社長の夢実現への道

新商品開発は自社で行うべき?ホンダに負けたヤマト商会で分析

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ヤマト商会と本田技研工業の比較

メーカーが新商品開発をするときは、新技術開発を必要とする場合があります。条件によって異なりますが、基本的には、技術の中核部分は自社もしくはグループ企業で開発すべきだと考えます。

その教訓を、オートバイで世界企業となった本田技研工業と、覇を競って倒産したヤマト商会の比較から学びたいと思います。

教訓のみを知りたい方は、ヤマト商会と本田技研工業の差を考察からご覧ください。

ヤマト商会というオートバイメーカー

オートバイの販売台数世界一の本田技研工業株式会社の名前を知らない人はいないことでしょう。しかし、有限会社ヤマト商会についてご存じの方がいれば、オートバイマニアの中でも極めつけのほどです。

本田技研工業は、本田宗一郎が設立しました。有限会社ヤマト商会は犬飼兼三郎(いぬかいけんざぶろう)という人物が設立した会社です。

犬飼兼三郎と本田宗一郎の関係

実は、このお二人は古くからの仲でした。

本田宗一郎は、15歳のときに、東京市本郷区にあった自動車修理工場「アート商会」に入社し、21歳にはアート商会浜松支店(静岡県浜松市)に、のれん分けが許されます。本田宗一郎の技術の高さから、たちまち人気店となります。

そのころ、犬飼兼三郎はタクシー会社を経営しており、タクシーの修理をアート商会に依頼していました。

本田宗一郎は「浜松のエジソン」として浜松では有名人物でした。ボートにエンジンを取り付けてモーターボートに改造したり、レーシングカーのパーツを自社開発しレースに出場したりしていました。また、ピストンリングの生産に成功させ、中島飛行機に納品していたぐらいです。

大戦終戦直後の1945年(昭和20年)、本田宗一郎(38)はピストンリングを製造していた東海精機重工業の株をトヨタ自動車に売却します。翌年の1946年9月その資金で焼け跡となっていた山下工場跡地を買い取り、集めた材木で工場を建てました。弟の弁二郎(33)や東海精機重工業の元従業員数人を集め、自動織機の開発や建築部材の製造等を行いますが、すぐに資金難に陥り頓挫します。

その直後、本田が犬養から「相談したいことがある」とのことで、犬飼の自宅に訪れました。相談内容は、「友人からたまたま預かっていた旧陸軍の無線用小型エンジン(三国商工株式会社、現株式会社ミクニ)を何かに使えないか」とのことでした。

本田技研工業の創業

本田宗一郎は、そのエンジンを自転車に取り付けることをひらめき、研究の情熱を呼び覚まします。

補助エンジン付き自転車(通称:バタバタ)

1946年10月、本田技研工業の前身のとなる本田技術研究所を創業。湯たんぽをガソリンタンクとした試作品の補助エンジン付き自転車(通称:バタバタ)を開発しました。そして、ホンダ初のテストドライバーは、さち夫人となりました。

三国商工の倉庫にあったエンジン500台を調達し、自転車用補助エンジンとして販売を開始。さち夫人がバタバタに乗って闇市に買い物に行っていると、それが広告となり、たちまちバタバタ人気が浜松市で広がりました。

当時、闇市での販売者は、商品をリヤカーに積み込み自転車で引いていました。雨が降ると道路がぬかるんで、自転車の車輪が取られるので、悩んでいたようです。そこを、さち夫人がエンジン付き自転車で、意気揚々と通過していくものですから、「あれはどこで買えるのか!」と話題になったようです。

