社長の夢実現への道

豊田佐吉の発明の情熱「報国の精神」

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豊田佐吉の発明の情熱「報国の精神」

当社では、明治時代から昭和にかけて活躍し、巨大企業を創造していった偉大な経営者を調査研究しているのですが、その中のお一人として、避けて通れない偉人は、豊田佐吉先生(1867~1930)です。

豊田佐吉の偉業は、さまざまな書籍でも紹介されていますが、名古屋駅から徒歩で行けるところにあるトヨタ産業技術記念館がおすすめです。

豊田佐吉の偉業

豊田佐吉はどのような偉業を成し遂げたのでしょうか。

完全な自動織機を発明したとか、流れ作業による生産性向上の革命を起こしたとか、日本の経済的発展に貢献したということが、さまざまな文献にも書かれています。

私は、次のような偉業を成し遂げたと考えています。

自動生産の産業を興した

G型自動織機は動力で動き、材料をセットしてスイッチを入れたら、品質の高い織物が自動的に高速で生産されます。自動織機はの面倒は、一人の人員で20~30台を見ることができ、一人当たりの生産性を凄まじく高めました。

紡績は日本の産業の柱になったことを考えると、豊田佐吉の発明によって、大きな富と、ものすごい人数の雇用を生み出したことになります。

豊田佐吉の略歴

貧困な土地柄に生まれ、大工の息子として父を手伝い始めた豊田佐吉(13)は、「郷土を豊かにしたい、国家に何か貢献をしたい」という思いを持っていました。

1885年(明治18年)、豊田佐吉が18歳の誕生日を迎えた翌月に公布された「専売特許条例」を見て、発明を志します。最初に発明しようと思ったものは永久機関だったそうですが、すぐに挫折してしまいます。

そのときに、母の機織り機で毎日機織りをして、納期に苦労をしている姿を見て、「機織りがもっと早くできる機織り機を開発しよう」と志します。まさしく、「必要は発明の母」です。発明は必要があって生まれるものだと悟ります。

悪戦苦闘しながらも、23歳のときに自動で杼(ひ、シャトル)が動く機織り機を開発します。機織りの生産性が40~50%アップし、織物の品質もアップするということで、たいへん人気が出ました。遠州織物の生産量が飛躍的にアップしたことでしょう。

この最初に発明した織機のレプリカが、トヨタ産業技術記念館や豊田佐吉生家に展示されています。豊田佐吉生家では、実際に操作することもできます。

豊田佐吉は、開発された自動織機を販売しようとしましたが、「生産性が40~50%アップする程度では魅力がないのではないか」と思い、「人が操作するのではなく、動力で動く織機を開発し、もっと生産性を高められる織機を開発しよう」と志します。それまでは、動力で動く織機と言えば外国製ばかりでしたので、「いずれは、日本から世界に技術を輸出できるようにしたい」と強く感じたのでしょう。

動力織機では、金属加工の技術も習得していき、6年後に動力で動く織機を完成させます。この織機は、1人で3~4台を操作できるということで、生産性は飛躍的にアップしました。

豊田佐吉の開発熱は冷めませんでした。「いずれは全自動の織機を開発したい」と情熱をさらに燃やします。

織機を販売する会社を立ち上げ、協力者も現れて会社が成長していくのですが、会社の利益と開発の費用で内紛がありました。スティーブ・ジョブズがアップル社を追い出されたように、豊田佐吉は会社を追い出されてしまいます。

確かに、豊田佐吉は新しいアイデアを思いついたときには、販売先が決まり出荷を待っていた織機に手を加えようとしました。すると納期は間に合わなくてクレームになりますし、収入も減ってしまいます。

豊田佐吉は追い出されたあげく、経営陣から「特許は会社に帰属するものだ」ということで、自動織機の開発の道も閉ざされてしまいます。

豊田佐吉はそれでも諦めずに、自分が理想とする自動織機の開発に着手しました。そしてついに1924年(大正13年)にG型自動織機の発明に至りました。

1925年(大正14年)、G型自動織機の特許契約を、イギリスのプラット社と交わした翌年に、使命を果たしたかのようにお亡くなりになります。

豊田佐吉の開発熱の根源とは?

豊田佐吉は、なぜここまでの情熱を自動織機の開発に傾けることができたのか。その種には、日蓮主義と報徳宗にありました。それに、スマイルズの西国立志編が加わりました。

日蓮宗と言えば日蓮上人です。日蓮上人は信念を曲げることなく貫くことをされた方です。報徳宗と言えば、二宮尊徳です。積小為大と自助努力の精神です。西国立志編は、努力して社会貢献をした人の事例集です。

当時のことですから、「学問のすすめ」や「教育勅語」の影響もあったことでしょう。

信念を曲げないへそ曲がりでしたが、家族やビジネスパートナーに支えられ、偉業を成し遂げたのです。

そのように、変わり者でもあった豊田佐吉は、なぜ多くの人に支えてもらえたのか。それは、いくつかの理由を思いつきますが、やはり人々の苦しみを我が苦しみとする純粋な同悲同苦の心を持ち、多くの人たちや国を豊かにしたいという利他の心が強く、多大な貢献をしてきたからでしょう。

豊田佐吉のような発明家が出てくるための条件

豊田佐吉の生涯を調べていくと、豊田佐吉のような発明家が輩出されるためには、いくつもの条件があるように思います。

子育てでの条件

何か発明をして出世したいと考えている子どもを育てるときの条件です。

  • 豊田佐吉伝などの発明家の偉人伝を読み聞かせ、世のため人のために発明することを教えること
  • 親が理解してあげ、励まし続けること

発明家のマインド

発明家を志したときの発明家は、次のようなマインドを持つ必要があります。

  • ニーズに合ったものを発明すること
  • 社会貢献の夢を説き続けること

発明品が、市場のニーズに合っていると売れるので、お金が入ってきます。その利益で、研究を続けることができます。ニーズに合っているかどうかわからないものは、大学や国の研究機関で研究すべきです。

発明環境の条件

発明家が発明をし始めたときに、理想のものを発明するための環境条件です。

  • 法律などで発明の邪魔をしないこと
  • 資金調達と販路開拓の人材がいること

マインドのところで述べた「社会貢献の夢を説き続けること」で、実績と相まって人材が集まってきます。発明家に必須の人材は、財務を支える人材と、営業部門を担ってくれる人材です。

日本から、豊田佐吉のような一大産業を興せるような発明家が出てくることを期待しつつ、当社ではそのような人を支えることができたら幸いです。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら数千を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくりる独自の戦略系コンサルティングを開発する。

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