社長の夢実現への道

本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶトップとナンバー2がうまくいく条件

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本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶトップとナンバー2がうまくいく条件

小企業が急成長して大企業になる、またトップの大きな夢を実現するのは、家族や従業員、資本家など多くの人に支えられてのことですが、特に必要な人材がいます。

それは、理想のナンバー2です。

明治から平成にかけて急成長した企業を見ていると、必ず能力の高いナンバー2の活躍があります。

有名な大先輩で、その一例を述べると

トップナンバー2
豊田佐吉(1867~1930年)西川秋次(1881~1963年)
豊田利三郎(1884~1952年)
豊田喜一郎(1894~1952年)石田退三(1888~1979年)
松下幸之助(1894~1989年)高橋荒太郎(1903~2003年)
井深大(1908~1997年)盛田昭夫(1921~1999年)
本田宗一郎(1906~1991年)藤沢武夫(1910~1988年)

今現在、一代で会社を大きくされた社長であれば、ナンバー2の存在や、その人物の能力を否定なさらないことでしょう。

ナンバー2は、トップを支える人材であれば誰でもよいかと言えば、そうではありません。

当社では「トップの夢を実現するための条件」という経営者向けの研修を行っています。研修ソフトを開発するために、本田宗一郎氏と藤沢武夫氏(戸籍では藤澤武夫)について、緻密に調査・分析しましたので、そのお二人を題材として、トップとナンバー2がうまくいく条件を考察したいと思います。

トップとナンバー2がうまく連携できたら

トップとナンバー2がうまく連携できると、今まで以上に会社が成長します。会社の経営者がトップ独りの場合、またはトップと似た性質を持った人ばかりの集まりだと、会社の従業員数が30人以上になることは難しいと聞きます。

ナンバー2が入り、トップと馬が合い、連携が取れるようになると、会社は成長して30人の壁、10億の壁などの、経営の壁を突破していくことができるようになります。

そのような、会社を急成長させてくれるナンバー2のことを、「理想のナンバー2」と呼称したいと思います。

藤沢武夫が入社してからの本田技研工業の売上高と従業員数

本田技研工業の場合には、終戦直後の本社が浜松市にあり、藤沢武夫が参画する前は、売上高は3,500万円程度(現在の価値に換算して3億円程度)、従業員数が35人前後と、小さな会社でした。

1949年、藤沢武夫が本田技研工業に常務取締役として入社し、経営に参画。それから4年後、従業員数が2,200人ほどの約60倍に急成長、売上高も77億円ほどの約220倍へと急成長しています。

本田技研工業に藤沢武夫が参画して4年後、従業員数が約60倍、売上高も約220倍へと急成長

1958年に、世紀のヒット商品「スーパーカブ」が発売され、その斬新なプロモーションの波状攻撃によって、その後の1959年、1960年と売上高はさらに倍々と成長していきます。

本田宗一郎にとって、藤沢武夫はまさしく理想のナンバー2だったのです。

ちなみに、本田と藤沢が引退したときの売上高は、藤沢の入社時と比較して、連結で2万3,000倍以上に成長していました。

このように、トップが理想のナンバー2と組むことができると、会社は急成長する場合があります

この記事をお読みの方の中には、知り合いや兄弟・親戚などと会社を共同経営し始めたところ、1~2年ほどでうまくいかなくなった経験をお持ちの方もいることでしょう。起業当初は「力を合わせて、いずれは大企業を夢見て」と始めるのですが、1~2年で終了することがほとんどです。

また、「すでにナンバー2はいる」という社長でも、会社が数年経過して成長が見えない場合には、そのナンバー2は理想的だとは言い難いものがあります。

このようなことで、「誰かと手を組んでの会社経営はうまくいかない」との結論に至ることが多いと思います。

しかし、考えてみてください。

もし、貴社に藤沢武夫が合流したら、貴社の4年後はどのような状態になるでしょうか?

次のようなナンバー2がいたら、どのような会社でも成長することは間違いないことでしょう。

  • 会社や社長を裏切らない
  • 市場を分析し、ヒット商品につながるアイデアを生み出してくれる
  • 会社が倒産しそうなときも逃げずに、資金繰りをなんとかしてくれる
  • 社長の能力を引き出してくれ、社長にやりたいことをさせてくれる
  • 社長の弱みを補って、会社を支えてくれる
  • 社内外に問題が発生したら、矢面に立ってくれる
  • 社長の考えをくみ取り、その考えを従業員に浸透させ、経営幹部を育ててくれる
  • 社員の強みを見抜き、適材適所に配置していってくれる
  • 会社の将来のことまで考えて動いてくれ、社長の引退後も持ち上げてくれる
  • 会社が永続的発展するための基盤をも残してくれる

社長はさまざまな人と組んで会社経営を行いつつも、ビジネスパートナーと別れる経験を持つことで、自分にとっての理想的なビジネスナンバー2像を明確にイメージできるようになります。

この記事が、今まで会社が大きくならなくて悩んでいたり、会社や事業を大きくしたりしたいと思っている社長、これから会社を立ち上げて大きな事業にしていきたいと思っている起業家だけでなく、今まで誰かと共同経営をしてうまくいかなかった社長、もしくは元ナンバー2の方に、参考になれば幸いです。

