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丸正自動車製造の倒産理由から見える正しい経営理念とは?

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丸正自動車製造の倒産理由から見える正しい経営理念とは?

今現在、日本国内のオートバイメーカーは4社です。ホンダを筆頭に、ヤマハ、スズキ、そしてカワサキです。

かつて日本国内のオートバイメーカーの数は、驚くことに300社以上あったと言われています。

最盛期の1953年(昭和28年)には、204社あったと、西田通弘(にしだみちひろ)著「語りつぐ経営―ホンダとともに30年」(講談社)に記載されています。

さて、表題の今は無き丸正自動車製造株式会社もその中の1社ですが、1948年に自動車修理工場からオートバイメーカーに業種転換し、1961年に1回目の倒産。その後再起を図りますが、1966年に全事業を閉鎖しました。

社長は伊藤正(いとうまさし、1913~2005)氏です。

伊藤正は、本田宗一郎(ほんだそういちろう、1906~1991)氏の弟子として、自動車修理工場のアート商会浜松支店(現、株式会社アート商会)で腕を振るっていた時代もありました。

かつて本田技研工業と覇を競って名車を生み出しながらも倒産していった丸正自動車製造と、世界一のオートバイメーカーになり隆々と発展していった本田技研工業の歴史や、伊藤正と本田宗一郎の経営姿勢を調査していると、その差はどうしても経営理念の差だったのではないかと感じずにはいられません。

このコラムでは、伊藤正と丸正自動車製造の歴史をご紹介しつつ、社長の経営判断の考え方や教訓とともに、正しい経営理念とはどのようなものなのかを考察したいと思います。

では、本田技研工業のアナザーストーリー、伊藤正と丸正自動車製造の物語をご覧ください。

丸正自動車製造のオートバイの特徴

丸正自動車製造の名車ともいえる代表的なオートバイは、ライラック号とベビー・ライラック号です。この2車種を簡単にご紹介いたします。現在のところ、ご提供できる写真はございませんので、検索エンジンの画像検索の画像と併せてお読みください。

伝説の名車「ライラック号」

伊藤正は、本田宗一郎から「人のマネをするな」「日本一のものを造れ」という技術に対する薫陶を受けてきました。

1949年(昭和24年)に、本田技術研究所でドリームD型が開発されたときに、目の前の道路(六間道路)でテストドライブをします。そこから500mほど離れた場所で自動車修理工場を経営していた伊藤正は、「わが社でもオートバイを製造するぞ」と、すぐさま自動車修理工場をたたみ、オートバイ製造に乗り出します。その潔さは、本田宗一郎仕込みでした。

伊藤正は、「ドリームD型と同じでは面白さがない」ということで、シャフトドライブ方式という当時としては画期的なオートバイを開発します。

エンジンとタイヤを結ぶためのチェーンは耐久性が弱いことに着目し、自動車のようにシャフトで動力を伝達する方式を採用しました。その提案と開発に、溝渕定(みぞぶちさだむ、1924~2017)氏が貢献しました。

完成したオートバイは、伊藤正の「藤」から、「ライラック号」と名付けられます。本田技研工業では、ドリームD型を開発し、藤沢武夫が入社したのと同年のことです。

六間道路でドリームD型のテストドライブをしている中に、突如、シャフトドライブを採用したライラック号が出没します。この技術に、本田宗一郎も驚いたと言われています。

丸正自動車製造は、この特徴的なオートバイでもって本田技研工業を後追いしていきます。

六間道路とは

浜松市を東西に延びる六間道路は、道幅が六間(約11m)あったことから、その名がつきました。1928年(昭和3年)に全通しました。

ベビー・ライラック号

1953年(昭和28年)、小型バイク(モペッド)のブームに対応するために開発されたのが、ヒット商品となるベビー・ライラック号です。ライラック号のシャフトドライブを採用しつつ、ヘッドライトと燃料タンクが一体となった今までにない斬新なデザインで、女性でも乗りやすい手軽さが売りのオートバイでした。

