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丸正自動車製造の倒産理由から見える正しい経営理念とは?

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丸正自動車製造の倒産理由から見える正しい経営理念とは?

今現在、日本国内のオートバイメーカーは4社です。ホンダを筆頭に、ヤマハ、スズキ、そしてカワサキです。

かつて日本国内のオートバイメーカーの数は、驚くことに250社以上あったとも、一説では300社以上あったとも言われています。

オートバイ製造が最盛期の1953年(昭和28年)には、204社あったと、過去に本田技研工業の副社長を務めた西田通弘(にしだみちひろ、1923~2019)氏の著書「語りつぐ経営―ホンダとともに30年」(講談社)に記載されています。

さて、表題の今は無き丸正自動車製造株式会社もその中の1社ですが、1948年に自動車修理工場からオートバイメーカーに業種転換し、1961年に1回目の倒産。その後再起を図りますが、1966年に全事業を閉鎖しました。

社長は伊藤正(いとうまさし、1913~2005)氏です。

伊藤正は、本田宗一郎(ほんだそういちろう、1906~1991)氏の弟子として、自動車修理工場のアート商会浜松支店(現、株式会社アート商会)に丁稚奉公し、腕を振るっていた時代もありました。

本田宗一郎と言えば、世界一のオートバイメーカー、本田技研工業の創立者です。

片や、かつて本田技研工業と覇を競って名車を生み出しながらも倒産していった丸正自動車製造。片や、世界一のオートバイメーカーになり隆々と発展していった本田技研工業。2社の歴史や、伊藤正と本田宗一郎の経営姿勢などを調査していると、その差はどうしても二人が目指していたものや経営哲学の差、またそれを昇華させた経営理念の有無だったのではないかと感じずにはいられません。

このコラムでは、伊藤正と丸正自動車製造、関連する歴史をご紹介しつつ、社長の考え方や教訓とともに、正しい経営理念とはどのようなものなのかを考察したいと思います。

では、本田技研工業のアナザーストーリー、伊藤正と丸正自動車製造の物語をご覧ください。

丸正自動車製造のオートバイの特徴

丸正自動車製造の名車ともいえる代表的なオートバイは、ライラック号とベビーライラック号です。この2車種を簡単にご紹介いたします。

伝説の名車「ライラック号」

伊藤正は、本田宗一郎から「人のマネをするな」「日本一のものを造れ」という技術に対する薫陶を受けてきました。

1949年(昭和24年)に、本田技術研究所で最初のオートバイとなるドリームD型を開発し、目の前の道路でテストドライブをします。そこから500mほど離れた場所で自動車修理工場を経営していた伊藤正は、「わが社でもオートバイを製造するぞ」と、すぐさま自動車修理工場をたたみ、オートバイ製造に乗り出します。その潔さは、本田宗一郎仕込みでした。

伊藤正は、「ドリームD型と同じでは面白さがない」ということで、シャフトドライブ方式を採用するという、当時としては画期的なオートバイを開発します。

エンジンの動力をタイヤに伝えるためのチェーンは、当時としては信頼性が低いものでした。そこに着目し、シャフトで動力を伝達する方式を採用しました。その提案と開発に、溝渕定(みぞぶちさだむ、1924~2017)氏が貢献しました。

完成した排気量150ccオートバイは、伊藤正の「藤」から、ブランド名を「ライラック号」と名付け、ライラックML型という名称で発売されます。本田技研工業では、ドリームD型を開発し、藤沢武夫(1910~1988)氏が入社したのと同年のことです。

道路でドリームD型のテストドライブをしている中に、突如、シャフトドライブを採用したライラック号が出没します。この技術に、本田宗一郎も驚いたと言われています。

丸正自動車製造は、この特徴的なオートバイでもって本田技研工業を後追いしていきます。

次の写真は、1957年に発売された、ライラックUY2です。排気量は250ccで、空冷4サイクル単気筒エンジンで、駆動方式はもちろんシャフトドライブです。(浅間記念館、二輪展示館にて撮影)

ライラックMF39

ベビーライラック号

1953年(昭和28年)、小型バイク(モペッド)のブームに対応するために開発されたのが、ヒット商品となるベビーライラック号です。ライラック号のシャフトドライブを採用しつつ、ヘッドライトと燃料タンクが一体となった今までにない斬新なデザインで、女性でも乗りやすい手軽さが売りのオートバイでした。

ベビーライラック

ベビーライラック号のエンジンは、単気筒4ストロークOHV90ccでした。1952年(昭和27年)に道路交通取締令が一部改正され、4ストロークエンジンは90ccまでであれば、届出をすれば誰でも乗れるようになっていたため、それに対応したエンジンが搭載されました。

女性でも乗りやすいことをPRするために、着物姿の女性で結成されたライラック号宣伝隊を結成しました。

性能も高く、各地のオートバイレースにも出場させた機種です。

丸正自動車製造のオートバイは、いまだに部品を修理しながら乗り続けるファンがおり、ライラック友の会といったツーリングクラブもあるようです。

シャフトドライブ方式の解説

ここで、ライラック号の大きな特長であるシャフトドライブ方式について、もう少し詳しくご説明いたします。

オートバイが走るためには、エンジンの動力を車輪に伝える必要があります。今現在でも、その方式はチェーン方式が主流です。

戦後は、舗装された道路がほとんどなく、オートバイが走ると砂埃や小石を跳ね上げることがありました。また、雨が降ったら泥道になっていました。跳ね上げた小石や泥がチェーンとスプロケットの間に挟み込んで、故障の原因になっていたそうです。また、チェーンの強度が弱く切れやすかったようです。

チェーンを用いないシャフトドライブ方式は、製造コストは高くなるものの、オートバイの故障を減らし信頼性を高めてくれる機構でした。

シャフトドライブ方式が採用されたオートバイは、戦前からありました。例えば、MilitaireやBMWのオートバイがそうです。ライラック号はBMWを模倣したと言われています。

次の写真は、1928年に発売されたBMW R52のシャフトドライブです。

BMW R52のシャフトドライブ

伊藤正氏の経歴と丸正自動車製造の沿革

伊藤正は、1913年(大正2年)3月生まれです。本田宗一郎は1906年(明治39)11月生まれなので、伊藤正は7つほど年下でした。

アート商会浜松支店で本田宗一郎の弟子として修行

本田宗一郎が一流の自動車修理技術を身に付け、アート商会ののれん分けを許され、東京本郷から地元浜松に戻ります。全通したばかりの六間道路沿いで、浜松駅から北に1kmほどの場所に、アート商会浜松支店を開店しました。1928年(昭和3年)4月、21歳のことでした。

六間道路とは

浜松市を東西に延びる六間道路は、道幅が六間(約11m)あったことから、その名がつきました。1928年(昭和3年)に全通しました。

六間道路という広い道路が造られた理由は、その先にある軍の施設に物資を輸送するためでした。その軍の施設のある場所は、もともとアート・スミスの曲技飛行が行われ、宗一郎少年が自転車で見にいった場所です。

その場所は、現在、公園になっています。

アート商会浜松支店は、開店した翌年の1929年(昭和4年)には技術力で名を馳せて、繁盛したそうです。その年に、伊藤正(16歳)が丁稚奉公で入社します。本田宗一郎の4番目か6番目の弟子だったそうです。

本田宗一郎の指導方法は、まずやらせてみみて、できなければ激怒するというものでした。入社したばかりの弟子たちは、自動車のことは何も知らない状態ですから、できるはずがありません。機嫌の悪いときは、理由もなく殴られたり蹴られたりしたと言われています。また、本田宗一郎のあまりにもの激しさに、最後まで残っていた者は数えるほどだったと言われています。

伊藤正は、入社してから数年は、本田宗一郎から「このバカ!」と毎日のようにスパナで頭を殴られていたことでしょう。伊藤正の頭には、殴られた後がハゲとして残っていたと言われています。忍耐力があり負けん気の強い伊藤正は、本田宗一郎がピストンリングの開発に熱を入れるまでの8年間、本田宗一郎と共に仕事をしました。

本田宗一郎の開発熱はすさまじく、当時は「浜松のエジソン」とも称されていました。自動車のホイールは木製が主流の中で鉄製のホイールを開発したり、消防車を改造したり、自らレーシングカーの部品を製造して自動車レースに参戦したりするほどでした。