それでは、本田宗一郎と藤沢武夫から学ぶ、トップとナンバー2がうまくいく条件について、間違いを恐れずに述べたいと思います。

条件1. 年齢差がそれほどない

まず、条件の1つ目として年齢差をあげたいと思います。本田宗一郎と藤沢武夫が出会ったときの年齢は、それぞれ42歳と38歳です。年齢差は4歳です。

もし、年齢差が開きすぎていたらどうでしょうか。

例えば、本田宗一郎と藤沢武夫の年齢差が20歳もあったら、本田宗一郎は藤沢武夫を信頼しなかった可能性があります。二人は、ある程度近い年齢だったので信頼して組むことができたのではないかと思います。

本田宗一郎を自由にさせられなかった石田退三

本田宗一郎は30代中頃に、石田退三と共に仕事をしています。石田退三は、後に豊田自動織機やトヨタ自動車の社長を務めた人物で、トヨタ自動車の大番頭とも言わる人です。そのときの本田宗一郎と石田退三のぞれぞれの年齢は35歳と53歳。石田退三が18歳年上です。

本田宗一郎(29)は、1936年にピストンリングの研究を開始します。それから3年後の1939年に製品化に成功し、東海精機重工業株式会社(現在の東海精機株式会社)を設立し、社長に就任します。その直後、豊田自動織機の自動車部門(後のトヨタ自動車)で使用するピストンリングの調達で、二人は出会いました。

石田退三は、本田宗一郎のことを「豊田佐吉のような天才だ」と人物を見抜きます。また、本田宗一郎は石田退三の資金調達の仕方に感心しています。

その後、豊田自動織機からの出資によって石田退三が社長となり、本田宗一郎は専務に降格されてしまいます。終戦直後には、本田宗一郎は「専務なのだから、何か仕事をしてくれ」と強要されて嫌になり、東海精機重工業の株式をすべて売却して退社しました。

このエピソードは、トップとナンバー2が入れ替わったケースです。

石田退三は、豊田自動織機でのベテランのナンバー2であったこともあり、本田宗一郎のようにトップの年齢が18歳もの年下では幼く見えてしまい、ナンバー2はトップを支えることが難しくなります。やはり、トップの方がナンバー2よりも年齢が若干上、もしくは年齢差がほとんどない方がうまくいきやすいと思います。

冒頭でご紹介したトップとナンバー2の表でも、4名ともナンバー2が年下です。

もし、トップの年齢が若い場合には、トップはナンバー2が認めるぐらいの能力や徳が求められます。

条件2. お互いに事業家である

2つ目の条件として、トップやナンバー2が、それぞれ事業家である。つまり、事業ができる、もしくは、事業を行ってある程度成功していることです。

「事業ができる」とは、自分で事業を興し、家族の生活を成り立たせ、従業員や取引先などが潤うように仕事を生み出せることです。

もし、どちらか片方の事業経験や能力が足りなかったら、相方に負担が行き過ぎてバランスが取れなくなる場合があります。トップ、もしくはナンバー2が同レベルまで成長するまで待つことができたら良いのですが、そうはなりにくいものです。人には我慢の限界があり、せいぜい2年のことでしょう。

その後は、トップとナンバー2の関係がうまくいかなくなり、優秀な方が去っていきます。たいていは、ナンバー2の方が優秀ですので、ナンバー2が去っていきます。場合によっては、豊田佐吉やスティーブ・ジョブズが経験したように、トップが追い出されます。

二人が出会う直前のお互いの事業とは?

本田宗一郎は、終戦直後に一時期引退を考えますが、開発への情熱が冷めず、東海精機重工業の株式を売却したお金を資金として、本田技研工業の前身となる本田技術研究所を立ち上げました。その直後に、自転車用補助エンジンを開発して大ヒットし、従業員が35人前後までになります。

一方、藤沢武夫は、切削工具を製造する会社を東京で立ち上げ、成功させています。また、疎開先の福島県で木工の会社を立ち上げ、数名の工員を雇い、主に進駐軍と取引をするほどに成長させました。

本田宗一郎と藤沢武夫は、各々独りでは、戦後で貧しいながらも、従業員をかかえて食べていくことができていたようです。

お互いに「自分独りになってもなんとかできる」という思いがあると相手に依存しすぎませんし、実力差もあまりないので、相手の実力が成長するまで待つこともありません。二人が組んだときに、お互いに、すぐさま能力を発揮することができます

条件3. お互いに持っていない能力を持っている

3つ目の条件として、お互いに持っていない能力を持っていることをあげたいと思います。

本田宗一郎は超一流の製品開発力や製造技術を、藤沢武夫は販売と金策に対する高い能力を持っていました。

小さな会社のときに、社長独りで把握しなければならない業務は、次の4つです。

  1. 開発
  2. 販売
  3. 経理・財務
  4. 人事

これらの中で、社長が得意なことはたいてい2つまででしょう。新しく会社を立ち上げるのであれば、できれば、開発と販売が得意な社長が望ましいです。

これが、大企業になってくると、項目が増えます。

  1. 開発
  2. 生産
  3. 営業・販売
  4. 経理・財務
  5. 人事
  6. 広報

社長は、せいぜい2つしか把握できないため、社長独りでは大企業を創ることが難しくなります。そこで、経営幹部で分担して把握しなければならなくなります。藤沢武夫を得た本田宗一郎は、開発に専念することができました。まさに、水を得た魚です。