仕入れた500台のエンジンは、1年も経過しないうちに販売してしまいました。そこで、エンジン(ホンダA型)を自社開発します。

ある意味、犬飼兼三郎がいなければ、ホンダはオートバイ製造で出遅れていた可能性もあります。

ヤマトラッキー号の開発

そのときに、犬飼兼三郎は本田技術研究所から自転車用補助エンジンを仕入れて販売していましたが、人気のため、なかなか入荷してきませんでした。

本田は、技術は超一流でしたが、資金繰りがてんでダメでした。そのため、部品調達にも苦労したはずです。また、極度の技術へのこだわりから、調達したエンジンはすべて分解、検査、修理、オリジナルパーツの組付けをしてから出荷していました。それは、本田宗一郎の「製品を使用する人には迷惑を掛けない」というスタンスからでした。

しびれを切らした犬飼は、別の会社からエンジンを購入することを決意。市内にあった増田鉄工所にエンジン開発を依頼します。

増田鉄工所は、外国製オートバイのエンジンを参考に試行錯誤でエンジンとオートバイの開発に成功。それを聞いた犬飼兼三郎は、ヤマト商会を設立し、1950年(昭和25)に販売網を見つけ、ヤマトラッキー号という名称でオートバイの販売を開始します。

この瞬間、犬飼兼三郎の会社は、販売店からオートバイメーカーに業態が変革しました。経営の観点から、この業態変化は危険を意味しますが、その後のヤマト商会はどうなるでしょうか。

この頃、休日になると浜松市内の公園で、トラックを周回するオートバイレースが開催されるようになりました。そのレースに本田宗一郎は、本田技研工業の二代目社長となる河島喜好をつれて、ドリーム号で参戦しました。もちろん、ヤマト商会のヤマトラッキー号も参戦しました。

レースの軍配は、本田技術研究所のドリーム号でなく、ヤマト商会のヤマトラッキー号に上がりました。少年をドライバーとして乗せたヤマトラッキー号は連戦連勝しました。

オートバイレースで勝つということは、それだけ性能や品質の高いオートバイだという証明になります。ヤマトラッキー号は、故障しにくいオートバイを求めていた人たちに、人気のオートバイとなりました。

ヤマト商会と増田鉄工所のすれ違い

ヤマトラッキー号の人気が出てくると、販売店からの注文が増え、エンジンの生産が追い付かなくなります。ヤマト商会としては何としても増産したいのですが、増田鉄工所での生産も限界に達していました。

犬飼兼三郎は、増産のため、別会社の大きな工場でエンジンを生産しようと考えました。ところが、増田鉄工所は「試行錯誤で開発したエンジンの図面や製造ノウハウを、なぜ手渡さなければならないのか」と反発し、なかなか生産強化が図れませんでした。

このとき、法改正により原付二種の区分が明確化され、オートバイメーカー各社は、エンジンの排気量が90ccから125ccに変更していきます。ヤマトラッキー号もすぐさま125ccに設計変更されますが、エンジンが焼き付くトラブルに見舞われてしまいました。にもかかわらず、犬飼は販売店に対して「必ず動くようにする」と豪語し盛大に発表会を開催してしまいました。

増田鉄工所に何とかエンジンの改良を頼みますが、増田鉄工所側も資金が底をついていました。そして、借金がかさんで資金難に陥り、1955年(昭和30)にヤマト商会が倒産。それと同時に増田鉄工所も清算することになりました。

そのころ本田技研工業では?

1949年に3馬力のドリームD型を開発し、そして伝説のナンバー2となる藤沢武夫が合流。

1950年に東京進出。1951年には、ホンダ初の4サイクルエンジンE型を搭載したドリームE型を開発。1952年には、全国に販売網を構築するきっかけとなったカブF型を開発。同年11月には、世界先進国を回り4億5000万円分の最新鋭工作機械を合計108台購入。

精度の高い部品が製造できるようになり、パワーと信頼性のあるオートバイを開発。出場するレースに次々と優勝していき、1954年にマン島TTレース出場宣言を発表します。

ヤマト商会と本田技研工業の差を考察

この2社の差は何でしょうか。ヤマト商会と本田技研工業の経営を比べると次の通りです。

 ヤマト商会本田技研工業
技術開発外部に依存した自社開発した
仕入れ先仕入れ先に技術も依存した仕入れ先を技術指導した
製造外部に依存した自社でもできた
販売スタンス最後は未開発のものを販売品質を徹底検査して販売