それを手伝って育った伊藤正の技術レベルは、かなりのものだったことでしょう。アート商会浜松支店の最盛期には50人ほどの従業員がいたとのことですので、その頃は伊藤正も若手の技術指導をしていたはずです。丁稚奉公では、給料と言えるほどものは出ませんが、技術レベルの上がった伊藤正にお客様が付き、そこからの収入がありました。

独立起業とオートバイブーム到来

本田宗一郎がピストンリングの研究開発に打ち込み始めてから2年後の1938年(昭和13年)、本田宗一郎の人当たりに対する憤りから伊藤正はアート商会を退社し、2番目の兄と共に自動車修理工場「丸正商会」を立ち上げます。

工場の場所は、アート商会から徒歩で数分の場所でした。本田宗一郎に対抗したいと考えたこと、近くにお客様がいたこと、ちょうど土地があったことなどの理由が考えられます。

本田宗一郎は、翌年の1939年(昭和14年)にピストンリングを完成させ、アート商会を弟子の一人である川島末男(~1986年)氏に譲渡し、東海精機重工業株式会社(現、東海精機株式会社)を設立します。

その後に日本は大戦に突入、終戦間際ともなると軍需工場の多かった浜松市は、爆弾、焼夷弾、機銃照射、艦砲射撃と、ありとあらゆる間接攻撃を受け、浜松駅周辺は更地と化したほどでした。

そのような戦火の影響により、丸正商会は操業停止に追い込まれます。今の金額で5,000万円ほどで工場や設備を国鉄に売却し、そこで働き続けることになっていましたが、国鉄の待遇に不満を持ち出社拒否して、釣りをして過ごしました。

そのような伊藤正の噂を聞きつけた本田宗一郎が、人手が足りなくて困っていた東海精機重工業に、半ば強引に入社させました。そのときに伊藤正は、今までの本田宗一郎との関係のようにならないためにも、東海精機重工業の株式を本田宗一郎から取得したと言われています。

本田宗一郎の経営姿勢の成長

東海精機重工業に入社した伊藤正は、ここで本田宗一郎の仕事ぶりや事業の大きさなど、以前との変化を見ているはずです。おそらく、本田宗一郎の技術開発力や先見性のすごさを、あらためて知ったことと思われます。そのイメージが、「オヤジの開発したものは必ず売れる。いずれは私もオヤジのような大きな仕事をしてみたい。」と思ったに違いありません。

本田宗一郎は、アート商会浜松支店の時代と、東海精機重工業時代の事業に取り組む心境が大きく違っていました。この心境の変化は、事業を大成させるために大切なことなのですが、伊藤正はこの変化を見抜いていなかった可能性があります。

一流の自動車修理技術を身に付けてアート商会浜松支店を経営をしていた本田宗一郎は、「金儲けのために経営をしていた」という節があります。この金儲けのための経営姿勢を「第一段階の経営姿勢」と名付けたいと思います。

ピストンリングの製造に成功し、東海精機重工業を経営していた本田宗一郎は、「社会的責任を果たすために仕事をしていた」という、公器な人物に成長していた節があります。

本田宗一郎がもともとピストンリングの開発をし出したのは、「資源が少なくても利益が出るものを開発したい」という私欲からでした。戦時中にエンジンの需要が増え、ピストンリングはエンジンにはなくてはならない部品だったため、「その需要に応えたい」と社会的責任に目覚めた可能性があります。

この時期を社会的責任のための経営姿勢を「第二段階の経営姿勢」と名付けたいと思います。

創業社長は、第一段階で成功しても空虚感が抜けずに悩み、反省して第二段階に進み、第一段階よりも大きな事業を成します。そこでも挫折し、「まだまだダメだった」と反省した場合に、巨大企業に成長していく事業をスタートさせる第三段階の経営姿勢に進みます。それは、「天下国家のため」という経営姿勢です。

終戦を迎え、オートバイを開発した本田宗一郎は「オートバイの製造を通じて、日本を一流国と認めさせたい。エンジンで世界を変えたい。」という第三段階の経営姿勢に入ります。

経営姿勢の段階については、いずれ別の記事にてご紹介いたします。

終戦後の1946年(昭和21年)、伊藤正は東海精機を辞めて、工場を池川町に建て事業を再興し、自動車修理やトラックのボディの製造を行います。この場所が後に丸正自動車製造発祥の地になります。

本田宗一郎は、東海精機の株式を豊田自動織機に売却し、町中をふらふら出回り、家でゴロゴロして「何にも仙人」と言われていました。ところが、その年の10月、本田宗一郎(39歳)が目の色を変えて開発に取り組んだものがあります。

それは、自転車用補助エンジンでした。

初号機は、ガソリンタンクに湯たんぽを用いたことは有名で、最初のテストドライバーは本田さち(1914~2013)夫人でした。今もその実物をホンダコレクションホールで見ることができます。

初期の自転車用補助エンジン

さち夫人に闇市での買い出しに使わせたら、移動手段に飢えていた時代のニーズと相まって、たちまち人気商品をなりました。

「本田が自転車用補助エンジンを開発し、浜松でブームが起こっている。これに乗り遅れたらいけない」と、伊藤正も自転車用補助エンジンを手に入れて、なんとか自分たちも開発できないかと考えます。

そのころ、本田技術研究所では三国商工から仕入れたエンジン500台ほどをすべて売りつくしてしまい、自らホンダA型エンジンを開発したところでした。

試作機「タイガー号」を開発

丸正自動車製造は、その翌年1947年(昭和22年)、ベルト駆動の試作機「タイガー号」を開発します。試作車をなんと3か月で製造します。当時の丸正商会の従業員は30名程度でした。

オートバイの開発を提案したのは溝渕定でした。

1947年(昭和22年)に溝渕定は、浜松工業専門学校(現、浜松大学工学部)を卒業したものの就職難で、青果市場のトラック運転手のアルバイトのようなことをしていました。そこに、たまたまオート3輪を販売しにきた伊藤正と出会いました。伊藤正(34歳)は、溝渕定の能力を見抜いて丸正商会にスカウトしました。

その溝渕定がオートバイの製造を提案し、設計を任され、見事にやり切るのです。

六間道路では、本田宗一郎が自転車用補助エンジンのテストドライブをしているさなか、突如眼前に丸正商会の試作機タイガー号がお目見えするわけですから、本田宗一郎は驚いたことでしょう。

丸正自動車製造の立ち上げとライラック号の開発

1948年(昭和23年)本田技術研究所は、2月に野口工場を新設し、9月に資本金100万円で本田技研工業株式会社を創立します。ホンダA型はベルトコンベアシステムで生産され、月産台数は1,000台とも2,000台とも言われ、オートバイブームの到来が起こります。

同年、タイガー号の開発に自信をつけた伊藤正(35歳)は、周囲の反対を押し切り、また会社を離れていく人もいる中、5月に社名を丸正自動車製造に改名して自動車修理をあっさりと止めます。その潔さは、本田宗一郎から学んだものだと思われます。

1949年(昭和24年)8月、本田技研工業が最初のオートバイとなるドリームD型を発売します。

ホンダコレクションホールに展示されているドリームD型

この写真は、ホンダコレクションホールに展示されているドリームD型です。このオートバイは、それまでエンジンの製造が中心的な業態だった本田技研工業にとって、初となる本格的なオートバイでした。

写真の人物は、左の作業着姿の人物が本田宗一郎、右のスーツ姿の人物が藤沢武夫です。

六間道路にいきなりドリームD型が出没したことに、伊藤正ら技術陣はたいへん驚いたことでしょう。ドリームD型はたちまち地元で人気の車種となりました。

創業期の会社が成長するためには、品質の高い商品を開発することが必須条件となります。

その点、丸正自動車製造は当初から、エンジン設計の溝渕、車体設計の木村、デザインを担う林といった、優秀な3名の技術者に恵まれました。3名の入社時期は不明ですが、丸正自動車製造に社名を変えた前後には入社しているはずです。

シャフトドライブを採用したライラック号の誕生

丸正自動車製造はドリームD型を分析し、ドリームD型を模したオートバイを設計します。しかし、「まったくのマネは面白くない」ということで、溝渕定は駆動方式にチェーン方式でなくシャフトドライブ方式を提案するのです。