本田技研工業が日本有数の企業に成長したころの本田宗一郎は、この6つの項目の中で、「開発」を100%、「生産」と「広報」をそれぞれ30%ほど把握していたものと思われます。そして、その他のすべては、藤沢武夫が把握していました。

このように、経営に関してはナンバー2はトップよりも優秀であることが多いものと思われます。

条件4. お互いに尊敬しあえる

4つ目の条件に、お互いのリスペクトをあげたいと思います。やはり、尊敬できる何かがあり続けることで、共に共同経営ができます。尊敬しあえるかどうかは、今まで述べてきた、条件1と条件3も、尊敬できるかどうかの要点でもあります。

年齢差がありすぎたら、尊敬しあえることが難しくなります。ある程度の近しい年齢が望ましいです。そして、自分がボトルネックと感じている能力を相手が得意としていることは、大きな尊敬に値します。

竹島弘の仲介による二人の出会い

竹島弘(ホンダ)
竹島弘(中島善也氏ご提供)

1949年(昭和24年)8月、本田宗一郎と藤沢武夫は、お互いに戦前からの知り合いであった竹島弘(1910~1997)氏の仲介のもと、竹島の自宅(荻窪)で会います。

二人はわずか10分ほどで意気投合し、協力し合うことを約束します。

その後、藤沢武夫が浜松を訪れ、4回に渡り本田宗一郎と夢や事業内容、未来の計画などを話します。最終日、本田宗一郎は藤沢武夫に会社の実印を預けます。

この速さは何でしょうか。

それはお互いに竹島を信頼していたこともありますが、それとは別に、お互いに事業で苦労し人物で失敗してきた中から教訓をつかんできたために、自分に必要なパートナーを見抜く人物鑑定眼を身に付けていたのでしょう。

本田宗一郎の苦手なこと

藤沢武夫が参画する前の本田宗一郎は、苦手な金策を自分で行わなければなりませんでした。技術屋特有とも思われる営業や集金の苦手さを、本田宗一郎も持っていたようです。それゆえに、トップが超一流の技術を持っていたにもかかわらず、会社は大きくなりませんでした。

そのような苦手なところを、すべて藤沢武夫が得意とするところだったので、本田宗一郎は研究開発に没頭できるようになり、世界一のオートバイやエンジンなどを生み出し続けることができました。

では、藤沢武夫においてはどうでしょうか。藤沢武夫は、自身で立ち上げた会社にて、商品開発で苦労した経験があります。

藤沢武夫の苦手なこと

藤沢武夫は、営業で実績を重ねた後、28歳のときに軍需による切削工具の需要増加を見込んで、匿名組合「日本機工研究所」を設立しました。

このとき、軍の紹介で切削工具を製造できる技術者と組んで起業したのですが、その者は話に聞いていたのとは程遠いほどの、未熟な技量でした。

藤沢武夫は、仕方がないので、時間をかけて自分自身で金属加工技術を身に付け、苦労しつつも品質の高い切削工具を完成させました。

このとき藤沢武夫は、自身の強みは何かを知り、どのような人と組むべきかを学んだものと思われます。

このように、超一流の経営者と言われる方であったとしても、経営を始めたばかりの頃は、パートナー選びで失敗し、そこから教訓を習得していくようです。

ちなみに、藤沢武夫はこのときに品質の高い部品を製造することで評判となり、当時の花形企業であった中島飛行機との取引に成功しています。このときに、仕入れ担当であった竹島弘と出会っています。

同時期、本田宗一郎は、中島飛行機に部品を卸していたので、そのときに竹島弘と知り合ったものと思われます。

先ほども述べたように、竹島弘を通じて二人が出会うことになります。

条件5. トップの大きな夢をナンバー2が共有できる

5つ目の条件に、トップに大きな夢があること、そしてナンバー2は「その夢の実現を自分の夢とすること」をあげたいと思います。

トップとナンバー2の夢の方向性が一致しない場合、二人はいずれは離れていくことを意味します。ですので、最初はうまくいって会社が大きくなったとしても、10年ほどでトップの元をナンバー2は離れていくことがあります。

藤沢武夫は、本田宗一郎と出会ったときに、次のように述べています。

私も商売人ですから損はしませんよ。それは、金じゃなくて何か実りをつかみたい。

藤沢の夢は、「超一流の技術と大きな夢のある人物とともに、その夢を実現すること」でした。そして、このセリフは、豊かさも貧乏も経験してきた中で、お金の作り方を心得ている経営者だから言えることだと思います。

もちろん仕事で生活費を稼ぐことは大切です。しかし、優秀なナンバー2はお金だけを求めて事業をすることを超えて、崇高な理念に導かれて合流するものだと言えます。

条件6. 参画してからすぐに実績を出す

ナンバー2は、いきなり経営幹部として会社に参画するため、古参の経営幹部たちにとっては不愉快な話です。ですので、イジメに遭うことが多く、なるべく早く実績を出さなくてはなりません。

1949年に藤沢武夫(39)が経営陣として参画した直後、経理担当からイジメに遭います。

藤沢武夫がもたらした最初の成果とは?

