
今回のテーマは、IMC伊藤機関工業(以下、伊藤機関工業)の倒産理由を取り上げました。
IMGは、「Itho Machine Cycle」の略です。
伊藤機関工業は、技術系社長である伊藤仁一(いとうじんいちorきみかず、1917~?)氏です。
伊藤仁一は、工業学校を卒業後に三菱重工に就職、名古屋発動機製作所にて治工具の設計部で終戦を迎えます。おそらく終戦後の三菱重工の解体時に退社しました。その後に、本田技術研究所(のちの本田技研工業)の真似をして、軍用エンジンを流用した自転車用補助エンジンを開発したことが、オートバイ事業のスタートでした。そして時代や天災によって衰退し、1962年に吸収合併されて消滅しました。
当社では、さまざまな企業の社史を研究しています。戦後10年ほどのオートバイメーカーの戦い方を研究していると、今現在でも「どのような経営方針を取ると倒産するのか」「逆に、どのような経営方針だと事業が継続・成長するのか」という教訓を、たくさん得られることに気がつきました。
調べていると、伊藤仁一は、本当に優秀でかつ紳士的な技術者で、顧客中心に考えてオートバイを設計する人でした。そのような人物がなぜオートバイ事業に取り組み、どのような方針で経営をし、なぜ倒産させてしまったのか。伊藤機関工業の時代背景や倒産理由を探り、何らかの教訓を得たいと思います。
伊藤機関工業は、国内生産台数では業界20位くらいの中堅企業だったため、詳しい資料が残されていませんが、時代背景などからどのような経営をされていたのかを憶測を交えて解説いたします。
技術力を売りにしている経営者様、会社の事業規模を大きくしたいとお考えの経営者様の参考になれば幸いです。
伊藤機関工業のオートバイの特徴
伊藤機関工業のオートバイは、ヨーロッパのオートバイを研究して他社とは異なる時代先取りした技術を取り入れ、高級オートバイとしてリリースしました。
IMC K型は、1954年のオートバイ雑誌「モーターサイクリスト」のコンクールにて1位を受賞し、それを契機に全国展開を目指します。
名称・型式 | 発売年 | エンジン | 馬力 |
---|---|---|---|
ハヤブサA | 1947年 | 東京発動機 2サイクル 80cc(78cc) | 2.3HP (4,800rpm) |
ハヤブサB | 1948年 | 東京発動機 2サイクル 80cc(78cc) | 2.3HP (4,800rpm) |
ハヤブサC | 1949年 | 東京発動機 2サイクル 80cc(78cc) | 2.3HP (4,800rpm) |
IMC D型 | 1950年 | 三菱 4サイクルSV 150cc(148cc) | 3HP (3,600rpm) |
IMC E型 | 1950年 | 三菱 4サイクルSV 150cc(148cc) | 3HP (3,600rpm) |
IMC F型 | 1952年 | 三菱 4サイクルSV 150cc(148cc) | 3HP (3,600rpm) |
IMC G型 | 1952年 | 三菱 4サイクルSV 180cc(175cc) | 3.5HP (3,800rpm) |
IMC H型 | 1953年 | 片山産業 4サイクルOHV 150cc(148cc) | 4HP (4,500rpm) |
IMC I型 | 1953年 | 三菱 4サイクルSV 150cc(148cc) | 3HP (3,600rpm) |
IMC J型 | 1954年 | 三菱 4サイクルSV 180cc(175cc) | 3.5HP (3,800rpm) |
IMC K型 | 1954年 | みづほ 4サイクルOHV 250cc(249cc) | 12HP (5,500rpm) |
IMC NB型 | 1955年 | ガスデン 2サイクル 125cc(122cc) | 6HP (5,000rpm) |
IMC JL型 | 1955年 | 三菱 4サイクルSV 180cc(175cc) | 3.5HP (3,800rpm) |
IMC M型 | 1955年 | 川崎航空機 4サイクルOHV 250cc(247cc) | 11HP (5,200rpm) |
IMC OB型 | 1956年 | ガスデン 2サイクル 125cc(122cc) | 6HP (4,700rpm) |
IMC P型 | 1956年 | ガスデン 2サイクル 200cc(198cc) | 8.5HP (4,500rpm) |
IMC R型 | 1956年 | ガスデン 2サイクル 250cc(243cc) | 13HP (4,500rpm) |
IMC Q型 | 1957年 | ガスデン 2サイクル 125cc(122cc) | 6HP (4,700rpm) |
IMC QB型 | 1957年 | ガスデン 2サイクル 125cc(122cc) | 6HP (4,200rpm) |
IMC T型 | 1957年 | ガスデン 2サイクル 250cc(243cc) | 13HP (4,500rpm) |
IMC MS型 | 1957年 | 川崎航空機 4サイクルOHV 250cc(247cc) | 12HP (5,200rpm) |
IMC U型 | 1958年 | ガスデン 2サイクル 200cc | 10.8HP (5,500rpm) |
IMC R型 | 1958年 | ガスデン 2サイクル 250cc | 12HP (4,500rpm) |
IMC YB型 | 1959年 | ガスデン 2サイクル 125cc | 5.8HP (5,000rpm) |
IMC BA型 | 1960年 | ガスデン 2サイクル 125cc | 5HP (4,200rpm) |
IMC ジュニアBC型 | 1960年 | ガスデン 2サイクル 125cc(124cc) | 8.7HP (7,500rpm) |
IMC KB型 | 1960年 | ガスデン 2サイクル 250cc(246cc) | 14HP (5,500rpm) |
IMC R-Ⅱ型 | 1960年 | ガスデン 2サイクル 250cc | 17HP (6,000rpm) |
IMC ジュニアBCS (試作車) | 1961年 | ガスデン 2サイクル 125cc(124cc) | 10.5HP (8,000rpm) |
※この表はさまざまな資料を元に作成しましたが、資料で内容が異なっていたため、新たな資料が見つかったときに修正する場合があります。