伊藤正は「なんでもやれ」ということであっさり受け入れます。その後も、技術陣で何かやりたいことがあったら、伊藤正はいつも「やれ」と言ってくれました。技術陣は開発のやりがいがあったことでしょう。

シャフトドライブ方式を採用するためには、放射状に歯車の歯が切ってある「かさ歯車(ベベルギア)」や、たくさんの歯車を必要とし、それらを製造しなくてはなりません。

戦後の荒廃した浜松には歯車製造工場はなく、丸正自動車製造では歯車を1枚ずつ自作しました。たくさんの歯車を使用しますが、1枚でもかみ合わない歯車があると、オートバイは動きません。そこで、歯車には高い精度が求められます。

戦後の荒廃した中で、古い工作機械を用いての製造だったため、当初は歯車の精度が出せずにトラブルの山を築き上げますが、徹夜をいとわず果敢にチャレンジし、見事に試作機を完成させます。

六間道路でドリームD型のテストドライブをしているさなか、今度はシャフトドライブを採用したライラック号が出没します。かさ歯車の製造の難易度を知っていた本田宗一郎は、シャフトドライブ方式の実用化に驚いたことでしょう。

そして、翌年の1950年(昭和25年)10月に、ライラックML型が発表されます。伊藤正が37歳のときです。

このように、丸正自動車製造と本田技研工業は、ほぼ同時期にオートバイ開発を始め、お互いの技術陣が意見公開しながら切磋琢磨して成長していきます。

本田技研工業に追いつけ追い越せ

丸正自動車製造は1951年(昭和26年)に、本格的にライラック号の市場参入を開始。この年に、餃子製造機で有名な東亜工業株式会社の創業者となる請井由夫氏が丸正自動車製造に入社します。

また翌年の1952年(昭和27年)には、新しく工場を設立し生産体制を強化。それを機会に、矢継ぎ早に新機種を開発していきます。

1952年(昭和27年)、一方の本田技研工業はオシャレな自転車用補助エンジン、カブF型を発表します。この当時、オートバイ市場よりも女性向けの自転車用補助エンジンの方が売れると見た藤沢武夫が、本田宗一郎に開発を依頼し、その要望に見事に答えます。

カブF型

カブF型のPRに、当時ラインダンスで人気だった日劇ダンシングチームを起用。彼女たちがカブF型を搭載した自転車に乗って日比谷公園から銀座通りにかけて派手にパレードし、女性でも簡単に操作できることを訴求しました。また、全国の自転車店に手紙を送り、15~16軒しかなかった販売代理店を、一挙に13,000軒に増やすことに成功し、日本全国に本田技研工業の名前が知られます。

本田技研工業が海外から工作機械を大量購入したことの衝撃とは?

この年に本田技研工業は、一時的にオートバイの売上高で日本一を達成します。これで得られた資金で、生産体制の刷新に踏み切ります。

本田技研工業は、アメリカや西ドイツ、スイスの工作機械メーカーから、歯切盤や内面研削盤などさまざまな種類の高性能な工作機械を108台購入しています。

資本金が600万円のときに、4億5000万円分の工作機械を購入する無謀さと、その支払いを藤沢武夫がなんとかしたということは、さすがとしか言いようがありません。

1952年までは、町工場の延長のような体制でのオートバイ製造が許され、ある意味でセーの法則にも似た、造れば売れる時代でした。

これらの工作機械が本格稼働しだすと、町工場で造られるオートバイとは性能差が歴然です。最新設備を導入できない会社のオートバイは売れなくなることが必至です。

浜松の町工場でも高性能な工作機械を導入した会社もありましたが、部品の精度が上がって高性能なバイクを製造できても、組み立ては手作業レベルだったため、ベルトコンベアで量産を行っている本田技研工業のオートバイには価格で勝てなく、あえなくヤマハ発動機に吸収された会社もありました。

そのように、オートバイ市場が大きくなりすぎ、設備投資による大量生産の時代に突入していったことに、多くの町工場が追従できませんでした。

そういった中で、本田技研工業の追従を果敢に試みたのが伊藤正でした。

しかし、丸正自動車製造ではカブF型のような自転車用補助エンジンは開発しませんでした。丸正自動車製造のオートバイの最大の強みは、何といってもシャフトドライブ方式のオートバイです。オートバイ一本に絞り込んだのでしょう。

その後、カブF型の需要が急激に減少したことを考えると、この方針は良かったかもしれません。しかし、売上が一時的だったとは言え、自転車用補助エンジンは未開拓の販売代理店を増やすのには、とっておきの商品だったことも事実としてありました。

1953年(昭和28年)、丸正自動車製造は本田技研工業に遅れること3年目に、浜松から東京八重洲に本社を移転します。東京への本社移転は本田宗一郎がすすめたとされています。また同年、本田技研工業から遅れること1年半に名古屋支店を開設し、福岡にも支店を設けます。

ベビーライラック号を発表

この年に、ヒット商品となるベビーライラック号を発表します。訴求方法は本田技研工業の派手さを真似し、着物姿をした松竹歌劇団が宣伝隊が、オートバイに乗って町中を回ったり、宣伝カーの上に乗って全国各地をパレードしたりするというものでした。

ベビーライラック号は、価格の安さと広告宣伝の効果で大ヒットし、会社は急成長していきます。現在の浜松市中区森田町に6,000坪もの工場を設立して生産体制を強化し、オートバイの販売台数で国内3位まで上り詰めます。

広告宣伝の派手さがさらにエスカレート

丸正自動車製造の宣伝の派手さは、その費用だけで新工場が建つほどでしたが、さらにエスカレートしていき、新型設備の導入や部品の生産体制構築は放置されました。

ライラックの歌の製作・レコーディングを藤山一郎に依頼したり、丸正自動車製造の営業マンを描いた映画「姿なき驀走(ばくそう)」を制作し、 1954年(昭和29年) に全国で放映されたりします。

雑誌「月刊オートバイ」1954年1月号の表紙には、プロ野球巨人軍の川上哲治選手(内野手)が球場でベビーライラック号に乗った姿が飾られました。川上哲治は、1953年には日本プロ野球史上初の1500安打を達成し、数々の賞も受賞したスター選手でした。また同年3月に発行された広報誌「ライラック タイムス」にも川上哲治の姿が見られます。後のライラック タイムスには、長嶋茂雄選手も掲載されたことがあったようです。

さて、1954年(昭和29年)は、朝鮮戦争特需が終わり、オートバイの需要が昨年の2/3程度に落ち込み、各オートバイメーカーに不況の波が押し寄せていました。そして、204社あったオートバイメーカーは、この年に88社にまで減少しました。

その中、丸正自動車製造は大阪支店を開設し、販売ルートをさらに広げます。

この年の4月、本田技研工業は浜松市葵町に2万坪の新工場(浜松製作所葵工場)を稼働させます。この工場には、外国から調達した工作機械が導入されていました。この頃、溝渕定は本田技研工業の新工場を見学していますが、おそらくこの葵工場だったと思われます。

溝渕定は、そこで検査工の多さに驚きます。その数は、組立工よりも多かったのです。部品を流れ作業で検査し、それを組み立てていきます。部品の全数検査は、検査費用はかかるものの、組み立て直しが減り、出荷後のトラブルも減りますので、結果的に安上がりとなり、品質の高さにもつながります。その考え方の違いを痛感しました。

競合他社が開発したオートバイの中にも、シャフトドライブ方式を採用したものが出現し始めていたため、焦りもあったと思います。

本田宗一郎のマン島TTレース出場宣言

品質に定評のあった本田技研工業でしたが、1953年(昭和28年)競合他社の類似商品の台頭し販売店を奪われたり、主力商品が原因不明のトラブルや異音などで販売不振になったりで、売上高は前年比で23%ほど減らしました。

そこに買掛金や工作機械の代金の支払いが重くのしかかり、また労組問題が勃発するなど、1954年(昭和29年)は本田技研工業にとってもっとも苦しいときで、経済界の中でも倒産が叫ばれはじめます。

この年の3月、本田宗一郎(47歳)は伝説となる「マン島TTレース出場宣言」を発表します。マン島TTレースは、オートバイレースのオリンピックとも言われ、「このレースで優勝したオートバイは世界一のオートバイ」と称されるほどでした。その宣言のレプリカが次のものです。