本田技研工業は、最初の資本金が100万円でした。そこに、藤沢が用意した100万円を増資します。藤沢武夫と本田宗一郎との打ち合わせでは、そのお金で東京進出をすることになっていました。

ところが、経理担当者から「今の本田技研工業には東京に進出するお金がない」と言われ、なかなかお金を出してくれませんでした。そこで、藤沢武夫は東京に進出するお金を別にかき集めて、1950年に本社を浜松から東京の八重洲に移し、東京進出を果たします。

藤沢武夫が提案したカブF型

翌年の1951年、東京都北区に東京工場を開設します。新工場の設立は、地主との交渉により銀行に頼らずに成功しています。新工場ができ、本田宗一郎は藤沢武夫のアドバイスにより、4サイクルエンジンのドリーム号を開発し、売上を伸ばします。翌年の1952年に、カブF型(写真)を開発します。

藤沢武夫は、斬新なアイデアで全国に販売代理店網を構築。見事に販売し、オートバイメーカーとして日本一の売上高、世界第二位の売上高に急成長させることに成功しています。

藤沢武夫は、これほどの実績を出したため、古参の経営陣からは何も言われなくなりました。

これほどの実績を出した後でも、藤沢武夫は更なる実績を求めて、次のミッションに入ります。そして、自ら経営の勉強や他社研究を続けるのです。

条件7. ビジネス仲間以上友達未満

藤沢武夫は、晩年に本田宗一郎のことを、ビジネスパートナーでなく「友達だ」と言っています。しかし、一般的な友達付き合いという妥協したり安易になったりするような関係ではビジネスはうまくいきません。かといって、ビジネス仲間という表現では、若干空虚な感じがします。

夢を語り合った二人

本田宗一郎と藤沢武夫は、共に経営を始めたころは毎日のように夢を語り合いました。時には20時間も語り合ったと伝わっています。その2年間は、まさしく「水魚の交わり」でした。

ところが、本田技研工業が大企業になってからは、ほとんど会うことはありませんでした。二人が仲たがいしたと噂されるほどでした。

このエピソードからも、二人は一般的な友達という感覚ではないと言えます。そこで、条件7として「ビジネス仲間以上友達未満」と表現しました。

この関係性が、単なるお金での結びつきでなく、そして妥協を許される関係性でもない、本田技研工業の急成長の原動力を生み出したのだと思います。

お互いのプライベートについて

本田宗一郎や藤沢武夫は、お互いにプライベートな話題はしなかったようです。もしくは、お互いにプライベートを公言しなかった、ということかもしれません。特に藤沢武夫のプライベートについては、多くの文献を紐解いても、ごく一部にしか記載されていません。

藤沢武夫先生に敬意を払い、プライベートな話題はここでは述べないことにします。

さらに重要な条件

ナンバー2の条件には、さらに重要なことが、あと5つほどあります。

あと5つほどの条件は、ここに述べたことを補完する内容で、トップとナンバー2をより高い位置から俯瞰したときに見えてくる条件です。

それらを述べるにはページが長くなってきたため、ここでキーボードを置き、当社主催の「トップの夢を実現するための条件」研修に譲りたいと思います。

この研修は、毎年春に行なっていますので、ご興味のある方は経営基礎セミナーのページをご覧ください。

藤沢武夫の経歴

藤沢武夫の経歴を簡単にご紹介します。藤沢武夫氏の個人情報が書かれた文献は、本田宗一郎氏と比較して少ないですが、さまざまな文献を参考にして作成しました。

出生~学生、兵役時代

1910年(明治43)11月10日、東京市小石川区(東京都文京区)にて藤沢武夫生まれる。

1923年(大正12)、藤沢武夫の父、秀四郎が経営する広告会社が倒産。武夫少年(12)は貧乏生活を送る。

1929年(昭和4)、藤沢武夫(18)は、中学校を卒業し、日雇い労働やあて名書きの仕事などをして家族を支える。

この頃は内向的な性格で、趣味は読書だった。

1930年(昭和5)12月、藤沢武夫(20)の父がお金を工面し、幹部候補生として志願して歩兵五十七連隊に入隊。志願入隊するとお金がかかるが、通常2年の兵役が1年ほどで済んだ。

除隊後の2年間ほどは、「これだ」という仕事に出会うまで隠遁の期間を過ごす。このとき、貧乏生活からの脱却を強く思い「経済の分野で自分の力を試したい」と志したため、金融や経済などについて勉強する。

就職~起業

1934年(昭和9)2月、藤沢武夫(23)、鋼材屋「三ツ輪商会」に営業職で丁稚奉公に出る。

人付き合いが苦手だった藤沢だったが、直感で仕事を選ぶ。その後、能力が開花しトップセールスマンに。この間に、「トラブルに対して、真実を語ることと解決策の提案で信頼を得る」というビジネスの原理原則を学ぶ。

1937年(昭和12)9月、藤沢武夫(26)が、三ツ輪商会の店主の出兵に伴い、自ら手を挙げ店主に抜擢される。

このとき藤沢は、店主に抜擢された直後に店が経営危機であることを知らされ、出資者との交渉に成功。交渉の方法を体得する。(このときに獲得した交渉成功の秘訣は、「理想のナンバー2の条件」研修にてお教えいたします。)

その後、藤沢が予想した通りに戦争特需により大儲けする。このときに自分の目で市場を見てまわる実践的経営学を体得する。

1939年(昭和14)4月、藤沢武夫(28)、将来の独立を考え、板橋に切削工具の匿名組合「日本機工研究所」を設立。このとき、高品質が求められる中島飛行機と取引に成功している。