女性でも乗りやすいことをPRするために、着物姿の女性で結成されたライラック号宣伝隊を結成しました。

性能も高く、各地のオートバイレースにも出場させた機種です。

丸正自動車製造のオートバイは、いまだに部品を修理しながら乗り続けるファンがおり、ライラック友の会といった組織もあるようです。

伊藤正氏の経歴と丸正自動車製造の沿革

伊藤正が本田宗一郎から技術指導を受けて独立・起業し、丸正自動車製造を設立、倒産、その後までをご紹介いたします。

伊藤正は、1913年(大正2年)3月生まれです。本田宗一郎は1906年(明治39)11月生まれなので、伊藤正は7つほど年下でした。

アート商会浜松支店で本田宗一郎の弟子として修行

本田宗一郎がアート商会ののれん分けを許され、東京本郷から地元浜松に戻ります。全通したばかりの六間道路沿いで、浜松駅から北に1kmほどの場所に、アート商会浜松支店を開店しました。1928年(昭和3年)4月、21歳のことでした。

その翌年、1929年(昭和4年)に、伊藤正(16歳)がアート商会に入社します。本田宗一郎の4番目の弟子でした。

本田宗一郎の指導方法は、まずやらせてみることでした。入社したばかりの弟子たちは、何も知らない状態ですから、できるはずがありません。できなければ激怒するというものでした。伊藤正は、入社してから1~2年は、本田宗一郎から「このバカ!」と毎日のようにスパナで頭を殴られていたことでしょう。

しかし、本田宗一郎は一流の技術力だけでなく、人間的にも魅力のある人物でした。伊藤正は、本田宗一郎がピストンリングの開発に熱を入れるまでの8年間、本田宗一郎と共に仕事をします。

本田宗一郎の開発熱はすさまじく、当時は浜松のエジソンとも称されていました。自動車のホイールは木製が主流の中で鉄製のホイールを開発したり、消防車を改造したり、自らレーシングカーの部品を製造して自動車レースに参戦していたほどです。

それを手伝って育った伊藤正の技術レベルは、かなりのものだったことでしょう。アート商会浜松支店の最盛期には50人ほどの従業員がいたとのことですので、伊藤正も技術指導をしていたはずです。

独立起業とオートバイブーム到来

本田宗一郎がピストンリングの研究開発に打ち込み始めてから2年後の1938年(昭和13年)、伊藤正はアート商会を退社し、兄と共に自動車修理工場「丸正商会」を立ち上げます。

本田宗一郎は、翌年の1939年(昭和14年)にピストンリングを完成させ、アート商会を弟子の一人である川島末男(~1986年)氏に譲渡し、東海製機重工業株式会社(現、東海製機株式会社)を設立します。

その後に日本は大戦に突入、いよいよ戦火が激しくなり、軍需工場の多かった浜松市は、終戦間際ともなると爆弾、焼夷弾、機銃照射、艦砲射撃と、ありとあらゆる間接攻撃を受け浜松駅周辺は更地と化したほどでした。

そのような戦火の影響により、丸正商会は操業停止に追い込まれます。仕事ができなくなった伊藤正を、本田宗一郎が東海製機重工業に入社させて救ったようです。

終戦後の1946年(昭和21年)、伊藤正はなんとか事業を再興し、自動車修理やトラックのボディの製造を行います。このとき、工場を野口町から池川町に移転しました。この場所が後に丸正自動車製造発祥の地になります。

本田宗一郎は、東海製機重工業の株式を豊田自動織機に売却し、町中をふらふら出回り、家でゴロゴロして「何にも仙人」と言われていました。ところが、その年の10月、本田宗一郎(39歳)が目の色を変えて開発に取り組んだものがあります。