マン島TTレース出場宣言(1954年)レプリカ

本田宗一郎は、もともと世界最高水準のオートバイを開発することを目標にしていたため、いずれは発表される宣言だったと思いますが、倒産寸前の状態でそれを行ったことは、注目に値します。もう一つには、日本の機会工業が優れていることを世界に誇示できることが記載されています。

この宣言文は、もちろん藤沢武夫が本文を書いて本田宗一郎が署名ものです。藤沢武夫は、本田宗一郎が世界一を目指していることや、日本の発展に貢献したいと考えているこという公器な考えを、完璧に捉えていました。

1955年(昭和30年)11月に、日本で初めて全日本の本格的なオートバイレース、全日本オートバイ耐久ロードレース(通称:浅間高原レース、第1回浅間火山レース)が開催されました。公道や浅間高原をコースとした1周19.21kmを5周するというものでした。

次の写真は、そのスタート地点にある記念碑です。

浅間高原レース(第1回浅間火山レース)の地碑

丸正自動車製造は、125ccクラス(ウルトラライトウェイトクラス)にはボアアップされたベビーライラックJF3が、250ccクラス(ライトウェイトクラス)にはライラックSYを出場させます。

結果は、125ccクラスは振るいませんでしたが、250ccクラスにてライラックSYに乗った伊藤史朗(いとうふみお、1939~1991)氏が、優勝候補だったドリームSAZに乗った谷口尚己(たにぐち なおみ、1936~)氏を僅差で2位に抑えて優勝します。

この優勝により、ライラック号の名前が日本全国に知れ渡り、神武景気と相まって販売台数はさらに伸びます。

このときの丸正自動車製造の従業員数は700名を超え、売上高は8億円を超えていました。ちなみに、本田技研工業の従業員数は2,500名を超えていました。

オートバイの大会に出場しなければならない理由

1953年頃からは、大きなオートバイレースが盛んに開催され始めました。

当時のオートバイ市場では、メーカーによって品質に大きな差がありました。そのため、消費者は高性能なオートバイを手に入れたいわけですが、それを実証し全国にPRするためには、オートバイの大会に出場し優勝することでした。

ただし、オートバイの大会に出場するためには、レース用に改造されたオートバイやレーサーの準備、出場費、レーサーやメカニックの宿泊費等で、今の金額に換算して1台当たり1,000万円(5台出場で5,000万円)ほどかかったと言われています。

オートバイの大会に出ることは、小さな会社にとっては、ある意味で社運を賭けた挑戦でした。それゆえに、オートバイの大会に出場すらできずに倒産していったメーカーは、数え切れません。

先ほど述べた全日本オートバイ耐久ロードレースは、第3回まで行われ、その出場メーカー数は、1955年開催の第1回は19メーカー、1957年開催の第2回は11メーカー、1959年開催の第3回は8メーカーと減っていきました。

全日本オートバイ耐久ロードレースの開催は3回で終わり、その後は、1962年に本田技研工業が日本初の舗装された本格的なサーキット場「鈴鹿サーキット」をオープンさせるなどして、企業が持つサーキット場でオートバイレースが行われるようになりました。

さて、大きなレースで優勝して販売台数が大幅に伸び、増産に入った丸正自動車製造ですが、そこから失敗が始まります。

浜松などにあった小さな部品工場が丸正自動車製造に「うちの工場に造らせてもらえないでしょうか」との相談が入ります。部品工場の営業担当が、伊藤正たちを料亭で接待しそこに芸者を引っ張ってくるなどして、伊藤正らを喜ばせました。

しかし、部品工場はその経費をどうするのでしょうか。もちろん、部品代に上乗せされます。この費用がライラック号の本体価格に重くのしかかります。シャフトドライブ方式は、チェーンドライブ方式と比べて価格が高くなりがちにもかかわらず、さらに割高に感じられるようになりました。

後に、ライラック号の販売台数が下がっていくことは明白です。

本田宗一郎の宴会に対する姿勢は?

本田宗一郎はどうだったのか。どうやら、本田宗一郎も伊藤正と同様に、宴会が好きだったようです。若かりし頃の本田宗一郎は、遊ぶために仕事をしていると言っても、過言ではありませんでした。

しかし、本田宗一郎が伊藤正と違っていたことは、公私を分ける姿勢でした。

飲み代すべてかどうか分かりませんが、少なくとも従業員と飲みに行くときは、ポケットマネーを使い、余計な経費にはしなかったようです。

また、本田技研工業が鈴鹿市に工場を新設するのに決めた理由は、立地条件だけでなく、当時鈴鹿市長だった杉本龍造(1913~1997)氏が、本田宗一郎と藤沢武夫を接待に誘わなかったからです。本田宗一郎は、「あの市長は信頼できる。鈴鹿にしよう。」と帰路で決めたそうです。

1956年、本田技研工業の社報で述べられた合理化について

もちろん、本田技研工業で飲み代などの無駄遣いを戒めたことは、合理化の一部に過ぎません。

神武景気の真っただ中、売上高が歴代更新する兆しが見えた本田技研工業でしたが、そのとき社報に掲載された藤沢武夫の言葉が興味深いです。その抜粋は次の通りです。

「今わが社は、数量を増加して各社の増産と歩調を合わせることがよいか、数量はおさえて、販売比率は下げても経営内容をよくすることに努力することがよいかの、天下分け目のところである。

まだまだコストダウンさせなければならない多くの要素がある。これを徹底的に探究し、理想的原価にもっていくことが、現在とるべき第一番に重要なことであると、社長は経営の中心を明らかにしている。

油断のならない時期は近づきつつある。」

藤沢武夫は経済、銀行、市場などの動向を読み取り、さらなる合理化を行いつつ、生産台数や従業員数を無理に増やしませんでした。

丸正自動車製造における社内の合理化はどうだったのでしょうか。

本田技研工業に勤めていた社員が、退社して丸正自動車製造に入社することがありました。伊藤正は、「本田技研工業から来た社員はとても厳しかった」と述べています。

おそらく伊藤正はその社員に頼み、本田技研工業で当たり前だった厳しさを、丸正自動車製造に取り入れようとしたことでしょう。しかし、会社の体質は変わりませんでした。

伊藤正は、「これは危ない」と思いつつも、無駄遣いにブレーキを踏めませんでした。つまり、伊藤正は俗世間の誘惑に弱く、小規模から中規模、そして大規模に成長していく会社を経営するための哲学がなかったと言えます。経営哲学のない社長には、藤沢武夫のようなトップの弱点を補ってくれる優秀なナンバー2は定着しません。

ナンバー2のいない会社は、社長が苦手とするところもすべて判断・決断をしなければいけません。

藤沢武夫の読み通り、まさしく天下分け目のところだったのです。

失速と倒産の憂き目

1956年(昭和31年)、本田技研工業は経営理念を策定、翌年1957年(昭和32年)は事務の合理化を開始。海外から輸入した高性能な工作機械を扱える人材も育ち、高性能なオートバイを安価に量産できるようになりました。

本田宗一郎と藤沢武夫の仕事に対する厳しさや、倒産の危機を乗り越えた本田技研工業の体質は、まさに筋肉質でした。危機を乗り越えた経験が、本田技研工業にとっての資産として残りました。

このときの丸正自動車製造の売上高は9億円5,000万円(現在の価値に換算すると約56億円)ほどありました。本田技研工業は65億円ほどあったので、丸正自動車製造は本田技研工業の1/7ほどです。

丸正自動車製造の工場にある工作機械は旧型ばかりだったので、本田技研工業に遅れを取っています。また、このときの丸正自動車製造の販売店数は196店舗でした。都道府県の平均販売店数が4.2店です。本田技研工業はカブF型の販売で、販売店数を大幅に伸ばしていたので、販売力も圧倒的に負けていました。

丸正自動車製造は、この時点で厳しい合理化に舵取りをし、生産力と向上と、効果的な販売方法の確立に注力しなければいけない時期に差し掛かっていました。最初の倒産まで、あと4年のことでした。

本田技研工業の値下げ攻勢

1957年(昭和32年)3月と8月、日銀は2度の公定歩合引き上げを行います。各社が資金調達が難しくなった時期に合わせて、ドリーム号とベンリイ号の値下げ交戦を、3月と8月の2度も連続して仕掛けます。まさしく強者の兵法です。