このとき藤沢は、紹介で切削工具を製造できる人物と組んで起業している。ところが、この人物には良品を製造する技術力がなかった。藤沢は、仕方なく自分自身で技術を身に付け、品質の高い切削工具を完成させている。このとき藤沢は、自身の強みは何かを知り、どのような人と組むべきかを学んだ。

1942年(昭和17)4月、藤沢武夫(32)は、日本機工研究所で切削工具の製品化に成功。店主の帰還により三ツ輪商会を退社。

藤沢武夫は、このときに心臓発作を起こし、兵役を免れる。中島飛行機と取引を開始し、後の本田と藤沢の仲介人となった竹島弘が検査のために日本機工研究所に訪れる。このとき、本田宗一郎という天才の存在を知らされ、「チャンスがあれば組んでみたい」と思い至る。

1945年(昭和20)8月、日本機工研究所が福島に疎開。

皮肉にも工作機械が福島に届いたその日に終戦。それと同時に顧客を失う。藤沢武夫(34)は「戦災復興のために木材の需要が伸びる」と予想し、山林を買い取り製材屋に商売を替える。

戦後、藤沢武夫は木製品の製造業を営んでおり、下請けとして進駐軍が用いる木箱の製造を受注する。そのときの進駐軍の事務処理のシンプルさやスピード感に驚く。この経験が、後の本田技研工業での合理的な伝票処理の提言につながったと思われる。

1948年(昭和23)、藤沢武夫(37)は部品調達と東京進出のための視察を兼ねて上京していた。そのとき、市ヶ谷の道端で偶然に竹島弘と出会う。そのときの長話で、本田宗一郎(41)が自転車用補助エンジンを開発したことを聞く。また、竹島が上京を勧め、その3日後には、製材屋を閉鎖し東京から疎開で送った工作機械を売却して上京している。ただちに池袋で材木店を始め、生活基盤を固める。

本田宗一郎と同様、藤沢武夫もチャンスをつかむための「直観力と行動の速さ」という経営のセンスを身に付けていた。また、藤沢武夫は情報収集に余念がなかった。

本田宗一郎と意気投合

1949年(昭和24)8月、竹島弘を通じて、荻窪(東京都杉並区)にあった竹島の自宅にて、本田宗一郎(42)と藤沢武夫(38)が出会う。

そのときのエピソードを「経営に終わりはない」(藤沢武夫著)より抜粋

本田「金のことは任せる。交通手段というものは、形はどう変わろうと、永久になくならないものだ。けれども、何を創り出すかということについては一切掣肘(せいちゅう)を受けたくない。おれは技術屋なんだから。これは、タンスだの呉服を売るのとは違って、人間の生命に関することなんだから、その点にいちばん気をつけなければならないと自分は考える」

藤沢「それじゃお金のほうは私が引き受けよう。ただ、今期いくら儲かる、来期いくら儲かるというような計算はいまたたない。基礎になる方向が定まれば、何年か先に利益になるかもしれないけれど、これはわからない。機械が欲しいとか何がしたいということについては、いちばん仕事のしやすい方法を私が講じましょう。あなたは社長なんですから、私はあなたのいうことは守ります。ただし、近視的にものを見ないようにしましょう」

本田「それはそうだ、おたがいに近視的な見方はしたくないね」

藤沢「わかりました、それでは私にやらせてくれますか」

本田「頼む」

話は三分か五分で決まりました。本田のやることに口は出さない。そのかわり本田も私のやることを掣肘しない、という約束です。

(中略)

私はあの人の話を聞いていると、未来について、はかりしれないものがつぎつぎと出てくる。それを実行に移してゆくレールを敷く役目を果たせば、本田の夢はそれに乗って突っ走って行くだろう、そう思ったのです。

浜松の工場を案内した後の帰り際に「ちょっと待ってくれ、これを持っていってくれ」と会社の実印を渡す。それ以来、本田は会社の実印を手にしたことがなかったと述べている。

同年10月、藤沢武夫は本田技研工業の常務取締役として参画。それから2年間、本田技研工業の未来について本田宗一郎と語り合い、企業ビジョンを固める。

それ以降、資金調達と販売の大部分を藤沢武夫が担うことになる。

1950年(昭和25)、藤沢武夫は「市場はパワーが出るがエンジン音がうるさい2サイクルエンジンよりも、パワーは低いが静かな4サイクルエンジンを求めている」と見抜く。翌年、本田宗一郎がヒット商品となる4サイクルエンジンを搭載したドリームE型を開発。それ以降、本田宗一郎は藤沢武夫が求めるオートバイを開発するようになった。

1952年(昭和27)3月、埼玉県和光市に白子工場(埼玉工場)を設置。

藤沢武夫は、東京工場の購入に続いて、ここでも銀行に資金調達を依頼せず、地主との交渉によって月賦にて工場跡地の購入に成功。雨漏りや備え付けの工作機械の修理、本田と中古の工作機械の購入・設置などを行い、2か月ほどで生産体制に入る。

銀行にて資金調達をしなかった理由は、「借りに行ったとしても貸してくれなかっただろうから」と述べている。

このことを三菱銀行に正直に報告し、支店長を新工場の見学に招待している。また、それ以降は本田技研工業が良いときも悪いときも何でも報告するようにしたので、銀行が本田技研工業の状態を把握でき信頼を得るようになった。