それは、自転車用補助エンジンでした。

初号機は、ガソリンタンクに湯たんぽを用いたことは有名で、最初のテストドライバーは本田さち(1914~2013)夫人でした。今もその実物をホンダコレクションホールで見ることができます。

初期の自転車用補助エンジン

さち夫人に闇市での買い出しに使わせたら、移動手段に飢えていた時代と相まって、たちまち人気商品をなりました。

「本田が自転車用補助エンジンを開発し、浜松でブームが起こっている。これに乗り遅れたらいけない」と、伊藤正も自転車用補助エンジンを手に入れて、なんとか自分たちも開発できないかと考えます。

そのころ、本田技術研究所では三国商工から仕入れたエンジン500台ほどをすべて売りつくしてしまい、自らホンダA型エンジンを開発したところでした。

その翌年1947年(昭和22年)、ベルト駆動の試作機「タイガー号」を開発します。試作車をなんと3か月で製造します。当時の丸正商会の従業員は30名程度でした。

オートバイの開発を提案したのは溝渕定でした。1947年(昭和22年)に溝渕定は、浜松工業専門学校(現、浜松大学工学部)を卒業してすぐ丸正商会に入社したと推定されます。その溝渕定にオートバイの設計が任され、見事にやり切るのです。

六間道路では、本田宗一郎が自転車用補助エンジンのテストドライブをしているさなか、突如眼前に丸正商会のタイガー号がお目見えするわけですから、本田宗一郎は驚いたことでしょう。

丸正自動車製造の立ち上げとライラック号の開発

1948年(昭和23年)本田技術研究所は、2月に野口工場を新設し、9月に資本金100万円で本田技研工業株式会社を創立します。ホンダA型はベルトコンベアシステムで生産され、月産台数は1,000台とも2,000台とも言われ、オートバイブームの到来が起こります。

同年、タイガー号の開発に自信をつけた伊藤正(35歳)は、周囲の反対を押し切り、また会社を離れていく人もいる中、5月に社名を丸正自動車製造に改名して自動車修理をあっさりと止めます。その潔さは、本田宗一郎から学んだものだと思われます。

1949年(昭和24年)8月、本田技研工業が最初のオートバイとなるドリームD型を発売します。

ホンダコレクションホールに展示されているドリームD型

この写真は、ホンダコレクションホールに展示されているドリームD型です。このオートバイは、それまでエンジンの製造が中心的な業態だった本田技研工業にとって、初となる本格的なオートバイでした。

写真の人物は、左の作業着姿の人物が本田宗一郎、右のスーツ姿の人物が藤沢武夫です。

六間道路にいきなりドリームD型が出没したことに、伊藤正ら技術陣はたいへん驚いたことでしょう。ドリームD型はたちまち地元で人気の車種となりました。

創業期の会社が成長するためには、品質の高い商品を開発することが必須条件となります。

その点、丸正自動車製造は当初から、エンジン設計の溝渕、車体設計の木村、デザインを担う林といった、優秀な3名の技術者に恵まれました。3名の入社時期は不明ですが、丸正自動車製造に社名を変えた前後には入社しているはずです。

丸正自動車製造はドリームD型を分析し、ドリームD型を模したオートバイを設計します。しかし、「まったくのマネは面白くない」ということで、溝渕定は駆動方式にチェーン方式でなくシャフトドライブ方式を提案するのです。

伊藤正は「なんでもやれ」ということであっさり受け入れます。その後も、技術陣で何かやりたいことがあったら、伊藤正はいつも「やれ」と言ってくれました。技術陣は開発のやりがいがあったことでしょう。

シャフトドライブ方式

オートバイが走るためには、エンジンの動力を後輪に伝える必要があります。今現在でも、その動力を伝える方式はチェーン方式が主流です。

シャフトドライブ方式を採用するためには、放射状に歯車の歯が切ってある「かさ歯車(ベベルギア)」や、たくさんの歯車を製造しなくてはなりません。

戦後の荒廃した浜松には歯車製造工場はなく、歯車を1枚ずつ自作しました。たくさんの歯車を使用するため、歯車には高い精度が求められますが、当初は精度が出せずにトラブルの山を築き上げます。徹夜をいとわず果敢に開発し、見事に製品化にこぎつけます。