1度目の値下げには、多くの会社が追従できたことでしょう。藤沢武夫は、その追従を見定めるように、同じ年に2度目の値下げを行います。その価格は、「他のメーカーが、当分追いつけない値段をつけて、一挙に、量を確保するという大作戦であった」と西田通弘は後に述べています。

本田技研工業は、この前後に値下げの他にも他社にないサービスを導入しています。

  • 1年保証の導入
  • 小売価格を全国統一化

これらの仕掛けには、オートバイメーカー各社は参ったと思います。この仕掛けに、量産できない多くの企業が薄利多売となり、当時最大手のトーハツですら追従できませんでした。

丸正自動車製造も例外なく経営不振を迎えます。ベビーライラック号以降、いくつも新商品を開発しますが、大きな会社を支えるだけのヒット商品は生まれませんでした。

丸正自動車製造の設備は古く、エンジン以外の多くの部品を外注していたため、生産性の向上とコスト削減が困難でした。

1957年(昭和32年)に、東京都中央区宝町に新社屋が完成します。この負担も大きかったことでしょう。それでも、売上高は12億8,000万円に達していました。

しかし、1957年~1958年の時期は「なべ底不況」と言われ、鍋底のように景気が停滞し、それが長期化するのではないかと言われていました。

そして、1958年(昭和33年)に丸正自動車製造は、ベビーライラックの後継機としてニューベビーライラック号を発表します。今まで4サイクルエンジンにこだわってきた丸正自動車製造ですが、ニューベビーライラック号では製造コストや材料費の安い2サイクルエンジンを採用しました。ニュー・ベビーライラック号のコンセプトは「自転車よりも手軽」でしたが、市場はまだまだ荷物の運搬を求めていました。

この年は売上が下がりはじめ、11億5,500万円でした。なべ底不況からの回復が望まれたことでしょう。

スーパーカブの誕生

それに対して本田技研工業では、倒産の危機の原因ともなっていた世界レベルの工作機械が性能を発揮し、また技術陣の総力を結集し、傑作とも言われるオートバイ「スーパーカブC100」が発売されます。燃費が良いうえ、壊れにくく、運転しやすく、小型なのに馬力があり、値段がはなはだしく安いと来ます。スーパーカブは、空前の大ヒット商品となり、モペッド市場を席捲しました。

排気量49cc
馬力4.5PS(9,500回転)
販売価格5万5,000円

1959年(昭和34年)には、米国法人の設立やマン島TTレースに初出場を果たします。そして、マン島TTレース史上初となる初出場でのチーム賞を受賞します。

その後の国内外での大きなオートバイレースは、本田技研工業が上位を独占していったことは言うまでもありません。そして、数年後にはマン島TTレースの表彰台を本田技研工業のオートバイが独占する時代も到来します。

この年の売上高は9億1,000万円ほどと、2年間で売上高が30%ほど落ち込みました。通常であればここで大手術です。それに比べ、本田技研工業の売上高は2年間で2倍以上伸びて200億円ほどとなり、その差は歴然でした。

スズキとの提携を持ち掛けられるも伊藤正がワンマン拒否

いよいよ経営が怪しくなった丸正自動車製造は、メインバンクの大和銀行からスズキとの提携を持ち掛けられます。そのときの売上高に対する金利支払い額の割合は、2%程度に達していました。

この提携にサインをすれば、伊藤正は「本田宗一郎を裏切ることはできない」という理由から経営陣に相談もせずに独断で提携を断ります。本田宗一郎と鈴木俊三は仲が悪いことで知られていましたし、本田技研工業と鈴木自動車工業はライバル企業です。もし丸正自動車製造が鈴木自動車工業と提携すると、本田宗一郎を裏切ってしまうことになると思ったようです。

その後、当然ながらメインバンクからの金融引き締めが始まります。

オートバイ一筋で世界企業になったホンダ、別事業に支えられたヤマハとスズキ

この頃、資本力のあるヤマハやスズキも台頭し、後に3強の時代を迎えます。この2社は、明治時代から楽器や自動織機を製造しており、その事業と並行しながらオートバイ製造に乗り出していました。安定した事業からの資金援助もあり、苦境を乗り越えることができました。

丸正自動車製造は、本田宗一郎を見習って、安定収入のあった自動車修理事業をあっさり捨てています。また、その他のオートバイ製造に乗り出した多くの工場でも、同じような傾向が見られます。

当時の多くの経営者は、考え方が単純のように思われますが、現在とは情熱が違っていたのでしょう。

本田技研工業の攻勢で生き残った企業は、別事業の収益があったところばかりです。強者と戦っていくためには、別の収入源も持っておいた方が安全です。

それにしても、戦後の浜松で生まれたオートバイメーカー3社のうち、2020年の世界シェア・ランキング1位がホンダ、2位がヤマハ、8位がスズキという実績からも、考えさせられるものがあります。なお、カワサキは9位です。

別の収益部門を持たない丸正自動車製造は、今ある設備で新しいオートバイを開発し続け、ヒット商品が出るのを待つしかありませんでした。

倒産の引き金になったライラック・モペットの誕生

1960年(昭和35年)、丸正自動車製造はスーパーカブが築いた小型オートバイ市場に参入すべく、初の小型車となるライラック・モペットを発表します。

次の写真がライラック・モペットです。2サイクル50ccで、ボディとシャーシが一体となったモノコックボディに前後車輪は片側サスペンションが採用され、セルスタートはもちろんのことグリップ操作での遠心式自動変速ができるといった、オシャレで女性でも運転しやすいスクーターでした。各社が、スーパーカブを模したオートバイを開発する中で、丸正自動車製造は独自性の高いスクーターを開発したのです。

ライラック・モペット

大手自動車メーカーと提携

これが大手自動車メーカーの目に留まり、ライラック・モペットのOEM契約を持ち掛けます。自社で開発していたモペッドの販売不振により、斬新なデザインのライラック・モペットに注目したわけです。

このとき、メインバンクであった大和銀行が手を引いていたため、東海銀行との取引が始まりました。東海銀行のあっ旋で大手自動車メーカーとの提携を持ち掛けます。

大手自動車メーカーが、なぜライラック・モペットに注目したのか。

その大手自動車メーカーは、スクーターではトップのシェアを誇っていましたが、50ccクラスのラインナップが弱く、本田技研工業のスーパーカブなどの競合にシェアを奪われ、30%程度まで落としていました。今後、モペッドを開発しても採算が取れるかどうかわからない状態でした。

大手自動車メーカーから前年に発売されたモペッドは、シャフトドライブを採用していました。シャフトドライブのオートバイと言えば丸正自動車製造ですが、大手自動車メーカーにとっては「まさか丸正自動車製造がモペッドに参入してくるとは」という具合に、さらなる強敵が出現して市場を脅かされたことと思います。また、ライラック・モペットは価格が安かったので、競合と同様に売れるのではないかと判断したようです。

販売網の権利を売却と設備投資

このときの丸正自動車製造は、年間の売上高が14億円以上あったものの、その利益のほとんどを設備拡張につぎ込んでいたため、資金難に陥っていました。設備投資を行い生産性を高めることで、他社との価格競争に追従できると踏んでのことでした。

丸正自動車製造の事情を知ってか、「丸正自動車製造が持っている販売網と権利を売ってほしい」と提案します。「当社の販売網も活かして、貴社のオートバイを広く売ることができます。販売はお任せください。」という具合で会話が進んだのでしょう。

伊藤正は、「大手自動車メーカーが全国で販売してくれるので、苦手な営業から解放される。また、権利を販売したお金で自社の設備投資ができる。」と期待し、大手自動車メーカーに丸正自動車製造が持っていた販売網と権利を無担保の資金援助3,000万円とモペット6,000台分の代金の前払い2億3,700万円、合計2億6,700万円で売ります。

伊藤正は、本田宗一郎から自由経済と競争原理の大切さも学んでいたはずです。にもかかわらず、自ら足かせを装着するという苦渋の決断をしました。しかも、製造原価5万円のところ、大手自動車メーカーには3万9,500円で契約し、1台売れるごとに約1万円の赤字で販売しているのです。

