力の高さだけでなく、そういった古参社員をもうまく丸め込んでしまうだけのコミュニケーション力も持っているものです。
このようにナンバー2は、入社してから1~2年以内に古参社員を黙らせてしまうほどの実績を出さないと、社長の顔を潰すことにもなります。
優秀なナンバー2が守るべきマインド
簡単にですが、ナンバー2論を述べたいと思います。
私が今まで出会ってきた自称ナンバー2と、藤沢武夫や優秀なナンバー2を比較すると、優秀なナンバー2がやってはいけないことがいくつかあります。
具体的には、社長を裏切ったり、社長よりも自分が偉いのだと考えたり、勉強を怠ったりと、いろいろとあります。
そのような、やってはいけない具体的なことにつながる、マインド面で守るべきことをご紹介いたします。
慢心しない
会社が大きくなると、社長の夢を実現する最中で、会社の成長が止めてしまうナンバー2がいます。ナンバー2の成長が止まると、会社の成長も止まります。また、いつの間にか競合他社に追い抜かれていることもあります。
慢心とは、意味を調べると「おごり高ぶる」とあり、自惚れのことです。例えば、会社で「自分は偉いんだ。優秀なのだ。」と偉そうに振舞うことです。
ナンバー2が経営を行うことで、会社を大きくしたことは事実ですし、経営の実力も相当高いことと思います。
慢心が経営に対する注意の散漫や油断につながります。
また、ナンバー2がトップを尊敬する姿勢を見て、社員はトップを尊敬するものです。ナンバー2が自惚れてしまったら、社員のトップへの尊敬の念が薄れ、結果として経営理念が形骸化しコンプライアンスの低下にもつながります。
優秀なナンバー2は、トップが掲げる理想と現実のギャップを埋めるために、考えて行動します。その理想実現に至っていない理由として、「自分の能力がまだまだ不足しているからだ」と考えるのです。
ナンバー2は、積極的に本を読み、街中を歩き、研修に参加するなどして、情報収集に余念がありません。
自慢しない
慢心してくると自慢話が増えてきます。自慢話の多い人は、「人から認められたい、尊敬されたい」という劣等感が形を変えて出てきたものでもあります。
自慢する心は徳を失わせます。
ナンバー2の役割の一つが、ナンバー2の背中を社員に見せることによって、トップの徳を醸し出すことです。
自分の能力や持ち物を自慢し、社員に「お前たちも頑張りによっては、このようになれるのだぞ」と自慢し始めたら、その後ろ姿を見て、トップへの信頼や愛社心が失われていくのです。
トップとしても、そのような自慢心の強いナンバー2を、いつまでもナンバー2に据えていたら、会社の成長が止まるはずです。
学生時代には、誰しも劣等感を持つことになっています。優秀なナンバー2は、それを克服して、理想追求のために事業活動に取り組んでいるので、自分の能力や報酬などを自慢しません。逆に、「自分はまだままだ」と考える人が多いです。
トップを疑わない
ナンバー2が一番してはいけないことが、トップを疑うことです。トップの能力、トップの自分への評価、トップの夢の実現などです。
トップを疑ってしまい、不信感を持ったら、ナンバー2は会社を離れる時です。
時にはトップとナンバー2が激論を交わすこともあるかもしれません。しかし、ナンバー2はトップにとっての最高のYesマンですので、トップが頑固にまで貫くことが大事なことだと信じるのです。
また、トップが精神的に落ち込むこともあります。そういったときでも、「社長は必ずやってくれる。トップの精神状態をなんとか回復させられるようにしたい。」と、トップを信じて止まないのがナンバー2なのです。
不相応な私欲を出さない(私欲を会社に持ち込まない)
ナンバー2の頑張りによって、会社が大きくなったわけですから、ナンバー2はもっとたくさんの報酬をもらっても良いわけですし、自宅と会社の送迎があっても良いかもしれません。
優秀なナンバー2は、そういったものを社長におねだりしないのです。なぜなら、優秀なナンバー2は、そういった物欲を超越してしまっているからです。
先ほど、藤沢武夫が浜松まで4回にわたって本田宗一郎に会いに行ったときのエピソードをご紹介しました。
そのときに、藤沢武夫は本田宗一郎に、「お金でない何かの実りをつかみたい」という夢や、「本田さんと組むことで、その夢を叶えられる気がする」ということを語りました。
徳のあるトップと優秀なナンバー2は、お互いに経済的に自立した人であり、こういった内容で合意したビジネスパートナーは、報酬でなく「理念の切れ目が縁の切れ目」になるのです。
この報酬とは、お給料もそうですし、名誉欲もそうです。そういった欲ではなく、価値観を中心として働けているときは、トップと理想を共有できます。お互いにどちらかに欲が出てきたら、それが縁の切れ目となります。
この部分は、とても重要なことです。
つまり、不相応な私欲が出てきたり、理想追求よりも私欲の追求が頭をもたげてきたりしたときに、それを克服するように自戒を立てて戒めることができなければ、能力の限界を迎える前であったとしても、ナンバー2の引退のときなのです。