この表を眺めていると、いろいろなメーカーからエンジンを仕入れていましたが、最後はガスデン(富士自動車)に落ち着いたようです。ガスデンは、2サイクルエンジンを中心としたエンジンのメーカーでした。ガスデン自身もオートバイを出していましたが、オートバイ開発には力を入れていなかったと思われます。
エンジンの排気量は、125ccと250ccの小型車が中心でした。本田技研工業がさまざまなサイズのオートバイを出していたことと比べると、ニッチトップを狙った中小企業の戦略が伺えます。
伊藤仁一の経歴と伊藤機関工業の沿革
伊藤仁一は、1917年(大正6年)、愛知県中島郡祖父江町に生まれました。本田技研工業の創立者、本田宗一郎(ほんだそういちろう、1906~1991)氏よりも10歳ほど年下です。
当時の小学校は、尋常小学校を6年で卒業した後は、主に就職、中学校、高等学校、実業学校(3年)の4つの選択肢がありましたが、伊藤は実業学校に進学しました。
オートバイ製造前夜まで
三菱重工時代
1930年(昭和5年)、工業学校に通った後に三菱重工名古屋発動機製作所に就職。治工具の設計部で図面を作成する仕事に従事します。
就職当時は昭和恐慌真っ只中だったので、就職ができただけでも幸運だったと言えます。職場では治具の図面を作成する仕事をしながら、アルミパイプの曲げ方などの、将来にオートバイ製造につながる技術を、見よう見まねで学んでいました。真面目な性格だったが故に、技術を身につけていったと思います。
開戦へ
1937年(昭和12年)、日中戦争が開戦すると、名古屋は三菱を中心とした軍需工場都市へと変化していきます。
戦争末期、名古屋は多くの軍需工場があったため、激しい空襲を受けました。B29による18回の爆撃により、総数1万4,000tもの爆弾が落とされ、名古屋市内の1/3が焦土化しました。幸いに伊藤氏は名古屋市内に住んでいたが戦災には遭いませんでした。
1945年(昭和20年)、伊藤が28歳のときに、終戦と共に15年務めた三菱を退職。そのときに、三菱の社宅を買い取って、自宅にしていました。
伊藤モータースを設立
ハヤブサ号の開発
1947年(昭和22年)、30歳のときです。当時、名古屋市内に走っていたホンダ製のバタバタを見て、「自分も同じものをやろう」ということで、旧日本軍から放出された東京発動機(後のトーハツ)製のエンジンを探し出し、自分で図面をひいて部品を製造してもらい、自転車に取り付けるものを販売しました。その名称を「ハヤブサ号」と名付け、伊藤モータースを設立しました。
戦後に各社がオートバイを開発
三菱では、戦後に飛行機は製造できませんから、民生用としてスクーターの製造をし、シルバーピジョンという名称で販売します。スクーターは、中島飛行機から転身した富士重工のラビットを製造・販売し始めていたので、それに合わせて製造を開始したものと思われます。この2車種は、日本を代表するスクーターとなりました。しかし、戦後の価格高騰の時代では、一般庶民からすると高額だったはずです。今の感覚で、100万円ほどでした。
ホンダの自転車用補助エンジンバタバタは、1946年(昭和21年)10月から販売されていました。闇市で商売をする人たちに需要があり、販売者が夜行列車に乗って仕入れにくるほどでした。それが岡山の方まで売られていたくらいですから、名古屋市内で走っていても不思議ではありませんでした。
名古屋市内では、1946年(昭和21年)にみづほ自動車製作所が工場を再開させ、戦時中に海軍に納品していた発電機用小型エンジンを改造して、「ビスモーター」という名称で販売しています。バタバタよりもビスモーターの方が圧倒的に多く売れていたので、名古屋では自転車用補助エンジンのことを、「ビスモーター」と言っていたそうです。
小さな会社の成長段階
伊藤は、自分の技術を活かせて手軽に始められそうなこと、そういった需要の多さもあり、自転車用補助エンジンの事業を開始したと思われます。製造したらすぐに売れる時代でしたが、手持ちの無かった伊藤は、衣類や時計、貴金属類を売って元手をつくり、エンジンを仕入れました。「自分の技術を活かすことができ、すぐに売れるもの」ということで始めたものと思います。
販売台数が伸び、従業員を1人、2人、3人と増やしていきました。エンジンを1,000台近く販売したときにエンジンの在庫が尽きたため、製造元の東京発動機に訪問して相談したところ、エンジンの素材があったので、自分でエンジンを設計しその図面通りに加工してもらい、納品してもらいました。そして東京発動機の在庫もすべて使い果たし、鋳型を起してさらに生産をしました。
小さな会社は、「他人のひさしを借りる」ということが鉄則ですが、本田技研工業も他社のエンジンを利用することから始まっています。
東京発動機の裏切り
東京発動機はそのエンジンを、伊藤に許可を取ることなく無断で使用して、トーハツ号を製造・販売してしまいました。
当初、東京発動機は「当社は、オートバイ用エンジンは製造しない」と言っていたので、それを信じて契約書を交わさないで製造してもらっていた矢先でした。
東京発動機との差別化
1948年(昭和23年)、伊藤は「エンジンは東京発動機に使用されてしまった。東京発動機が出したものと同じものを売っても大手に負けてしまうことは必至。差別化をするために、車体に特長を出していくしかない」ということで、自転車業者と提携して特殊フレームを製造してもらい、ハヤブサ号B型やC型を製造しました。
エンジンは三菱から調達し、そのエンジンに合わせるように車体をデザインし、ほとんどのパーツを外注先に作らせていました。そして、自社で組み立てて販売していました。
アッセンブリメーカーが主流の時代
このような部品を仕入れて完成品を仕上げるメーカーのことを「アッセンブリメーカー」といいます。
名古屋はもともと工業都市でもあり、オートバイに必要な各種部品(フレーム、エンジン、ミッション、ギヤ、シリンダー、点火プラグなど)が製造できる中小企業が市内にあったので、そこから部品を仕入れて組み立てるだけのメーカーでも十分にやっていけました。1950年前後では、アッセンブリメーカーであることが常識でした。
伊藤モータースは、工場が必要となり、自宅の庭に9坪(約30m2)の工場を建てました。
伊藤機関工業を設立