それほど精神的に追い込まれていたということでしょうし、それぐらいの卸価格でないとスーパーカブには勝てませんでした。また、間もなく実施されるであろうオートバイ輸入の自由化で、廉価で高性能なオートバイが輸入されるようになり、ますます経営が危うくなることが予想されます。

伊藤正は「設備投資で生産台数を増やせば製造原価を下げられるし、大手自動車メーカーの販売網に乗ればなんとかなるだろう」と踏んでいました。

そう考えるのもそのはずです。そのとき、モペッドの時代到来とばかりに各社が増産し、月産12万5,000台と戦後最高の製造台数に至ります。しかも、「大手自動車メーカーが助けてくれる」ということで、子会社になったかのような錯覚でいました。

大手自動車メーカーは、ライラック・モペットに独自のVベルト自動変速機を搭載させたり、前輪の片側サスペンションを両側に変更したりするなど、改造したものをOEM製造させて発売しました。

道路交通法施行によりモペッドの需要が激減

しかし、1960年(昭和35年)12月に施行された道路交通法により、許可制から免許制になり、二人乗りが禁止されて、モペッドの需要が激減します。各社は、二人乗りができない50ccエンジンを、二人乗りができる51cc以上に改造して販売するという苦肉の策で販売しました。この策が案外、市場に受け入れられたようです。しかし、ライラック・モペット(販売名:ゲールペット)は簡単には改造ができない設計でした。

ちょうどその同時期に、オート三輪ブームが起こっていました。1960年(昭和35年)は国内でオート三輪の生産台数のピークに達していました。オート三輪とは、前輪が1輪のトラックのことです。

大手自動車メーカーとしては、低価格のモペッドを販売するよりも、単価が高くブームも来ているオート三輪を販売した方が売上高につながりやすいため、大手自動車メーカーの経営陣らはOEM契約をした当初からオートバイ部門の縮小・撤退を決定していました。

そうとも知らず伊藤正は、大手自動車メーカーとのOEM契約に基づいて、設備投資を行いモペッドなどの量産を開始。資金繰り悪化の解消を夢見ますが、積極的に販売する気のない大手自動車メーカーは契約に背いてオートバイを大量返品し、在庫の山を築いてしまいます。

1961年(昭和36年)は、モペッドの国内生産は月産7万台と大幅に減産され、モペッドにとって暗黒時代とも言えるものでした。

丸正自動車製造は、もともと月産500台だったものを、この頃には月産1,500台まで製造できるまでに設備を増やしており、月産5,000台を目標としていましたが、大手自動車メーカーは当初購入予定の6,000台生産で手を引きました。

最初の倒産

丸正自動車製造は、在庫のオートバイを独自に売ろうにも、販売網を失っていたため売れませんでしたし、提携解消後に新たに販売網を築くための時間と余力はありませんでした。

当時は、池田内閣が所得倍増計画を打ち出しており、多くの企業では、それに合わせた長期計画の策定が行われました。ところが、丸正自動車製造では先行きが暗く、長期計画を立てようにも無理な話です。

スズキとの提携を再度模索しますが、その頃はスズキも経営不振だったため、提携は実りませんでした。

またこの頃は、労働運動が盛んに行われていた時代でした。1961年(昭和36年)1月、丸正自動車製造の社内では従業員が倒産の不安から労組を結成しました。10月に労使間で労働争議を開始します。その翌日、伊藤正は大手自動車メーカーとの交渉の中で、担当常務からは「手切れとして、明日の手形引き落としの金額をやる」と言われるも、「その場しのぎではダメだ」と拒否します。交渉は決裂し、その翌日に不渡り手形1,300万円、負債17億5,000万円で倒産しました。

11月に組合側が東京本社に訪れて再建を求めますが、希望は叶いませんでした。同月25日に工場が閉鎖され、全従業員が解雇されました。

伊藤正が48歳のときでした。

再起のチャレンジと再倒産

和議成立

伊藤正は、資金調達を本田宗一郎に相談しますが断られてしまいます。しかし、翌年1962年(昭和37年)、本田技研工業の下請けとして部品を発注することを約束してくれ、2月に従業員40人で仮操業を始めています。本田技研工業の下請けになった事実によって和議申請が成立します。

そのころの本田技研工業と言えば、アメリカ進出で大成功し、マン島TTレースの2クラスで1位~5位を独占し、4輪自動車を発表し、鈴鹿サーキットを完成させるといった、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していました。その本田技研工業と取引をするということは、債権者にとって補償が担保されたようなものです。

和議によると、大手自動車メーカーや金融機関を除いた、一般債務7億4,000万円の半額を切り捨てた3億7,000万円を事業再生後、半年を据え置いて、10年年賦で支払うという内容でした。

米国向けのオートバイ製造で再起を図る

何かと本田宗一郎に助けられてきた伊藤正ですが、本田技研工業の下請けを続けるさなか、再起を考えます。本田宗一郎は再起のことを知っていたそうですが、見て見ぬふりをしたと言われています。

この頃は、オートバイメーカーは20社程度しか生き残っていませんでした。しかし、本田技研工業、ヤマハ発動機、鈴木自動車工業の3社は、マン島TTレースなどの国外レースで好成績を収めて輸出が伸びたため、国内で需要が落ちている中でも生産台数を増やしていきました。

丸正自動車製造の再起は、国内での販売だけではかなり難易度の高いものだと容易に予想できます。そこで、本田技研工業の米国進出での成功を見ていたこともあり、米国向けの新車を開発し始めるのです。

米国進出のときに「ホンダがアメリカで売れるなら、丸正にできないはずはない」と発表しています。

またもや本田技研工業を追いかけるのですが、これは夢というよりは嫉妬でしょう。伊藤正はこのとき49歳ですので、引退するのにはまだ早い年齢ですし、技術力もあります。「やらまいか」精神で自らを奮い立たせますが、嫉妬で始めた事業はうまくいかないことが世の常です。

同年、第9回全日本自動車ショーにて米国向けのオートバイを発表。1963年(昭和38年)に生産開始をします。

1964年(昭和39年)、社名を株式会社ライラックに変更し、米国向けにライラック号を輸出します。

米国進出を断念

ところが、「オートバイを製造できる資金があるなら、借金を返してくれ」という債権者からの度重なる督促と、米国向けの輸出を任せた仲介人の外交官の高額なマージンの要求、銀行もお金を貸してくれないという状況に屈し、1967年(昭和42年)に再び倒産します。

またしても、販売網で苦労するという失態です。

このときばかりは、さすがの本田宗一郎も手助けしませんでした。

夢破れて山河あり

その後、伊藤正(53歳)は再びオートバイの夢を追いかけることを一切断ち切るため、すべての機械を売り払い、図面や資料を焼却したと伝えられています。そのときに焼却できなかったのが、アート商会時代に撮影された、本田宗一郎を中央にした1枚の集合写真でした。

後の伊藤正は、創業時の工場跡地に駐車場とライラック荘という名称の旅館を建て、その旅館を18年ほど運営されます。後にアパートに変更して、そのオーナーとして生涯を終えます。現在、その跡地には、今はライラック・ガーデンという名称のマンションがあり、オートバイ製造の面影すらありません。

1992年(平成4年)、本田宗一郎が亡くなった翌年のこと、伊藤正は都市開発で取り壊される予定のアート商会浜松支店の工場を訪れます。

この場所は、アート商会浜松支店発祥の地から徒歩3分ほど、ライラック荘から徒歩12分ほどのところにありました。おそらく大戦前後に移転したのでしょう。

工場内のホコリをかぶった棚には、湯たんぽが残されていました。それを眺める伊藤正の目には、オヤジに負けまいとする執着はもうありませんでした。

丸正自動車製造が倒産した根本原因は?