優秀なナンバー2は自分自身への最大の報酬を、「トップの夢を実現するために、前線で貢献できること」と考えるものなのです。
こういったマインドの変革ができる人は、先天性のようなものです。しかし、そういったマインド面を鍛えることをしなければ、優秀なナンバー2にはなれません。
マインド面を鍛える方法は、「どうやったらいいのか?」ということですが、方法はあります。かなり難しいですし、何年も時間がかかります。
ですので、トップの対応としては、ナンバー2に欲が出てきたら、「この人は優秀ではなかった」と諦めた方が早いと思います。
そして、人との出会いは「波長同通」とか「類は友を呼ぶ」と言われるように、自分と同じような人が集まるものなのです。つまり、ナンバー2が欲を出し始めたことを感じたら、もしかしたら自分自身にも不相応な欲を出しているかもしれないのです。そこを、ぜひともご理解いただきたいと思います。
責任回避しない
優秀なナンバー2は、何があっても責任回避しません。
例えば、会社が倒産しそうになったり、損失を出したりしたら、「社長が原因だ」とか「社員が不正をしたからだ」といった、他人に責任を押し付けたりはしません。「自分の能力不足が原因である」と考えます。
確かにそうかもしれません。
社員が不正をしていたとして、その不正を招いてしまったのが自分が出した命令が原因かもしれません。また、自分が社員を管理し切れていなかったことが原因とも考えられます。
いくつか、優秀なナンバー2が守るべきマインドを述べましたが、「これらは大切なことだ」とお考えになられた方もいらっしゃることでしょう。これらを大切だと思われた方は、優秀なナンバー2を見分けられる素質や、優秀なナンバー2になれる素質があると思います。
優れたナンバー2はどこにいる?
さて、社長は社員が優れたナンバー2に育ってもらえることを望んでいることがあると思います。
このようなマインドを持っているナンバー2は、実は社内に存在することは稀です。なぜなら、このようなマインドは、会社の社員として働いている人には、なかなか身に付かないものだからです。
このようなマインドは、自ら苦しんで事業経営をしていく中で、徹底的に考えて、考え抜いて体得した成功の法則の一部です。
そして、自分の強みと弱みを知り、どのような人と組んだら夢が叶えられるのかを知ります。そして、優れたナンバー2は理想を夢見て本気で取り組むトップを、理想を夢見て本気で取り組むトップは優れたナンバー2を、お互いに本気で求めるのです。
そして、優れたナンバー2になりえる人材も、「誰か自分を使いこなしてくれる人がいないか」と、本気で探しているのです。
だからトップとナンバー2は、相手を見抜くことも行動も早いのです。
願っていたトップと出会ったナンバー2は、自分の事業をたたみ、社長が経営する会社に入社し、社員として働きます。
そのようにして、自分でも経営ができるレベルの人が、トップとたまたま夢が同じで、夢に忠実に生きるが故にたまたま出会って組んだだけなのです。
では、「優れたナンバー2はどこにいるのか?」ということですが、実のところ身近にいることが多いです。
優れたナンバー2とは、夢を語り合ったときに意気投合するものですが、考え方や性格がまったく異なるように感じる場合が多いです。そのため、身近で出会った人が優秀なナンバー2になりえる人材であることを見抜けない場合もあります。出会ってから10年以上も経過して、「そんなに優秀な人だったのか。10年前にそのことを知りたかった。」と気が付いて、出会いのタイミングを失うこともあります。
そこでトップの大事なスタンスは、三国志の曹操のように「人を思い込みで判断しないこと」「人を能力を愛すること」です。
以上、優秀なナンバー2が会社に入ったら、会社が急成長するということを、本田宗一郎先生と藤沢武夫先生を事例にまとめました。
このように、次々と社長の夢を実現していくロードマップを示し、先導していってくれるナンバー2が自社に入社してくれたらいいと思いませんか?
もしくは、「自分は会社のナンバー2である」と自負されている方も、藤沢武夫のような能力を習得できたら良いと思いませんか?
具体的にどうしたら良いのかについては、いくつかのヒントをつかみ取られたことと思います。他のコラムをご参照いただき、優秀なナンバー2の求め方や優秀なナンバー2になり方をつかんでいただけたらと思います。
当社では、現在のところ年に1回、ナンバー2のことが学べる研修を行っています。ご興味のある方は、こちらのページをご覧ください。
この記事の著者
経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)
国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら万を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくる独自の戦略系コンサルティングを開発する。