1950年(昭和25年)、伊藤は東京発動機に対抗することや、「これからは補助エンジンではなく本格的なオートバイの需要が伸びるだろう」と考え、社名を伊藤機関工業と改組し、本格的なオートバイ「IMC D型(150cc)」を開発し販売しました。
伊藤の方針
伊藤の方針は、「エンジンを下手に造っては命取りになる。フレームだけを造ってエンジンは一流品を買い入れて取り付ける」というものでした。伊藤の性格は、温厚で堅実を旨としていました。
伊藤には、もう一つ大きな方針があります。それは、「ムダを徹底的に削減する」というものです。長距離の出張のときでも、社長自身が二等車を利用するほどでした。堅実で実直な性格の伊藤ならではの方針です。
このムダの削減は、場合によっては大胆な方針転換を妨げることにもつながりかねません。社長として、投資なのか消費なのかの見極めは、時に社運をも左右する場合があります。
軽2輪という市場の読み
150ccのエンジンを搭載した小型の本格的なオートバイを開発したわけですが、これは市場の読みとしては合っていました。
当時の国内における生産台数の推移は次の通りです。1951年からは250cc未満の生産台数が急激に伸びています。250cc以上も倍々と伸びていますが、生産台数は250cc未満の1/10程度です。また、1954年から生産台数は減ってきていることがわかります。
年 | 250cc未満 | 251cc以上 | 原付 |
---|---|---|---|
1951年 | 13,647台 | 2,329台 | 17,232台 |
1952年 | 56.316台 | 5,045台 | 70,863台 |
1953年 | 110,856台 | 14,599台 | 275,781台 |
1954年 | 106,732台 | 11,674台 | 202,505台 |
1955年 | 222,330台 | 6,445台 | 172,032台 |
1951年(昭和26年)頃から、各社のエンジンの性能が向上し、小型車でもパワーが出るようになり、市場の認識の変化があり、「小型車はパワーがない」から「小型車で十分」に変わっていきました。トップは、この認識の変化を素早くつかむことができたら、一儲けできます。
当時は、オートバイメーカーがタケノコように乱立しており、その需要に応えるようにオートバイ用のエンジンだけが市販されていた時代でしたから、「エンジンは一流品を買い入れて取り付ける」という方針としては妥当なものでした。
伊藤機関工業の成長
その後のIMC号は、さまざまな改良を加えていって、1950~1952年の朝鮮特需も相まって、販売台数を伸ばしていきました。
1952年(昭和27年)、名古屋市昭和区にあった市場の跡地60坪を買い取り、隣接する40坪と合わせて、100坪の新工場を設立。従業員数約50人、月産200台にまで成長していました。その時期は、伸びていた企業は海外から優秀な工作機械を仕入れて生産性と品質を高めていましたから、「優秀なエンジンを仕入れる」という方針も、あながち間違いではなかったと思います。
しかし、本田技研工業の月産台数が1,000台ほどで従業員数が220人でしたから、伊藤機関工業の労働生産性は悪かったと言えます。堅実を旨としていたことは良いとしても、この生産性の差が後の大きな差になっていき、後に勝敗を左右するものになりました。要するに、本田技研工業の方が圧倒的に厳しく経営や生産を行っていたと言えます。
1953年(昭和28年)には、名古屋のオートバイメーカー、片山産業(オリンパス号)の150cc 4サイクルOHVエンジンを導入しています。片山産業は、1948年に農業用発動機の製造を始め、1950年にオートバイ製造に参入しました。1951年からは完全にオートバイメーカーになります。
片山産業から営業があり、「一度採用してみよう」ということだったと思いますが、片山産業からの仕入れは今回限りでした。片山産業は伊藤機関工業よりも小企業であり、エンジンの品質が悪かった可能性があります。
1953年頃は、QCサークル活動が日本に導入され始めていましたが、片山産業といった小企業では、QCを導入することはありませんから、三菱出身の伊藤には「片山産業のエンジンでは品質が担保できない」と思ったことでしょう。そのようなことで、エンジンを三菱に戻しています。
名古屋TTレースに出場
1953年(昭和28年)、マン島TTレースを模した、本格的な国内オートバイレース「名古屋TTレース」が開催され、IMC号も出場しました。結果は、個人では惨敗、チームでは7位と振るいませんでした。
当時は、オートバイレースで優勝するということが優秀なオートバイであるという証明になっており、売上に直結していました。ところが、オートバイレースに1台出場させるために、今の金額で1千万円ほどかかっていたため、中堅企業にとってはバクチ的な要素がありました。
伊藤機関工業は、その後のレースには出場していません。
みづほ自動車製作所との提携と裏切り
みづほ自動車製作所との提携
1953年(昭和23年)は、法律改正によって、「小型車が4サイクルは250cc、2サイクルは150ccまで」と排気量が高くなり、各社それに合わせてエンジンの変更や改造を行いました。伊藤機関工業は、みづほ自動車製作所から250ccエンジンを仕入れることになります。
1954年(昭和29年)には、みづほ自動車製作所が開発した250cc 4サイクルOHVエンジンを提供してもらっています。IMC K型です。そのエンジンは、「みづほは大型車しか販売しない」という条件で、伊藤機関工業が買い入れました。
K型に採用されたエンジンは、他に4社(協和自動車、永田自動車工業、日進工業、新井自動車)にも販売されていたようです。
コンクールで優勝
みづほ自動車製作所のエンジンは250ccでもワンランク上の重量感があり、車体のデザイン性も素晴らしいものになりました。
この機種がオートバイ雑誌「モーターサイクリスト」のコンクールにて1位を受賞します。当時のオートバイと言えば、「路面の悪い日本では、大型をゆっくり走らすことがカッコイイ」とされた時代でした。そのようなオートバイに合致していました。
しかし市場では、大型をゆっくり走らすことよりも、荷物を運ぶための小型オートバイの方が需要がありました。
それを契機に全国展開を目指し広告を打ちます。「K型でいっきに全国展開を目指したい」というものでした。電通に依頼し、全国50紙ほどにJ型とK型の広告を打ち、北海道から鹿児島まで62店の販売店を指定しました。主に、トヨタ自動車の代理店を狙っていたようです。