同年3月、自転車用補助エンジン、カブF型試作完成。

藤沢武夫は、女性が自転車に乗る需要の多さに目を付け、女性でもオシャレに利用できる自転車補助エンジンを開発させた。本田宗一郎はそれに応え、オシャレでシンプルなデザインである「カブF型」を開発している。

当初本田宗一郎は、「そんなの売れねぇよ」と自転車補助エンジンの開発を拒否していたが、藤沢武夫は、「いやぁ、あんたが創ったら売れるんだなぁ、これが。」と本田宗一郎をその気にさせた。また、カブF型が完成したら、「この赤がいいねぇ、本田さんは思っていた以上のものをいつも創ってくれる。」と誉めている。

藤沢武夫の読み通り、カブF型が本田技研工業を爆発的に発展させることになり、オートバイ市場で日本一、世界第2位の売上高まで成長する。

同年4月、藤沢武夫(41)は念願でもあった本社の東京移転を果たし、専務取締役に就任。

最大の経営危機からの復活

日本一の売上高になってつかの間、1954年(昭和29)にジュノオ号の売れ行き不振やドリーム4E型の原因不明のエンジントラブルによるクレームなどで販売不振になり、資金繰りが極度に悪化していく。その直後に、昨年に行った設備投資等の15億円の金利返済が迫り、最大の経営危機に陥る。

この時期は、オートバイメーカーが淘汰の時代に入っており、「本田技研工業もいよいよ倒産か」とささやかれた。

1954年(昭和29)3月、本田宗一郎(47)がマン島TTレース出場を宣言。

マン島TTレース出場宣言は藤沢武夫の提案

本田技研工業の倒産がささやかれる中、居酒屋で藤沢武夫が本田宗一郎に問いかけた。

藤沢「社長は前にマン島TTレースの話をしていたよね。あれに出てみないか。」

本田「こんなときに何を言っているのだ。」

藤沢「昔から挑戦してみたいと言っていたじゃないか。社員はすっかり気落ちしている。こんなときだからこそ、希望が必要なんだ。」

同年4月、浜松製作所葵工場が稼働開始。生産体制を緊急体制に移行。

胆力のあった藤沢武夫(43)でも、このときは夜も眠れない日々を過ごすほどの人生最大の危機だった。この月、藤沢武夫は工場に赴き、工場内で働く従業員全員を集めて会社の現状を正直に報告。ドリーム4E型の生産を一時中断し、売上が見込まれる製品の生産に切り替えを指示している。

本田宗一郎からエンジントラブル解決の見込みの急報を受けた藤沢武夫は、5月からの改良された新しいキャブレターの生産に合わせて生産体制を絶妙なタイミングで戻していくことに成功している。

すでに販売していたドリーム号のリコールは、すべて無償で行うことを決断する。このときに、藤沢武夫は三菱銀行との交渉で、次のように述べて資金調達に成功している。

「無償交換で8,000万円の損害は覚悟しています。しかし、これから立ち直ってくれば微々たる金額です。うちには日本のどこにもない工作機械が揃っているし、本田という天才がいる。カブF型以上の製品が出てくるのも、そう遠いことではありません。私の役目は、やがて本田技研工業が日本の殻を突き破って世界に飛び出すメーカーとなる手助けをすることなんです。」

このように、藤沢武夫は銀行には頭を下げるだけの融資のお願いではなく、自分の夢を語った。藤沢武夫には、その夢に懸けなる魅力があった。ここで、三菱銀行は2億円の融資を行っている。

日本の運輸省でリコールの届出受付は、1969年(昭和44)6月に始まっているが、それよりも15年も早く無償での修理を行うという、藤沢武夫の先駆的な発想に驚かされる。

1955年(昭和30)、藤沢武夫は銀座のビルの一室を借り、一人で引きこもって日本のいろいろな企業の有価証券報告書を取り寄せて経営分析をしたり、読書したり、瞑想したりといったことを行っている。ここで、企業がどのようにしたら万物流転の法則に抗って成長し、生き残ることができるのかを考えた。そして、各工場の部長や課長向けに採算の教育を始めている。

世界企業への躍進

1956年(昭和31)1月、公式ではこのときに「社是」と「我が社の運営方針」が発表される(ホンダ社報No.23)。

危機を脱し、落ち着く間もなく次の一手を考えた

経営危機を脱した本田技研工業であったが、世界一の売上高を目指すべく、次の一手を考えていた。藤沢武夫は女性でも手軽に運転できるまったく新しいオートバイの開発を考える。藤沢武夫は自転車用補助エンジンの販売台数の頭打ちとニーズの変化から、50ccの小型オートバイのブームが日本に到来することを予見していた。

本田宗一郎と藤沢武夫は、50ccの小型オートバイが庶民の足として定着していた西ドイツへの視察を行う。自動車メーカーや街中を視察し、藤沢武夫自身の要望「蕎麦屋の出前が片手で運転でき、若い女性がスカートをはいたまま乗れるオシャレなオートバイを開発してほしい」ということを本田宗一郎に伝える。帰国後、本田宗一郎はいくつもの試作車を作成していった。

この年に、生産管理の合理化に着手する。

1957年(昭和32)3月、全国統一価格発表。

全国統一価格について

それまでのオートバイ価格の常識は、生産工場から遠い地域は輸送コストがかかるため、オートバイの値段も高くなる傾向があった。オートバイ価格を統一することで、消費者は価格がわかりやすく、会社としては業務やPRの生産性が上がった。