1950年前後のオートバイ市場を確認してから、ヤマト商会の倒産理由を考察したいと思います。

1950年前後のオートバイ市場

1950年前後のオートバイ市場は、次のような状態でした。

  • 故障しにくいことは当たり前、パワーの出るエンジンが求められるようになった。
  • その結果、需要が自転車用補助エンジンからオートバイに移っていった。
  • オートバイレースが盛んに行われ、PRの場となっていた。

自転車用補助エンジンの利用は、主に闇市に商品を遠くから運ぶために用いられました。エンジンに馬力があれば、それだけ多くの荷物を運ぶことができます。そのため、馬力の高いエンジンが求められるようになりました。

ところが、馬力が高まったエンジンでは、自転車のフレームが耐えられず、1950年前後から需要がオートバイに移りました。

また、当時のオートバイはエンジンのかかりが悪かったり、チェーンが切れてしまったりと、トラブルが多かった時代でもあります。そのため、オートバイのレースで優勝することは、それだけ馬力があり品質も高いオートバイだというPR効果がありました。

しかし、オートバイレースに出場するためには、出場日や遠征費、オートバイの開発費などがかかります。1953年は日本全国でピークの200社を超えるオートバイメーカーがありましたが、オートバイレースに出場できなかったり、レースで好成績が出せなかったりしたメーカーは淘汰されていきます。その結果、現在では4社しか残っていないことは、とても興味深いです。

倒産理由1. 生産体制が整わず販売店に見限られた

やはり、倒産の直接の原因は、生産体制が整わず販売店に見限られたからでしょう。

販売店としては、人気急上昇のオートバイをもっとたくさん仕入れたいはずです。しかし、ヤマト商会はそれに応えることができませんでした。

また、トラブル続きの125ccエンジンでしたが、犬飼は「すぐに解決するだろう」と読み違いをしてしまいました。それが決め手となり販売店を失って、倒産に至ります。

倒産理由2. 技術の中核となるエンジンの開発と製造を外注していた

生産体制が整わなかった理由として、技術の中核となるエンジンを外注していたからです。

オートバイメーカーがエンジンを仕入れられなければ、商売が成り立ちません。また、エンジンはコロコロとメーカーを変えるわけにもいきません。そのような性質を持つエンジンの開発と生産を、1社に依存していたことは、大きな経営ミスです。

もし、ヤマト商会がメーカーにならずに、製品を仕入れて販売する商社のままであれば、生き残ることができたことでしょう。

倒産理由3. 犬飼を支えるナンバー2がいなかった

ヤマト商会の社長である犬飼兼三郎は、おそらく営業系の社長でした。そのため、技術的なことはよくわからず、オートバイの中核部品であるエンジンの開発や生産を外注していました。そのことが大きなボトルネックとなり、倒産の原因となりました。

もし、技術面を支えてくれるナンバー2がいたら、もしかしたらシャフトドライブ採用のライラック号を開発した丸正自動車製造のように、ある程度は大きく成長していた可能性があります。しかし、えてして営業に強い社長は、「外注したらよい」と技術面を軽く見てしまう傾向があります。この傾向は、当時のオートバイ業界では通用しませんでした。

それに比べ、本田宗一郎は天才的な技術屋でした。本田宗一郎が苦手とする営業や財務は、ナンバー2である藤沢武夫が献身的に支えました。結果、藤沢武夫が本田技研工業に入社してからわずか4年で、売上高は220倍に成長しました。その後、世界一のオートバイメーカーに成長します。