広告費をどれくらいかけたのかは分かりませんが、おそらく新しい工場を建てられるくらいの金額だったと考えます。
伊藤機関工業 | 本田技研工業 | |
---|---|---|
1952年(昭和27年) | 768台 | 9,659台 |
1953年(昭和28年) | 1,555台 | 29,797台 |
1954年(昭和29年) | 1,883台 | 26.236台 |
みづほ自動車製作所の方針と経営危機
みづほ自動車製作所は、内藤正一社長の「大型車をワンランク下の価格で提供」という方針を取り、1953年(昭和28年)に大幅値下げを断行しています。それまでは、ビスモーターの62ccを除いて、350ccから500ccの大型車のみを開発していました。
内藤は、「かっこいいオートバイを流行らせたい」という目標を持っていました。しかし、市場は運搬用のオートバイを求めていたので、小型車に軍配がありました。
本田技研工業のような小型車で大型車並みのパワーを出せるオートバイまで出現していたからです。また、現在では大きなオートバイで優雅に走ることも求められますが、当時のオートバイ市場は運搬用でしたから、小型車で十分でもありました。
なぜ内藤はムチャをしたのか?
値下げを断行して少しは売れたようですが、仕入先への強制値下げによって部品の品質が大幅に下がり、「安かろう悪かろう」という噂が立ってしまって、販売不振に陥りました。
そこで、1955年(昭和30年)に無断で流用して、「ミヅホ号」という名称で販売しました。キャブトンは大型車というイメージがあったことや、内藤が「キャブトンという名称を使いたくない」と思っていたこと、メグロや陸王も250ccを製造し始めていたこと、大型車が売れないという時流から、250ccの開発に取り組んだものと考えられます。
CABTONの語源は、「Come And Buy To Osaka Nakagawa」の頭文字で「大阪中川幸四郎商店まで買いに来い」という意味でした。中川幸四郎商店にみづほ自動車製作所がエンジンを卸していた関係で、戦後になって日本中に知られていたCABTONという名称でオートバイを製造することになった経緯がありました。
また1955年からは、それまで60ccから免許が必要でしたが、125ccまでが許可制でオートバイに乗ることができるようになったので、小型オートバイの需要がさらに伸びることが予想されました。
IMC K型(250cc)が190,000円で売られましたが、キャブトンFXO(350cc)が165,000と同額でした。みづほ自動車製作所に交渉し、エンジンを値下げしてもらって、K型を165,000円で販売します。ところが、同じエンジンを搭載したミヅホMJ(250cc)が135,000円でした。
エンジン提供の打ち切り
その直後、「他社にエンジンを提供しない」と一方的な契約の打ち切りを言ってきました。これは経営危機に匹敵するものですから、この時ばかりは温厚な性格の伊藤も憤慨したに違いありません。
せっかくK型を全国的にPRしたのにもかかわらず、その費用がムダになってしまったばかりか、代理店から苦情が来てその対応に追われたのに違いありません。
しかし、全国に支店を持たない伊藤機関工業は、販売のための資金が高くなり、かつ代金の回収に手間がかかるようになりました。そのため、資金繰りが悪化していくことになります。販売店を東京に持ち、それを足掛かりに全国主要都市に販売網を広げていった本田技研工業からすると、販売のノウハウが乏しかったと言えます。
デザイン性で認められていた伊藤機関工業は、この段階で方針転換し、融資を受けて大胆な改革をしていたら、大手メーカーに5年ほどで追いついていた可能性もあります。しかし、堅実な性格の伊藤にはそのような決断はできませんし、基本的にやってはいけないことです。
複数のエンジンを採用
オートバイの重要部品を1社だけに頼っていたら、その1社から仕入れられなくなってしまったらまた経営危機が起こります。みづほ自動車製作所に裏切られた伊藤機関工業はエンジンを求めて、複数のエンジンメーカーと交渉します。そして、1955年(昭和30年)には、次の3種類のエンジンを採用したオートバイを開発します。
- 三菱4サイクルSV(180cc)
- 川崎航空機4サイクルOHV(250cc)
- ガスデン2サイクル(125cc)
その後、伊藤機関工業はガスデンのエンジンを採用し続けることになります。ここで、3社のエンジンを取り入れて1年間に3車種もリリースすることになりますが、みづほ自動車製作所に裏切られたことからの焦りが伺えます。
またガスデン2サイクル(IMC NB型)は、125ccの許可制に合わせて開発されたものと考えます。これが、伊藤機関工業初の125cc小型オートバイでした。
1956年(昭和31年)1月に、みづほ自動車製作所は不渡りを出してしまいました。
伊藤機関工業 | 本田技研工業 | |
---|---|---|
1952年(昭和27年) | 768台 | 9,659台 |
1953年(昭和28年) | 1,555台 | 29,797台 |
1954年(昭和29年) | 1,883台 | 26.236台 |
1955年(昭和30年) | 1,863台 | 40,822台 |
1956年(昭和31年) | 2,002台 | 55,031台 |
新工場と伊勢湾台風
港区に新工場を設立
1956年(昭和31年)、伊藤機関工業は全国的に広告を打ったことによって、名前が少し知られるようになり、わずかに売上が増えました。
注文が増えても生産ができなければ意味がありませんから、名古屋市港区に760坪の土地を購入し、工場を増設します。1957年(昭和32年)1月に、月産350台の工場が操業開始しました。当時の従業員数は60人ほどです。
1957年に2,477台と歴代最高の生産台数となります。これでも稼働率は約65%ですし、市場では2サイクルよりも4サイクルが求められていたので、大きな伸びはありませんでした。
そして、翌年の1958年には2,003台と生産台数が下がりはじめました。これは、本田技研工業の価格戦略からだったと考えます。1957年に公定歩合が2回上昇していますが、それに合わせて本田技研工業は値下げ交戦を2度仕掛けています。