なお、日本国内でのオートバイ業界初の全国統一価格の実施は、みづほ自動車製作所で1953年(昭和28)のことであった。 藤沢武夫は、みづほ自動車製作所の失敗を分析していたに違いない。みづほ自動車製作所の歴史は、「みづほ自動車製作所の倒産理由から見える価格戦略の正しい考え方」をご覧ください。

同3月に、ドリーム号に1万円の1次値下げを実施。

同年8月、ドリーム号、ベンリィ号に、 2次値下げを実施。

公定歩合の引き上げと価格の値下げの影響

3月に公定歩合が7.3%から7.67%に引き上げられたが、公定歩合が引き上げられると銀行の金利が高くなるため、企業は設備投資が行いにくくなる。すると、オートバイの生産性を高められなくなるため、他社はホンダが仕掛けた価格競争の追従が難しかった。藤沢武夫は値引きを決断する前には、各部署の担当者に直接電話して財務的に耐えられるか、増産に耐えられるかを確認し、最終調整をしている。

8月、公定歩合がさらに7.67%から8.4%に引き上げられている。それに合わせるように主力商品の2度の値下げが行われた。1度目の値下げにはなんとか耐えられたが、さすがに2度目の値下げに追従できる企業は少なかったようだ。

2度の値下げの結果、ホンダのオートバイが爆発的に売れ、競合他社の倒産が加速し、国内シェア80%を獲得する。藤沢武夫は、このシェアの大きさに「社員が慢心するのではないか」という危機感を持った。

大卒技術者に採算感覚を教える

また、この頃から藤沢武夫は、工場で働く大卒技術者に採算感覚を教え、他の従業員にお金の説明ができるように、集中して教育している。

「課長や部長は、未来を見通す力、リードできる力をもっていなければなりません。部品の価格は技術者だからわかるんですが、その価値とお金の流れとの両方を知らなければ経営はできない。」と述べている。

その教育のときに、藤沢武夫が自ら万物流転の法則を教えている。つまり、経営担当者育成を意識し、企業存続のための原理・原則を教えている。当時の男性の平均寿命は65歳ほど、定年退職が55歳であった。本田宗一郎が50歳、藤沢武夫が46歳だったので、次代のことを考え始めていたのに違いない。

1958年(昭和33)7月、スーパーカブC100(50cc)発表。8月より発売開始。価格は55,000円(現在の価格で約25万円)。

藤沢武夫は、完成したスーパーカブを見て「月5万台は売れる。間違いない。」と予見。当時は国内でオートバイ販売台数が年間5万台ほどであった。「スーパーカブは巨大な市場となるのに違いない。慎重にPRをしていかなければ」と考え、それまでの常識とは異なる斬新な広告宣伝を展開している。スーパーカブは、最大月10万台も売れ、藤沢武夫の予想が良い意味で外れたようだが、その生産を支える設備や人員が経営危機の種となる。

1959年(昭和34)1月、通産省から発表されていた国民車構造に沿った四輪の試作車が完成。

同年6月、マン島TTレースに初出場。「初出場でメーカーチーム賞を獲得する」という快挙を得る。世界中のオートバイ市場にHondaの名前が知れ渡り、海外進出の足掛かりができる。これと同時に米国進出を画策する。

1960年(昭和35)4月、鈴鹿製作所が発足。

1961年(昭和36)、マン島TTレースで初優勝。125ccクラスと250ccクラスで1位から5位までを独占という快挙を達成。その直後に、藤沢竹をはマン島TTレースのスタッフたちに、サーキット場の建設を示唆する。

同年、藤沢武夫(50)は奨学金の財団「作行会」を設立。本田宗一郎(54)も出捐(しゅつえん)している。藤沢が、財団設立に資金を出すことを本田に伝えると、本田は「オレもお金を出すしかないじゃないか」という反応ぶりだった。

その後に、さまざまな事業を展開していく。

1962年(昭和37)9月、鈴鹿サーキット竣工。

1964年(昭和39)1月、F1出場を宣言。

同年4月、藤沢武夫が本田技研工業の副社長に就任。

同年6月、本社に役員が一室で働く「役員室」を設置。間もなく、藤沢武夫(53)は4名の専務(河島喜好、川島喜八郎、西田通弘、白井孝夫)の成長を感じ、引退を意識し始める。各工場の体制を大幅に改革し、仕事の流れを中心とした工場に変更し、工場主体でなく分野毎に所長や工場長を配置して大幅な権限譲渡を行う。

同年8月にはF1初出場(西ドイツGP)。翌年、F1初優勝。

このとき、藤沢武夫は四輪車事業の本格的進出を踏まえて、サービス・ファクトリー構想を打ち出している。

四輪車の発売では、「市場規模が商用車の方が大きい」と藤沢武夫が判断し、トラックT360が、乗用車S500よりも先に発売されている。 なお、T360はトラックにもかかわらず、DOHCエンジンが国産自動車で初めて搭載された。DOHCエンジンは、それまで四輪車にはレース用でしか使用されていなかった。

引退とその後

1966年(昭和41)7月、大気汚染対策研究室(AP研)が発足。

1968年(昭和43)4月、専門職資格制度をスタート(生産・技術部門)。経営にならずに技術者で終える従業員にも、仕事に対する目標や成長意欲を持ってもらいたいことから生まれた制度である。ホンダグループは、このように人の成長を促す仕組みを構築している。この制度の導入にあたり、「エキスパートが引き抜きに遭ったらどうするのか。」という問いに対して、藤沢武夫は「日本にホンダの考え方が広がるから良い」と述べている。

専門職資格制度発足が意味することとは?