丸正自動車製造と本田技研工業の差は、大きなものがあります。片や倒産し、片や世界一のオートバイメーカーに急成長します。

上記のエピソードからは、いくつかの教訓を読み取られた方もいらっしゃることでしょう。

丸正自動車製造が倒産した理由には、たくさんのパラメータや条件が考えられますが、間違いを恐れず、私が考える、いくつかの倒産の根本原因を述べたいと思います。

いいものができても販売ができなければ売れない

倒産の根本原因の一つ目として、販売を挙げました。

世界にもあまり類を見ないシャフトドライブを採用したライラック号。すばらしいオートバイを製造したとしても、販売ができなければ消費者の手に渡ることはありません。

また、販売については、顧客のニーズの変化や競合他社の攻勢など、外部環境に大きく左右されます。売れる商品、売れる値段でなければ売れません。

本田技研工業では、販売方法を試行錯誤しながら、独自に販売網を築いていきます。丸正自動車製造は、本田技研工業の販売方法を研究しますが、最後は大手自動車メーカーに販売を依存して失敗します。

「販売」という生殺与奪権のすべてを大手自動車メーカーに依存し、オートバイメーカーから下請工場に転換した経営は、危険極まりありません。依存はせいぜい売上高の1/3が限度です。

アメリカに進出するときにも販売網で苦労しました。

ここで、藤沢武夫の「経営に終わりはない」から、本田技研工業での販売網のスタンスについての考え方について引用したいと思います。

「経営に終わりはない」(文藝春秋、文庫本、P174)

ホンダが初めて輸出をしたのは昭和二十五年(筆者注:正式には昭和27年)のことで、台湾から欲しいという話があって、小さな商社を通じて、エンジンを三百台くらい売ったのが最初です。つづけて買ってくれるのかと思って、商社へ何度か足を運びましたけれども、商社というものは、自分から積極的に売ろうという意思がぜんぜんない。とくに二輪車のような、自分たちに商品知識の乏しいものはそうでした。オートバイのような商品は、アフター・サービスが必要なので、とても商社に頼ってはだめだと思いました。

<中略>

私は、商社を通すべきではない、国内の流通経路をつくったときと同じように、地道に自分でパイプをつくらなくてはいけないと決心したんです。

会社が存続するためには、良い商品を開発することは大切ですが、それと同時に売上予算を実現するための販売の仕組みを構築する必要があります。

販売網の構築は、まさしく難行苦行と同じです。費用も時間もかかります。その難行苦行を乗り越えていかなければ、町工場は本物のオートバイメーカーに成長できませんでした。

弱者が強者の兵法を採用

丸正自動車製造は、本田技研工業のオートバイのデザイン、製造方法、宣伝方法など、さまざまなものを模倣していきます。本田技研工業が小企業のうちは、それで良かったのです。

本田技研工業からカブF型が発売された1952年(昭和27年)以降は、丸正自動車製造からすると、本田技研工業はかなりの強者と言えるほどの規模になっていました。その強者の会社経営方法や、販売方法などを、引き続き模倣していきます。

模倣はとても良いことだと思います。しかし、派手な広告宣伝を行ったり、営業部門が芸者を呼んでの宴会をしたりしていたことなどから、「本田技研工業の筋肉質の経営」という本質のところまで模倣ができていなかったようです。

その結果、弱者が強者の兵法の本質を理解せずに模倣して、大幅なムリ・ムダ・ムラを生みます。それにより、設備投資をしたり、オートバイの価格を値下げしたりすることができませんでした。

自社が強者か弱者かを見極め、それに見合った経営戦略を立てる必要があります。

放漫経営の丸正自動車製造と堅実経営の本田技研工業

本田技研工業には、本田宗一郎だけでなく藤沢武夫がいました。藤沢武夫は生産部門だけでなく間接部門にも徹底した合理化を図ります。倒産の危機に遭い、より堅実さを増した藤沢武夫は、営業部門で勝手に芸者を呼んでの宴会など、許されたものではありませんでした。従業員の机の上が片付いていないだけでも、激しく指導したとも伝えられています。

伊藤正は、社員のムダ遣いに対して「これではいけない」と思いつつも、温和な性格から、社員に厳しく指導することができなかったように思われます。

広告宣伝費や社員などのムダに消費したお金がライラック号の価格に上乗せされ、高品質で廉価なバイクを求めるようになった市場の変化に追従ができませんでした。

営業の見通しの甘さや、社長として社員を指導できなかったことなどで、伊藤正は放漫経営だったと言われても仕方がありません。

会社の存続のためには、特に現在の新型コロナによる不況時には、顧客ニーズをつかみ取った高付加価値の創造と、より一層のムダを排除し財務体質の強化が大切になります。

わが社にも藤沢武夫がいたら

丸正自動車製造には、優秀な技術スタッフが揃っていました。伊藤正は、後に次のように述べています。

「本田さんのところにいた藤沢という人は、ちょっと見た感じは古鉄屋の親方みたいなゴツイ風格だったが、頭の低いおとないしい人だった。ただ、商売には厳しかった。先を見る目があって、決断力がある。先手先手を打っていくんですよ。私の会社にも藤沢さんのような人がいてくれたら、倒産せずに済んでいたかもしれない。藤沢さんが欲しかったねぇ。」

確かに、伊藤正のボトルネックを補ってくれる優秀なナンバー2や経営参謀が経営に参画してくれていたら、倒産が免れただけでなく、会社が世界企業にまで成長できた可能性もあります。

理想のナンバー2や優秀な経営参謀が経営に参画すると何が良いのか?

社長にとって理想のナンバー2や優秀な経営参謀が経営に参画すると、営業体制や財務体質が改善され、今まで会社の成長のボトルネックになっていた2つのことが改善されます。

  1. アイデアが実現するスピードが格段に早まる。
  2. 経営のムリ・ムダ・ムラが改善される。

社長は基本的にアイデアマンですので、会社を発展させるためのイノベーションのアイデアを次々と出します。しかし、社長が苦手としているところで、必ずと言ってよいほど問題が発生し、会社の成長が止まります。例えば、経理が苦手な社長であれば、経理のところで問題が発生し、社長の貴重な時間が奪われてしまいます。

会社が発展しているときは、それに伴って必ずムリ・ムダ・ムラが発生します。それでも社長は発展に向けてエネルギーを費やすのですが、ムリ・ムダ・ムラによって利益率や生産性が悪くなり、売上高は大きくなっても利益が少なくなるという現象が発生します。

利益が少なくなれば、会社の発展のための商品開発や改善などが行えなくなり、これも会社の成長が止まります。

そこで、社長自身が陣頭指揮を執って「ムリ・ムダ・ムラの対策をしよう」考えることでしょう。社長は基本的に会社の発展力を担っているため、社長がムリ・ムダ・ムラの対応だけに追われてくると、会社の成長速度が落ちてしまい、発展の機会を失ってしまうことが多いです。

理想的なナンバー2が経営に参画すると、このような社長が苦手とする部分をナンバー2が補ってくれるようになります。すると、社長は発展力のみに集中することができるため、会社は発展しつつも利益を増やすことができるようになります。

本田技研工業では、主に本田宗一郎が発展力を、藤沢武夫が事務作業やムリ・ムダ・ムラの改善を担当して、会社は急速に成長しました。

理想のナンバー2を含む本当に優秀な参謀は、社長が持つ崇高な夢と、その実現を予感させる情熱と実力に集まるものです。徳の力と言っても良いものです。

片や世界一のオートバイメーカーを目指す本田技研工業、片や本田技研工業を目指す丸正自動車製造。優秀な人材は、本田技研工業に集まることでしょう。

自分の強みと弱みを知り、理想のナンバー2がどのような人物なのかを明確にすることで、そういった人物を見抜くことができるようになりますが、トップが魅力的な目標を掲げなければ、そのような人物は現れにくいものです。

藤沢武夫は、自書「松明は自分の手で」の中で、次のように述べています。

「二位というものはチエを使わないでも、マネさえしていれば、可能であるが、それだけでは、決して一位にはなれない。」

藤沢武夫は、常に一位を本気で目指す本田宗一郎の夢と実力、行動力、哲学などに魅了されたのでしょう。

また、トップは参謀からの諫言を素直に聞けるかどうかが問われます。もし、参謀からの諫言を素直に聞けない場合は参謀が離れていき、トップの周りはYesマンだらけになり、会社は末期を迎えます。

渋沢栄一が「論語と算盤」と述べられたように、経営には人間学と採算学の両方を勉強することが大切です。この2つは、いくら勉強しても勉強のやり過ぎはないのです。

結局は経営理念の差

本田技研工業では、社内報などを通じて、経営哲学やトップがつかんだ市場の動向、会社が何を考え何を目指しているのかなど、従業員にトップの考えを伝えることをしています。社内報でトップの考えを残すことによって、その後の本田技研工業を大きく成長させ、危機のときの指針となります。