この値下げ交戦は、みづほ自動車が行ったものとは異なり、地に足の付いた入念に練られた戦略でした。大手企業は、時にこのような戦争を仕掛けてくることを覚えておいてください。
さらに、1958年は本田技研工業からスーパーカブC100(4サイクル50cc、4.5馬力)が市販されます。市場は、そちらに流れていってしまいました。
伊藤機関工業 | 本田技研工業 | |
---|---|---|
1952年(昭和27年) | 768台 | 9,659台 |
1953年(昭和28年) | 1,555台 | 29,797台 |
1954年(昭和29年) | 1,883台 | 26.236台 |
1955年(昭和30年) | 1,863台 | 40,822台 |
1956年(昭和31年) | 2,002台 | 55,031台 |
1957年(昭和32年) | 2,477台 | 77,509台 |
1958年(昭和33年) | 2,003台 | 117,375台 |
伊勢湾台風に遭遇
そして、1959年(昭和34年)9月に伊勢湾台風に被災します。伊藤機関工業の工場は2ヶ月に渡り操業できなくなりました。直接の被害総額は、今の金額で5,000万円ほどでしたが、その間に代理店は販売できるオートバイを求めて他社に乗り換えていきました。
その年は、本田技研工業のスーパーカブが空前の大ヒットを迎え、ダイハツのミゼットが出ていたので、それらの販売店に乗り換えたところもありました。
名古屋で78社が操業されましたが、伊勢湾台風による被害でほとんどのオートバイメーカーが撤退し、そのときには伊藤機関工業と片山産業(オリンパス号)と2社になっていました。
伊藤機関工業はいよいよ倒産に向かって、生産台数を減らしていきます。1961年(昭和36年)、収支が赤字に転落し、製造すればするほど赤字になっていきました。1962年(昭和37年)2月、取引銀行と相談し債権者や代理店に向けて整理宣言を行います。
倒産後
倒産後は、債権者に債務を半額免除してもらい、工場跡地を売却して赤字を埋め合わせました。その後は、IMC号の部品を提供する部門だけを残して、日産に吸収されます。
その後の伊藤の資料はありません。おそらく、どこかの会社に就職したのではないかと思います。
倒産に対して伊藤は、倒産を潔く受け入れていたため後悔はありませんでしたが、何年も自分を信じてついてきてくれた従業員に申し訳なく感じたそうです。
「早くにオートバイに見切りを付け、別事業に業態変換していたり、平行して別事業を行っていたら、月産100台ほどでオートバイ事業を続けていけたのではないか。」と述懐していますが、不可能ではないとしても、その後の時代の流れからすると難しいことだったと思います。
伊藤機関工業 | 本田技研工業 | |
---|---|---|
1952年(昭和27年) | 768台 | 9,659台 |
1953年(昭和28年) | 1,555台 | 29,797台 |
1954年(昭和29年) | 1,883台 | 26.236台 |
1955年(昭和30年) | 1,863台 | 40,822台 |
1956年(昭和31年) | 2,002台 | 55,031台 |
1957年(昭和32年) | 2,477台 | 77,509台 |
1958年(昭和33年) | 2,003台 | 117,375台 |
1959年(昭和34年) | 1,674台 | 285.218台 |
1960年(昭和35年) | 1,313台 | 649,243台 |
1961年(昭和36年) | 622台 | 935,854台 |
IMC号に採用したエンジン
IMC号に採用されたエンジンの製造元は、次のような遍歴になります。
- 東京発動機
- 三菱
- 片山産業
- みづほ自動車製作所
- 川崎航空機
- ガスデン
4サイクルエンジンの成長
これらが製造していたエンジンを見ていると、伊藤の経営方針が伺えます。市販されている4サイクルエンジンは、1950年代から4サイクルの需要が伸びたことと高出力化がありました。
伊藤が当初は大手企業からしかエンジンを仕入れていませんでした。「エンジンを下手に造っては命取りになる。」という言葉からもわかるように、当時のエンジンは信頼性が低いものでした。
ところが、1952年頃には、静かで高性能な4サイクルエンジンが開発されるようになり、SVの時代が終わりを告げていました。そういった高性能なエンジンは開発されたばかりですから、伊藤は仕入れることを躊躇したかもしれません。
本田技研工業が自社初の4サイクルOHVエンジンを開発して、「日本一の4サイクル小型エンジン」として名をはせたのは、1951年のことです。ところが伊藤機関工業が採用した4サイクルエンジンは、旧型のSVでした。
このことからも、最新の技術のものではなく、旧型の信頼性の高いエンジンを「一流品」としていた節があります。伊藤は、エンジンにパワーではなく信頼性を求めていました。しかし、市場は壊れにくくてパワーの出るオートバイを求めていました。
IMC号とドリーム号のパワー比較
1955年に川崎航空機から仕入れた4サイクル250ccOHVエンジンは、11HP/5,200rpmとパワーが出るものでしたが、時代はさらに高出力なOHCへと移行している時期でもあり、伊藤は慎重になり過ぎていた節があります。本田技研工業から発売されていたOHCエンジンの出力を見てみましょう。
- 1955年、ドリーム250SA = 10.5SP/5,500rpm
- 1956年、ドリーム250SE = 14SP/6,000rpm
- 1957年、ドリームC70 = 18SP/7,400rpm
- 1958年、ドリームCS71 = 20SP/8,400rpm
本田技研工業はマン島TTレースへの出場を本気で考えていたので、世界レベルのエンジンの開発を考えていました。少しずつ高回転に耐えられるエンジンを開発していることがわかります。当時は、得た利益をすべてエンジン開発につぎ込んでいたとも噂されるくらいです。エンジンのパワーだけを見ると、数年後には伊藤機関工業は撤退を余儀なくされることがわかります。
重要部品の開発に資金のほとんどをつぎ込んでいた本田技研工業。重要部品を外注していた伊藤機関工業。この2社の方針の差によって、大きな差を生んでいきました。
パワーと品質の証明はレースで
「パワーがあって壊れにくい」というエンジンは、どうやったらそれを証明でき、一般消費者は理解できるのでしょうか?