六間道路でドリームD型のテストドライブをしているさなか、今度はシャフトドライブを採用したライラック号が出没します。かさ歯車の製造の難易度を知っていた本田宗一郎は、シャフトドライブ方式の実用化に驚いたことでしょう。

そして、翌年の1950年(昭和25年)10月に、ライラックML型が発表されます。伊藤正が37歳のときです。

このように、丸正自動車製造と本田技研工業は、ほぼ同時期にオートバイ開発を始め、切磋琢磨して成長していきます。

本田技研工業に追いつけ追い越せ

丸正自動車製造は1951年(昭和26年)に、本格的にライラック号の市場参入を開始。この年に、餃子製造機で有名な東亜工業株式会社の創業者となる請井由夫氏が丸正自動車製造に入社します。

また翌年の1952年(昭和27年)には、新しく工場を設立し生産体制を強化。それを機会に、矢継ぎ早に新機種を開発していきます。

1952年(昭和27年)、一方の本田技研工業はオシャレな自転車用補助エンジン、カブF型を発表します。この当時、オートバイ市場よりも女性向けの自転車用補助エンジンの方が売れると見た藤沢武夫が、本田宗一郎に開発を依頼し、その要望に見事に答えます。

カブF型

カブF型のPRに、当時ラインダンスで人気だった日劇ダンシングチームを起用。彼女たちがカブF型を搭載した自転車に乗って日比谷公園から銀座通りにかけて派手にパレードし、女性でも簡単に操作できることを訴求しました。また、全国の自転車店に手紙を送り、15~16軒しかなかった販売代理店を、一挙に13,000軒に増やすことに成功し、日本全国に本田技研工業の名前が知られます。

この年に、本田技研工業はオートバイの売上高で日本一を達成します。これで得られた資金で、生産体制の刷新に踏み切ります。

本田技研工業が海外から工作機械を大量購入したことの衝撃とは?

ここで本田技研工業は、アメリカや西ドイツ、スイスの工作機械メーカーから、さまざまな種類の高性能な工作機械を108台購入しています。

資本金が600万円のときに、4億5000万円分の工作機械を購入する無謀さと、その支払いを藤沢武夫がなんとかしたということは、さすがとしか言いようがありません。

1952年までは、町工場の延長のような体制でのオートバイ製造が許され、ある意味でセーの法則にも似た、造れば売れる時代でした。

これらの工作機械が本格稼働しだすと、町工場で造られるオートバイとは性能差が歴然です。最新設備を導入できない会社のオートバイは売れなくなることが必至です。

浜松の町工場でも高性能な工作機械を導入した会社もありましたが、部品の精度が上がって高性能なバイクを製造できても、組み立ては手作業レベルだったため、ベルトコンベアで量産を行っている本田技研工業のオートバイには価格で勝てなく、あえなくヤマハ発動機に吸収された会社もありました。

そのように、オートバイ市場が大きくなりすぎ、設備投資による大量生産の時代に突入していったことに、多くの町工場が追従できませんでした。

そういった中で、果敢に追従を試みたのが丸正自動車製造の伊藤正でした。

1953年(昭和28年)、丸正自動車製造は本田技研工業に遅れること3年目に、浜松から東京八重洲に本社を移転します。また同年、本田技研工業から遅れること1年半に名古屋支店を開設し、福岡にも支店を設けます。

この年に、ヒット商品となるベビー・ライラック号を発表します。訴求方法は本田技研工業の派手さを真似し、着物姿の宣伝隊が、オートバイに乗って町中を回ったり、宣伝カーの上に乗って全国各地を回ったりするというものでした。