倒産理由4. 経営理念がなかった or 経営理念が正しくなかった

大きくなった会社は、必ずトップの苦手とするものを支えるナンバー2がいます。なぜ、犬飼兼三郎には献身的に技術を支援してくれる人物が現れなかったのでしょうか。

これは憶測になりますが、ヤマト商会には経営理念がなかった、もしくは経営理念が正しくなかったことが原因しているものと思われます。そのことは、倒産直前の販売スタンス「まだ商品が完成していないのに販売する」という態度から読み解けます。

大きく成長する会社は、販売スタンスが違います。本田技研工業では、「120%の良品」です。統計学に100%を超えるものはありませんが、120%というものは「絶対に不良品は出さない」という社長の気持ちの表れです。

会社を私物化しているのか、そうでないのか。公的な会社になることを考えているのであれば、それを実現し得るだけの実力を社長が持っているのか。それらの問にYesと言えるなら、ナンバー2を求めたときに適切な人物が現れることでしょう。

ヤマト商会のIFを考えてみる

オートバイ市場は、当時は急成長していました。そういった大きな市場に小企業が参入するときには、大手に対抗するための手段があるはずです。

まずは、技術を自社で持つべきだったと思います。もしオートバイを自社製造できていたら、外部の企業を指導してOEM製造してもらうことで、需要の伸びに対応できます。

しかし、その後に本田技研工業が仕掛けてくる、高性能で低価格なオートバイの投入には、やはり本田技研工業と同等かそれ以上の生産体制を整える必要がありました。

本田技研工業は、倒産の危機をストイックなまでの開発根性で乗り越えました。その試練から得られたものをフル活用し、1952年には世界第2位の売上高までになります。そのような経営の強さも持ち合わせていました。

そうなってくると、並大抵の方法では、本田技研工業に勝てるはずはありませんでした。

オートバイ製造の最後発であるヤマハ発動機の分析

1955年、ヤマト商会が倒産した年に、ヤマハ発動機がオートバイを製造・販売し始めました。ヤマト商会とは裏腹に、ヤマハ発動機は世界企業にまで成長しました。

ヤマハ発動機は、最後発のオートバイメーカーにもかかわらず、なぜ世界企業にまで成長できたのでしょうか?

ヤマハ発動機の社史を分析し、ヤマト商会と比較すると、その解答が見え隠れします。

つまり、経営理念の差、生産技術の差、オートバイ開発への情熱、品質へのこだわり、競合他社の徹底分析などが挙げられます。これらの経営の鉄則は、ピアノ製造の日本楽器製造株式会社から引き継がれたものでした。

新商品開発は自社で行うべき?

オートバイメーカーという製造業を対象として、新商品開発は自社で行うべきか検討いたしました。

結局のところ、メーカーの場合は、全体とはいかないまでも、主要部品の開発や設計は自社でした方がよさそうです。

もし、自社でできない場合には、会社の供給体制を整えるためにも、開発部門を買い取るぐらいのことはした方が良いと思います。

まとめ

以上、「新商品開発は自社で行うべき?外注すべき?」というテーマで、ヤマト商会を例に考察してきました。

まとめますと、大きな市場があり、技術革新が頻繁に行われている業界では、徹底した技術開発を持つこと。そのためには、技術開発を社内でできるようにすることが大切であると判りました。

また、会社が成長してくると正しい経営理念を持ち、社長を献身的に支えてくれるナンバー2の存在も大切であることが判りました。

当社のサービスの一つであるホームページ制作も同じことが言えます。ホームページ制作会社の中には、海外にデザインやコーディング、プログラミング等を外注し、自社では一貫してホームページ制作ができないというところが少なからずあります。

そういった会社にホームページ制作を依頼すると、納品間近の細かな修正に時間がかかったり、ちょっとした修正にも追加料金を請求されたりと、融通が利かないものです。まさしく、ヤマト商会と同じ状態です。顧客対応を改善したいホームページ制作会社は、自社で製造できるようにしておいて、仕事を少しずつ外注に流していくようにするか、当社のように一貫してホームページ制作できるところとガッチリ組むかでしょう。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら数千を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくりる独自の戦略系コンサルティングを開発する。

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