もちろん、オートバイレースに出場して優勝することです。当時、オートバイレースに出場するためには、1台当たり今の金額で1,000万円ほどかかっており、中堅メーカーにとってはバクチ的な要素が強かったと思われます。上位入賞できなければ、何の市場効果ももたらさないばかりか、「優秀でない」というレッテルを貼られかねないからです。
そして、オートバイレースで優勝するためには、パワーのあるエンジンを入手しないといけません。
レースに出ていたメーカーはエンジンを提供するわけがない
ところが、レース用エンジンを製造しているメーカーは、自社が優勝するために必死なわけですから、他社に融通するわけがありません。
本田技研工業は、ポンプなどに利用する汎用エンジンを市販していましたが、オートバイ用エンジンのみの市販はしていませんでした。中には、本田技研工業の汎用エンジンをオートバイに流用するメーカーも現れましたが、出所をつきとめて販売を停止しているくらいです。
当時は、エンジンを開発していたメーカーの倒産もあったわけですから、流出した技術者を雇うこともできたはずです。しかし、優秀な技術者は、大きな夢があって伸びている企業に入社したいものです。月産200台の中堅メーカーでは、人材の確保も難しくなっていたものと考えます。
そういったこともあり、伊藤はレースから遠ざかっていきます。
上記の中でオートバイレースに力を入れていたメーカーは、東京発動機だけです。東京発動機は、戦時中に利用されていたエンジンを製造していただけですから、レース用のエンジンは卸販売していなかったと思われます。
「エンジンを外注する」という方針から、パワーの出るエンジンが入手できなくなり、「レースに出ても勝てない」という問題が発生していました。しかも、採用していたエンジンは他社にも販売されている汎用エンジンを利用したわけですから、他社との差別化は見た目しかありませんでした。
エンジンに翻弄された開発
1955年(昭和30年)、みづほ自動車製作所に裏切られて、エンジンを仕入れられなくなってしまったため、急遽、三菱、川崎航空機、ガスデンからエンジンを仕入れて、それぞれのオートバイを開発しました。
エンジン毎にシャーシの設計が必要
エンジンのメーカーが異なれば、マウント形状が異なるのでシャーシの構造も異なります。そのため、エンジンメーカー毎にシャーシの設計をし直さなければなりません。この設計の手間は、中堅企業である伊藤機関工業にとってはかなりの痛手だったはずです。
もしエンジンを自社開発していたら、シャーシに合わせたマウント形状のエンジンを製造できたので企画化ができ、開発のコストが下がり開発速度も上がっていたと思います。
主要部品であるエンジンの外注は自社都合だった
また、名古屋TTレースで惨敗でしたが、オートバイ雑誌のデザイン賞をもらって「これは売れる」と勘違いをしたことにも敗因があります。全国的に広告を打ち、多額の費用をかけたのにも関わらず、みづほ自動車製作所に裏切られてK型が販売できなかったという、何とも不運な状況に陥りました。
そしてガスデンのエンジンを主に採用することになりましたが、ガスデンのエンジンは顧客にとって都合の良いものではなく、伊藤機関工業にとって都合のよいものでした。顧客目線の立場に立ってデザインはしていたものの、エンジンは顧客の立場に立っていませんでした。
ここから導きだされる教訓は、「市場の中心となる重要部品、重要技術は外部企業に頼ってはいけない」ということです。
当時、市場が求めていたオートバイは運搬用でした。車体デザインの良さは売れる要因の一つではありましたが、求められているものは、小型でパワーのある、壊れにくいオートバイでした。そしてデザインが良ければ「なお善し」というところでした。
ガスデンと提携した理由は?
伊藤機関工業とガスデンが締結した理由は、次のことが考えられます。
- 価格が安かった
- 社長と意気投合
- 2サイクルでパワーが出る
- 信頼性が高い
- いろいろな企業にエンジンを提供していた
- オートバイメーカーが倒産を繰り返していたので、ガスデンとしては中堅企業と提携したかった
- IMCは月産200台の実績があった
高性能なエンジンは開発してもらえない
伊藤機関工業は、重要部品であるエンジンを外注していましたから、高性能なエンジンを開発してもらいたいと思っても、おそらく叶わなかったことでしょう。そして、マスプロの時代に入り、外注企業に大量生産を求めるためには、その企業から部品を大量に仕入れなければいけません。
その当時は、オートバイメーカーのオンリーさんになった部品メーカーがライン生産を行っても、他社部品が製造できませんから、オートバイメーカーと共倒れになることは、日常茶飯事のことでした。山口自転車の下請け企業で、山口自転車用のライン工場を立ち上げたところがありました。その企業では、ラインが固定化されてしまい別の部品が作れなかったので、山口自転車の倒産と同時に倒産していました。
部品メーカーも下手に事業拡大をしたら、大変な目に遭うことになります。ですから、部品メーカーとしてもその対策として、「自社を大きくしない」と方針を立てていたところも多かったと思います。
その中で、1950年代後半ではガスデンだけがエンジンだけを提供するメーカーとして君臨していました。そして、お客様がコンシューマではなくオートバイメーカーだったので、有名なオートバイレースには自ら出ていませんでした。
本田技研工業もアッセンブリメーカーだった
それに対して本田技研工業はどうだったのでしょうか?