そのかいもあって、会社は急成長していきます。現在の浜松市中区森田町に6,000坪もの工場を設立して生産体制を強化し、オートバイの販売台数で国内3位まで上り詰めます。

1954年(昭和29年)は、朝鮮戦争特需が終わり、オートバイの需要が昨年の2/3程度に落ち込み、各オートバイメーカーに不況の波が押し寄せていました。そして、204社あったオートバイメーカーは、この年に88社にまで減少しました。

本田技研工業は、競合他社の類似商品の台頭、原因不明のトラブルや異音などで、主力商品が販売不振になります。そこに買掛金や工作機械の代金の支払いが重くのしかかり、また労組問題が勃発するなどで最も苦しい時期を迎え、倒産が叫ばれはじめます。

その中、丸正自動車製造は大阪支店を開設し、販売ルートをさらに広げますが、その不況の波は丸正自動車製造にも襲っていました。

この年、本田宗一郎(47歳)は伝説となる「マン島TTレース出場宣言」します。マン島TTレースは、オートバイレースのオリンピックとも言われ、「このレースで優勝したオートバイは世界一のオートバイ」と称されるほどでした。

本田宗一郎は、もともと世界水準のオートバイを開発することを目標にしていたため、いずれは発表される宣言だったと思いますが、倒産寸前の状態でそれを行ったことは、注目に値します。

1955年(昭和30年)に、浅間高原レース(第1回浅間火山レース)が開催され、250ccクラスでライラックYS(伊藤史朗)はドリームSAZ(谷口尚己)を破り優勝。ライラック号の名前が日本全国に知れ渡り、神武景気と相まって販売台数はさらに伸びます。

このときの丸正自動車製造の従業員数は700名を超えていました。

オートバイの大会に出場しなければならない理由

1953年頃からは、大きなオートバイレースが盛んに開催され始めました。

当時のオートバイ市場では、メーカーによって品質に大きな差がありました。そのため、消費者は高性能なオートバイを手に入れたいわけですが、それを実証し全国にPRするためには、オートバイの大会に出場し優勝することでした。

ただし、オートバイの大会に出場するためには、レース用に改造されたオートバイやレーサーの準備、出場費、レーサーやメカニックの宿泊費等で、今の金額に換算して1台当たり1,000万円(5台出場で5,000万円)ほどかかったと言われています。

オートバイの大会に出ることは、小さな会社にとっては、ある意味で社運を賭けた挑戦でした。それゆえに、オートバイの大会に出場すらできずに倒産していったメーカーは、数え切れません。

さて、大きなレースで優勝して販売台数が大幅に伸びた丸正自動車製造ですが、派手なPR活動をしたり、営業マンが芸者を引っ張ってきて接待するなどの派手な営業活動で経費がかさみます。

「大会で本田に勝った」ということで、有頂天になっていたのかもしれません。

この費用がライラックの本体価格に重くのしかかり、販売台数が下がっていきます。

失速と倒産の憂き目

1956年(昭和31年)、本田技研工業は経営理念を策定、翌年1957年(昭和32年)は事務の合理化を開始。本田宗一郎と藤沢武夫の仕事に対する厳しさや、倒産寸前の経験をしていた本田技研工業の体質は、まさに筋肉質でした。

日銀の公定歩合引き上げで、各社が資金調達が難しくなった時期に合わせて、ドリーム号の値下げ交戦を2度も仕掛けます。まさしく強者の兵法です。1度目の値下げには、多くの会社が追従できたことでしょう。藤沢武夫は、その追従を見定めるように、同じ年に2度目の値下げを行います。