専門職資格制度の発足は、藤沢武夫の長年の夢であった。藤沢武夫は、1960年(昭和35)頃から、万物流転の法則に抗い、本田技研工業を永続的に存続・向上させるための方法を模索していた。

本田宗一郎という天才によってここまで大きくなった会社であるが、本田宗一郎はすでに61歳。本田宗一郎に代わる集団をいかに組み合わせ、向上させていく仕組みを構築するかが課題であった。それに目途が立った今、藤沢武夫は残された最後の仕事に取り組む。

それは、本田宗一郎と自分自身の引退であった。

その時期に、空冷エンジンにこだわる本田宗一郎に対し、水冷エンジンを推奨する若手技術者の間でトラブルが発生。藤沢武夫は本田宗一郎に「あなたは本田技研の社長としての道をとるのか、それとも技術者として本田技研にいるべきだと考えるのか、どちらかを選ぶべきではないでしょうか。」と問うている。本田宗一郎はしばらく考えた後、「やはり、おれは社長としているべきだろうね」。すかさず返した藤沢武夫の「水冷をやらせるんですね?」に、本田宗一郎は「そうしよう。それがいい」と水冷エンジンの開発を認めている。

この本田宗一郎の回答により、藤沢武夫が描いていた万物流転の法則に反して成長していく本田技研工業の組織図が完成する。このときから、本田宗一郎は引退を意識し始める。

この後、開発されるほとんどの四輪車で水冷エンジンが採用される。

1971年(昭和46)4月、本田技術研究所の社長が本田宗一郎(64)から河島喜好(43)に交代。

1972年(昭和47)12月、CVCCエンジン、マスキー法75年規制値に世界で初めて合格。

同年、藤沢武夫の出資で、秋田県仙北郡に手づくり煎餅製造会社セセを創業。採算の目途が立たず6年余りで廃業となった。藤沢武夫には珍しく、まったく他品種、他業界に進出している。秋田県仙北郡は、毎年冬になると積雪が1~2mあり、冬は出稼ぎに出る人が多かった。そういった人の中に、ホンダの耕運機を利用しているお客様がおり、冬の間だけホンダの工場で働いている人がいた。「冬でも家族の元を離れずに仕事ができるように」という希望を叶えるために、冬の間だけ稼働する工場を設立させた。

1973年(昭和48)10月、社長本田宗一郎(66)、副社長藤沢武夫(62)が退任し、それぞれ取締役最高顧問に就任。新社長に河島喜好(45)、副社長に川島喜八郎(おそらく45)と西田通弘(50)が就任。

1974年(昭和49)9月、本田宗一郎、藤沢武夫、本田技研工業の出捐で、公益財団法人国際交通安全学会(IATSS)を設立。

1983年(昭和58)10月、本田宗一郎(76)と藤沢武夫(72)は、取締役を退き最高顧問となる。

久米是志への経営アドバイス

本田技研工業の三代目社長となられる前の、本田技術研究所の社長に就任した久米是志(1932~2022年)氏は、商品の品質問題に遭遇していた。藤沢武夫がふいに現れて、それ対してアドバイスをしている。

そのときのアドバイスは、「いくら先をみつめたって、そんなところには未来はない。未来を見たければ、自分たちの過去を探しなさい。過去の失敗の泥の中に、未来を開く『鍵』がある。」というものだった。

本田宗一郎と藤沢武夫は、引退後はあまり会社へは行かず、後釜にすべてを託すものだった。久米是志氏にアドバイスをしたことは珍しいことだった。引退後の本田宗一郎は公的な仕事と趣味に没頭。藤沢武夫は、六本木で骨董品屋を経営しつつ趣味に没頭している。

1988年(昭和63)12月30日、藤澤武夫最高顧問逝去(享年78歳)。心臓発作だった。

2023年(令和5)7月、藤沢武夫が米国自動車殿堂入りとなる。(HONDA「元最高顧問 藤澤武夫の米国自動車殿堂入り授賞式典開催」を参照。本田宗一郎は、1983年10月に日本人として初となる米国自動車殿堂入りを果たしている。)

藤沢武夫の名言

藤沢武夫は、さまざまな名言がありますが、私がすぐに思い出す一言は、「万物流転の法則にあがらう」です。

万物流転(ばんぶつるてん)の法則とは、直訳すると「物事は必ず移り変わる」という意味です。仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」でも有名です。

会社は今のまま現状維持を目指してしまうと、必ず衰退します。現状維持をしたいのであれば、少なくとも業界の伸び率と会社の成長率が同じであったときです。また、業界が衰退しているのであれば、会社が成長していたとしても、衰退を予見させられます。

会社は生き物のように生き延びようとする性質があります。藤沢武夫は本田宗一郎と二人で引退した後をも、本田技研工業の発展を考え、万物流転について考えました。

会社の成長を考えることは、従業員がいる会社では、当たり前のことと思います。しかし、会社の成長を考え続けられるかどうかは、社長の器によるものと考えます。その器は、さまざまな要因で大小が決まります。

社長が万物流転の法則を考えるとき、そこに経営の悟りと言えるものが見えてくることと思います。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら万を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくる独自の戦略系コンサルティングを開発する。

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