1956年(昭和31年)1月の社内報に「社是」と「わが社の運営方針」として、経営理念が発表されます。

その社是の中には、「わが社は、世界的視野に立ち」と世界を目指していることが明記されています。また、運営方針には会社を運営していく上での経営判断の方針が描かれています。

本田技研工業の当初の経営理念

経営理念を作成していない会社の従業員数は、通常であれば30人ぐらいまでが限界です。経営理念を作成し、浸透させることで、30人の壁を突破することができます。

会社が大きくなるためには、組織戦で戦ってスケールメリットが出なければなりません。また、30人以上の社員に給料を払うためのヒット商品を出す必要があります。

従業員数が30人まででしたら、社長の目の届く範囲内ですので、社長の考えが伝わります。もともと会社の創業期に集った人は、家族だったり、知り合いだったりと、気持ちの伝わりやすい人が多いはずです。

30人を超えてくると、一般採用の人が増えていくため、経営理念を浸透させるなどして、社長の目の届かないところでも、質の高い仕事をしてもらうように育成する必要があります。

今までアットホームな会社の雰囲気だったものを、会社の成長に合わせてイノベーションさせていき、従業員数が500人を超えたときには、ガバナンスが完全に別のものになっている必要がありました。

そのためにも、従業員数が30人を超えたあたりで社長の考えを経営理念などに昇華し、明文化して従業員に浸透させ、従業員全員が高いレベルの仕事ができるようにすることが大切です。

一方、丸正自動車製造には経営理念はあったかもしれませんが、私の調査では発見できませんでした。経営理念がなかったとしても、急成長する本田技研工業を模倣することによって成長できたのですが、経営危機のときに限界がありました。

2社を比較して見えてくる正しい経営理念とは?

丸正自動車製造が倒産した理由と、本田技研工業が躍進した理由から、正しい経営理念がどのようなもので構成されているのか、またどのような文章を記載すべきかを読み解くことができます。

魅力的な目標

1つ目に魅力的な目標です。本田技研工業は販売台数だけでなく、パワーや品質、価格、アフターフォローなどで、世界一のオートバイメーカーを目指しました。そして、「エンジンで便利な世の中をつくり、世界中の人々を幸福にしたい」という崇高な想いを抱き、その実現に本気で取り組んでいました。

本田技研工業の経営理念からは、会社が誰が顧客でどのように貢献するのか、また魅力的な大きな目標が見て取れます。トップの魅力的な目標と人徳によって、ナンバー2が参画し、優秀な経営参謀が集まり、人材が育っていくのです。

伊藤正は、アート商会から独立・起業したときの目標は、「まずは浜松一の自動車修理屋」を目指します。それが見えてきたら次に「静岡一の自動車修理屋」を目指します。丸正自動車製造でオートバイを製造していたときの目標は、「本田宗一郎に負けないこと」です。

この目標では、先ほど藤沢武夫の自書の一文を述べましたが、決して一位にはなれない目標設定です。

それに比べ、アート商会時代の本田宗一郎は、最初から日本一の自動車屋を目指していました。本田技術研究所が設立されたとき、本田宗一郎は本気で世界一のオートバイメーカーを目指し、日本の技術力向上に貢献することを誓いました。

丸正自動車製造も本田技研工業も、オートバイを開発する技術力は一流でした。しかし、2社の目標を比較すると、どちらが魅力的な会社か、一目瞭然のことでしょう。

藤沢武夫という理想のナンバー2は、本田宗一郎の一流の技術力と志の高さに魅力を感じ、期待感を抱きました。理想のナンバー2の有無が、丸正自動車と本田技研工業の運命の差を少しずつ、確実に広げていったのです。

だれでも経営判断ができる経営方針(社是)

さまざまな経営判断をするときに、伊藤正は情や妥協によって経営判断している場面があります。特に、厳しい局面で情や妥協で経営判断をして、悪い方へと行っているように思えます。

経営理念には、経営幹部が合理的に経営判断ができるように、成功哲学なども盛り込まれた経営方針が必要だと言えます。

本田技研工業の当時の社是には、「顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉價(廉価)な製品を生産する」とあります。自社都合で価格を高く設定するのではなく、顧客のために高性能で廉価なオートバイを製造することを述べています。そのためには、徹底した合理化が必要になります。

もし、丸正自動車製造の経営方針の中に、「ムリ・ムダ・ムラを無くし、合理化に努めよ」といった一文が入っており、経営理念を浸透させていたら、営業マンが経費を無駄遣いしたときに経営理念に基づいて戒めることができたことでしょう。

現在の本田技研工業の経営理念

現在の本田技研工業の経営理念はこちらです。当時の社是や運営方針から進化しており、人間が地球上で幸福に生きるための哲学にまで昇華しています。

質の高い仕事をし続けるための行動指針(社訓)

本田技研工業では、行動指針は創ってはいませんでしたが、行動指針になりうるものを社内報で発表しています。本田宗一郎の記事には、「三つの喜び」や「120%の良品」などがあります。藤沢武夫の記事には、「松明は自分の手で」と行動指針に関することを述べていますし、「万物流転の法則」と称して組織論について述べています。社内報には開発、製造、販売、市場分析、財務など、多岐に渡る考え方も示されています。

これらの行動指針は後の経営陣にも受け継がれ、本田宗一郎や藤沢武夫が引退した後も、本田技研工業は世界のホンダとしてさらに成長していきました。

伊藤正は、幸いにも本田宗一郎から指導されたため、丸正自動車製造の技術陣の育成には成功していたと思われます。高性能なオートバイを開発し続けられてたことが、その理由です。

しかし、大きな市場に参入して会社が大きくなると、小さな会社でのやり方の延長ではうまくいきません。

トラブルの対応で例えると、今まで社長の目の行き届く範囲であれば、「トラブルには適切に対応せよ」という指示で良かったのですが、目が行き届かなくなってくると「どういったものがトラブルなのか」、「適切の基準はどうのようなものなのか」という具合のルールづくりが必要となります。

社長が支持を出さなくても判断して仕事をしてくれる人材を育て、ルールづくりの基準となる「行動指針」が必要となります。

伊藤正には、藤沢武夫のような会社組織全体や財務、市場の状態などを正しくつかみ、トップの弱点を補ってくれ、細かなところまで目を配ることができる参謀がいなかったため、バランスの取れた組織づくりができませんでした。

バランスの取れた経営ができてこそ、会社が大きくなっても質の高い仕事をし続けるための行動指針ができると思います。つまり、トップや参謀の成長、会社の規模、時代性などに合わせて、行動指針を進化させていくことが大切です。

以上のことをまとめると、魅力のある目標経営陣の正しい判断基準となる経営方針、技術だけに片よらないバランスの取れた行動指針が、正しい経営理念として構成されている必要があるのではないかと考えられます。

以上、丸正自動車製造の伊藤正に関する、あまり文献になっていない情報をまとめ、本田技研工業の本田宗一郎を比較して、倒産理由を探りました。また、2社を比較して正しい経営理念とはどのようなものなのかを検討しました。

あなたの会社の経営理念は正しいものでしょうか?

もし、自社の経営理念が「正しい経営理念なのだろうか?」と疑問に思われたり、「足りないものがある」と思われたりしたのであれば、このコラムを振り返ってお考えください。

また、ご自身で作成された経営理念が正しいものかどうかの判断に迷われたら、当社の経営理念コンサルタントにぜひご相談ください。

大戦後の浜松の混乱は、新型コロナでの不況とは比べものにならないぐらい悲惨なものだったと思われます。その中で魂を高揚させ、オートバイ開発を果敢に挑戦した経営者の歴史をだとっていると、私にも事業に取り組むエネルギーがみなぎりました。

本田技研工業が世界一になれたのは、たまたまだったのか、必然だったのか。丸正自動車製造と本田技研工業を分析をしましたが、結果を知っている私たちは、そこから教訓なり法則なりを発見できますが、当時はどちらの会社も何もかもが試行錯誤だったと思われます。本田技研工業を緻密に調べていても、どう考えても運が良かったとしか思えない部分もあります。

ある意味で不運で悔しい思いをされた伊藤正氏でしたが、死してなお現在を生きる私たちにたくさんの学びや教訓を与えてくださっています。

最後に、伊藤正氏に心から感謝いたします。

経営理念コンサルティング

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