これには、各社は参ったと思います。この仕掛けに多くの企業が薄利多売となり、中堅メーカーですら追従できませんでした。

丸正自動車製造も例外なく経営不振を迎えます。ベビー・ライラック以降、いくつも新商品を開発しますが、大きな会社を支えるだけのヒット商品は生まれませんでした。

丸正自動車製造の設備は古く、エンジン以外の多くの部品を外注していたため、生産性の向上とコスト削減が困難でした。

いよいよ経営が怪しくなった丸正自動車製造は、メインバンクの大和銀行からスズキとの提携を持ち掛けられます。ところが、伊藤正は「本田宗一郎を裏切ることはできない」という理由から提携を断ります。

そして、1958年(昭和33年)、本田技研工業では倒産の危機の原因ともなった世界レベルの工作機械が性能を発揮し、また技術陣の総力を結集し、傑作とも言われるオートバイ「スーパーカブ」が発売されます。高性能なうえ、壊れにくく、運転しやすく、値段がはなはだしく安いと来ます。

その翌年には、米国法人の設立やマン島TTレースに初出場を果たします。そして、マン島TTレース史上初となる初出場でのチーム賞を受賞します。

その後の国内外での大きなオートバイレースは、本田技研工業が上位を独占していったことは言うまでもありません。そして、数年後にはマン島TTレースの表彰台を本田技研工業が独占する時代も到来します。

オートバイ一筋で世界企業になったホンダ、別事業に支えられたヤマハとスズキ

この頃、資本力のあるヤマハやスズキも台頭し、後に3強の時代を迎えます。この2社は、明治時代から楽器や自動織機を製造しており、その事業と並行しながらオートバイ製造に乗り出していました。安定した事業からの資金援助もあり、苦境を乗り越えることができました。

丸正自動車製造は、本田宗一郎を見習って、安定収入のあった自動車修理事業をあっさり捨てています。また、その他のオートバイ製造に乗り出した多くの工場でも、同じような傾向が見られます。

当時の多くの経営者は、考え方が単純のように思われますが、現在とは情熱が違っていたのでしょう。

本田技研工業の攻勢で生き残った企業は、別事業の収益があったところばかりです。強者と戦っていくためには、別の収入源も持っておいた方が安全です。

それにしても、戦後の浜松で生まれたオートバイメーカー3社のうち、2020年の世界シェア・ランキング1位がホンダ、2位がヤマハ、8位がスズキという実績からも、考えさせられるものがあります。なお、カワサキは9位です。

1959年(昭和34年)、丸正自動車製造は起死回生をかけて、ライラック・モペットを発表。これが大手メーカーの目に留まり、ライラック・モペットのOEM契約を持ち掛けます。伊藤正は、販売力の弱さの克服を期待し、大手メーカーに丸正自動車製造が持っていた販売網と権利を3億円で売ります。

大手メーカーは自社が開発していたモペッドの販売不振により、ライラック・モペットに注目したわけですが、その同時期にオート三輪ブームが起こり、翌年の1960年(昭和35年)は国内でオート三輪の生産台数のピークに達しました。

低価格のモペッドを販売するよりも、単価が高くブームも来ているオート三輪を販売した方が売上高につながりやすいため、大手メーカーの経営陣らはOEM契約をした当初からオートバイ部門の縮小・撤退を決定していました。

そうとも知らず伊藤正は、大手メーカーとのOEM契約に基づいて、モペッドなどの量産を開始。資金繰り悪化の解消を夢見ますが、積極的に販売する気のない大手メーカーはオートバイを返品し、在庫の山を築いてしまいます。

在庫のオートバイを売ろうにも、販売網を失っていたため売れませんでしたし、提携解消後に新たに販売網を築くための時間と余力はありませんでした。

池田内閣が所得倍増計画を打ち出しており、多くの企業では、それに合わせた長期計画を策定することが行われました。ところが、丸正自動車製造では先行きが暗く、長期計画を立てようにも無理な話です。