本田技研工業も1950年代に入った頃は、部品の80%を外注していました。ただし、エンジンそのものを外注していたのではなく、エンジンの部品を外注していましたから、重要技術は自社で製造していました。
本田宗一郎はレースの出場について「走る実験室」と言っているくらいですから、過酷なレースで優勝することが高性能で品質の高いエンジンを開発していることの証明でもありました。
しかし、80%も外注していたのでは生産性や品質の競争で負けていく可能性があります。それを藤沢武夫が「これはまずい」と見抜き、少しずつ内製に切り替えていきます。
内製していくことで生産性が高まり、品質が高いが格安のオートバイが製造できました。しかし、そうなると製造数と販売数の一致が難しくなります。生産性が高くなってくると、次に「販売数の予測」というノウハウも必要でしたから、藤沢武夫の経営能力の高さが伺えます。
藤沢武夫の販売戦略
また、無名のメーカーのものよりは、本田技研工業などの有名メーカーのものの方が売れていました。全国的に広告を打つことは良いとしても、大胆な政策が打てない中堅企業が、全国展開することにも無理があったと思います。できれば、広告宣伝や販売店の募集を、太平洋ベルト地帯に絞り込んでいた方が良かったはずです。つまり、販売に戦略性が感じられません。
本田技研工業は、まず浜松の販売体制を固めてから東京に進出しました。そして、浜松から東京の間に力を入れました。その次にカブF型の販売を皮切りとして、いっきに全国展開をしていきます。このように力をつけていき、段階的に拡張していきました。
そのような成長段階のことを考えずに、一律に「他の大手企業がやっているから」ということで、同じように広告宣伝をしています。いくら良い製品でも知られないと売れませんが、全国的に広告をするためのノウハウがありませんでした。そのようなノウハウは、初めて広告をする企業は持っていませんから、たいていはテストしてみて反応を見て、どの程度の広告を打てばどのような反響があるのかを確認しながら行うべきでした。
「機を見るに敏」であることは大事なのですが、大々的にやって散っていく企業が後を絶ちません。伊藤はその点からすると慎重に行っていた方ではありましたが、広告宣伝についてはノウハウが無かったので、広告代理店の言いなりになっていた可能性があります。
産業は生産性(マスプロ)の時代が来る
オートバイの市場変化
オートバイに求められていたニーズを考察すると、次のような時代の流れがありました。
- 1947年~、自転車補助エンジンが求められる時代
- 1950年~、パワーの出る2サイクルエンジンが求められる時代
- 1952年~、静かで高出力、壊れない4サイクルエンジン(OHV)が求められる品質の時代
- 1954年~、レースで優勝するオートバイ(OHC)が求められる時代
- 1957年~、大量生産で廉価なオートバイとサービスが求められる時代
- 1961年~、世界に通用するオートバイが求められる時代
マスプロの時代に残るは4~5社
マスプロの時代が到来すると、急激にメーカーが倒産していき、いずれ残るのは4~5社ほどになります。「産業」と言われるものは、起承転結を地でいくようなことが起こります。自動車然り、白物家電然り、パソコン然り、携帯電話然り、今後はAIも然りのことでしょう。
1957年(昭和32年)、本田技研工業による2度の価格政策が行われました。その後の歴史を見ると、このときに倹約できていなかったメーカーは、軒並み倒産に至っています。またそれに耐えて価格を見直し、設備投資をしてマスプロに追従できた企業だけが生き残っています。
売上が伸びても実は衰退している!?
また、このマスプロの時代に入ってくると、未来の需要予測や財務力が問われる時代にもなっています。1957年に生産台数が伸びていますが、この伸びは市場の伸びからすると、市場占有率、市場での競争力を落としていることを見抜かなければいけません。凡庸な経営者は「売上が伸びた」と喜ぶわけですが、実のところ倒産街道を驀進中だったのです。
人のせい、環境のせい、いい加減にせい
伊藤のインタービュー記事を読んでいると、印象的なことは「東京発動機とみづほ自動車製作所は紳士協定を裏切った」と述べられていることです。
当時は生き残ることに精一杯であった時代でもあり、試行錯誤の時代でもあるので、裏切りは日常的にあったと思います。この2社は信頼を裏切ったわけですから、ビジネスの場では良くないことです。
しかし、三菱にて技術を行っていた伊藤にとっては、中小企業の泥臭い部分が見えていなかったと思います。この部分は、失敗して反省して勉強して、対応策を学んでいくしかないのですが、小さい会社は泣き寝入りの場合が多いことが実情です。
一代で大企業にまで成長させられた社長の多くは、根に持たないサッパリした性格の人が多いです。反対に大企業になってしまったら、気にならなくなることなのかもしれませんが。どちらにしても、「人のせい、環境のせい」にして根に持つ人で、大企業にまで成長させた人はいないことを肝に銘じてください。
経営をしていると、たくさんの人間関係を経験し、悔しくなることもあります。残念に思うこともあります。それでもサッパリした性格になることが大事です。根に持ってそれをバネに伸びていく人もいますが、「怒りはエネルギーになるが、それだけでは大きくはならないのだ」とお考えください。
伊藤機関工業が生き残るために何が必要だったのか?