スズキとの提携を再度模索しますが、その頃はスズキも経営不振だったため、提携は実りませんでした。

この頃は、労働運動が盛んに行われていた時代でした。翌年の1961年(昭和36年)、丸正自動車製造では1月に労組が結成され、10月に労使間で労働争議を開始しますが、その2日後にあえなく倒産します。11月に組合側が東京本社に訪れて再建を求めますが、希望は叶いませんでした。

伊藤正は48歳のときでした。

再起のチャレンジと再倒産

伊藤正は、資金調達を本田宗一郎に相談しますが、このときばかりは断られてしまいます。

しかし、翌年1962年(昭和37年)、本田技研工業の下請けとして部品を発注することを約束してくれ、その鶴の一声によって和議申請が成立します。

そのころの本田技研工業と言えば、アメリカ進出で大成功し、マン島TTレースの2クラスで1位~5位を独占し、4輪自動車を発表し、鈴鹿サーキットを完成させるといった、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していました。その本田技研工業と取引をするということは、債権者にとって補償が担保されたようなものです。

またも本田宗一郎に助けられた伊藤正ですが、本田技研工業の下請けを続けるさなか、本田技研工業の米国進出での成功を見て、密かに米国向けの新車の開発を始めるのです。米国進出のときに「ホンダがアメリカで売れるなら、丸正にできないはずはない」と述べますが、これは夢というよりは嫉妬でしょう。

伊藤正はこのとき49歳ですので、引退するのにはまだ早い年齢です。

同年、第9回全日本自動車ショーにて米国向けのオートバイを発表。1963年(昭和38年)に生産開始をします。

1964年(昭和39年)、社名を株式会社ライラックに変更し、米国向けにライラック号を輸出します。

ところが、「オートバイを製造できる資金があるなら、借金を返してくれ」という債権者からの度重なる督促と、米国向けの輸出を任せた仲介人の外交官の高額なマージンの要求、銀行もお金を貸してくれないという状況に屈し、1966年(昭和41年)に全事業を閉鎖します。

またしても、販売網で苦労するという失態です。

このときばかりは、さすがの本田宗一郎も手助けしませんでした。

その後、伊藤正(53歳)は再びオートバイの夢を追いかけることを一切断ち切るため、すべての機械を売り払い、図面や資料を焼却したと伝えられています。そのときに焼却できなかったのが、アート商会時代に撮影された、本田宗一郎を中央にした1枚の集合写真でした。

後の伊藤正は、創業時の工場跡地に駐車場とライラック荘という名称の旅館を建て、旅館を18年ほど運営されます。後にアパートに変更して、そのオーナーとして生涯を終えます。現在、その跡地には、今はライラック・ガーデンという名称のマンションがあり、オートバイ製造の面影すらありません。

1992年(平成4年)、本田宗一郎が亡くなった翌年のこと、伊藤正は都市開発で取り壊される予定のアート商会浜松支店の工場を訪れます。

この場所は、アート商会浜松支店発祥の地から徒歩3分ほど、ライラック荘から12分ほどのところにあります。おそらく大戦前後に移転したのでしょう。

工場内のホコリをかぶった棚には、湯たんぽが残されていました。それを眺める伊藤正の目には、オヤジに負けまいとする執着はもうありませんでした。

丸正自動車製造が倒産した根本原因は?

丸正自動車製造と本田技研工業の差は、大きなものがあります。片や倒産し、片や世界一のオートバイメーカーに急成長します。

上記のエピソードからは、いくつかの教訓を読み取られた方もいらっしゃることでしょう。

丸正自動車製造が倒産した理由には、たくさんのパラメータや条件が考えられますが、間違いを恐れず、私が考える、いくつかの倒産の根本原因を述べたいと思います。

いいものができても販売ができなければ売れない

倒産の根本原因の一つ目として、販売を挙げました。

世界にもあまり類を見ないシャフトドライブを採用したライラック号。すばらしい製品を出したとしても、販売ができなければ消費者の手に渡ることはありません。

本田技研工業では、販売方法を試行錯誤しながら、独自に販売網を築いていきます。丸正自動車製造は、本田技研工業の販売方法を研究しますが、最後は他社に販売を依存して失敗します。