1954年にデザイン性で認められていた伊藤機関工業は、この段階で大胆な融資を受けて方針転換していたら、大手メーカーに5年ほどで追いついていた可能性があることを述べました。
魅力的な夢
まず、魅力的な夢が必要だと言えます。伊藤は、そもそも大きな夢はなく、「自分や社員が食べていけたら良い」という発想しかなかった可能性があります。「外部の良品を仕入れ、良い商品を提供したら利益が得られる」という程度の経営哲学だったと思います。
競合他社には魅力的な夢があり、伸びている企業があったので、そこに優秀な人材が行ってしまっても仕方がありません。
1954年頃まで、顧客目線でオートバイを製造していましたから、「利他の経営」に達していた可能性はあります。1955年以降は市場が求めていたオートバイが提供できていませんでしたから、知らず知らずのうちに「自我の経営」に落ちてしまったとも言えます。その矛盾を感じて、経営に苦しんでいた可能性もあります。
トップが機を見るに敏だったとしても、撤退は客観的で冷静な判断がしにくいのでそうはいきません。そこに撤退の難しさがあります。投資と消費の違いの見極めは難しいのです。
本田技研工業の場合は、社長がマン島TTレースの挑戦を本気で考えて、社内外に発表までしているくらいですから、オートバイ好きの人からすると魅力的な夢を持った会社だったはずです。
伊藤が取るべき方針転換
そのときに取るべき方針転換としては、次のことが考えられます。
- エンジンの自社開発
- レースへの積極参加
- 全国主要都市に販売網を展開 (販売力の強化)
- マーケティングのノウハウを蓄積していく
これらを段階的に伸ばしていくことです。
このときの伊藤の年齢は37歳でしたから、技術者としてはかなり成熟していた段階です。また、大企業に就職して教えられたことが、そのまま伊藤の経営方針となっていた可能性があるので、大胆な手が打てなかった可能性が高いです。大企業や官僚組織から独立して起業した人が難しいのは、この点にあります。
社員育成にしても、三菱時代には社員を育成する仕組みがカルチャーとしてあったと思いますが、創業社長はそれを自分で構築していく必要があります。三菱時代で学んだことを活かすことができますが、それは大企業でのやり方に過ぎません。カルチャーの構築には、段階があります。
会社には成長段階に応じた考え方や方針、経営の仕方があります。
大手企業出身者は、大手企業で学んだことが染みついている場合があり、市場が変化しても方針転換が難しい場合もあります。成長産業では、市場の変化をつかむ「機を見るに敏」とも言える体制と、市場の変化に対応した大胆な方針転換が求められます。
経営理念は必要だったのか?
実のところ、一代で大企業まで成長した会社の経営理念は、トップが策定していないことが多いことにご留意ください。本田技研工業やトヨタ自動車工業では、社長の言葉や社是、綱領などといったコンセプトのようなものから、ナンバー2や二代目社長などが経営理念として完成させていっている節があります。会社の成長とともに経営理念が進化していきます。
伊藤の場合は、中小企業でしたから、伊藤のコンセプトのようなものを社員に直接伝えることができていたと思われるので、経営理念のような立派なものは必要ありません。
しかし、社員に伝えていたものが、中小企業が生き残るために必要な要素をすべて網羅されていることはありませんから、「言葉たらすであった」と思います。成長のためには、次の部門すべてにおいて考え方が必要になります。
- 開発
- 生産
- 販売
- 人事
技術系社長の場合は、たいていは開発と生産に特化しているので、販売と人事においては、優秀な幹部社員の言葉で補完する必要があります。本田技研工業の場合は、1956年に初めて出された「わが社の運営方針」の内容を見ると、「あたかもオーケストラが素晴らしい音楽を奏でるように・・・」という表現からしても、藤沢武夫が本田宗一郎に足りない言葉を補完していると言えます。
市場の情報は社長まで上がってこない
会社が大きくなってきて部署が増えてきたら、社長に情報が上がってこない体制が出来上がっていきます。そういった成長の過程を実地で体験しながら会社を創っていったことから、市場の変化への対応の遅れがあったのだと考えます。
当時としては、技術系社長は工場の中にずっといて、営業担当者が外部を回ることが普通でした。いわゆる「穴熊社長」であることが常識だったのです。また技術系社長であることが花形であって、その社長が営業に回ることは緊急事態のときに限られ、屈辱的ともいえました。
伊藤機関工業の倒産理由からの教訓
伊藤機関工業の倒産理由から、私達が持つべき教訓とは何でしょうか?
それは、次のようなことではないでしょうか?
- 市場の変化をつかむための情報収集を社長自ら行うこと
- 自社の事業の性質をつかみ、各社の攻防を分析すること
- 市場の変化に対して柔軟になること。(朝令暮改を恐れないこと)
- 「機を見るに敏」で時には大胆な行動もあるべきだが、新しいことを試す場合はテストマーケティングをすること
要するに、一言で「社長の先見力」とも言えます。未来構想力とも言えるのかもしれません。
経営参謀の必要性
会社が大きくなってきたら、優秀な経営参謀も必要となってきます。しかし、頭がカチコチの経営者には、柔軟な発想ができる優秀な経営参謀が定着することはありません。波長同通の法則で、頭かカチコチの経営参謀が入社することがオチとなります。
しかし、小さな会社では、たいてい経営参謀はいません。社員からの提案の多くは自己都合の提案ですが、その中には時に会社の運命をも左右するものが含まれている場合があります。社員からの要望に耳を貸すことも大切です。
社員が何も提案しないのは社長の責任
ここで多くの社長は、「社員は何も言ってこない」とおっしゃると思いますが。それは社長から社員に歩み寄らないと得られないものとお考えください。お客様の要望を聞くことは大切ですが、意外と社員の要望を聞かない社長は多いのです。
中小企業の社員の多くは、リスクを取って社長に提案することはありません。社長から言われたことをやっておけば、それで給料がもらえるからです。余計な仕事が増えたとしても、給料は変わりませんから提案しないのです。
社員からの要望は、10中8~9が自己保身や甘い構想ですし、小企業までであればなおさらのことです。自社の存在理由を社員自らが考えられる組織作りを目指してください。
IMC伊藤機関工業の倒産理由について考察いたしましたが、皆様はいかがお考えでしょうか?
さまざまな教訓や考える機会を残してくださった伊藤仁一氏に感謝いたします。
この記事の著者

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)
国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら万を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくる独自の戦略系コンサルティングを開発する。