生殺与奪権のすべてを他社に依存した経営は、危険極まりありません。せいぜい売上高の1/3が限度です。

会社が存続するためには、良い商品を開発することは大切ですが、それと同時に売上予算を実現するための販売の仕組みが必要です。

弱者が強者の兵法を採用

丸正自動車製造は、本田技研工業のオートバイのデザイン、製造方法、宣伝方法など、さまざまなものを模倣していきます。本田技研工業が小企業のうちは、それで良かったのです。

本田技研工業からカブF型が発売された1952年(昭和27年)以降は、丸正自動車製造からすると、本田技研工業はかなりの強者と言えるほどの規模になっていました。その強者の会社経営方法や、販売方法などを、引き続き模倣していきます。

模倣はとても良いことだと思います。しかし、派手な広告宣伝を行ったり、営業部門が芸者を呼んでの宴会をしたりしていたことなどから、「本田技研工業の筋肉質の経営」という本質のところまで模倣ができていなかったようです。

その結果、弱者が強者の兵法の本質を理解せずに模倣して、大幅なムリ・ムダ・ムラを生みます。それにより、設備投資をしたり、オートバイの価格を値下げしたりすることができませんでした。

自社が強者か弱者かを見極め、それに見合った経営戦略を立てる必要があります。

放漫経営の丸正自動車製造と堅実経営の本田技研工業

本田技研工業には、本田宗一郎だけでなく藤沢武夫がいました。藤沢武夫は生産部門だけでなく間接部門にも徹底した合理化を図ります。倒産の危機に遭い、より堅実さを増した藤沢武夫は、営業部門で勝手に芸者を呼んでの宴会など、許されたものではありませんでした。従業員の机の上が片付いていないだけでも、激しく指導したとも伝えられています。

伊藤正は、社員のムダ遣いに対して「これではいけない」と思いつつも、温和な性格から、社員に厳しく指導することができなかったように思われます。

広告宣伝費や社員などのムダに消費したお金がライラック号の価格に上乗せされ、高品質で廉価なバイクを求めるようになった市場の変化に追従ができませんでした。

営業の見通しの甘さや、社長として社員を指導できなかったことなどで、伊藤正は放漫経営だったと言われても仕方がありません。

会社の存続のためには、特に現在の新型コロナによる不況時には、顧客ニーズをつかみ取った高付加価値の創造と、より一層のムダを排除し財務体質の強化が大切になります。

我が社にも藤沢武夫がいたら

丸正自動車製造には、優秀な技術スタッフが揃っていました。伊藤正は、後に「私の会社にも藤沢さんが欲しかったねぇ。そしたら倒産せずに済んでいたかもしれない」と述べています。

確かに、伊藤正のボトルネックを補ってくれる優秀なナンバー2が経営に参画してくれていたら、倒産が免れただけでなく、会社が世界企業にまで成長できた可能性もあります。

本当に優秀な参謀は、夢に集まるものです。片や世界一のオートバイメーカーを目指す本田技研工業、片や本田技研工業を目指す丸正自動車製造。優秀な人材は、本田技研工業に集まることでしょう。

自分の強みと弱みを知り、理想のナンバー2がどのような人物なのかを明確にすることで、そういった人物を見抜くことができるようになりますが、トップが魅力的な目標を掲げなければ、そのような人物は現れにくいものです。

また、トップは参謀からの諫言を素直に聞けるかどうかが問われます。もし、参謀からの諫言を素直に聞けない場合は参謀が離れていき、トップの周りはYesマンだらけになり、末期を迎えます。

渋沢栄一が「論語と算盤」と述べられたように、経営には人間学と採算学の両方を勉強することが大切です。この2つは、いくら勉強しても勉強のやり過ぎはないのです。

結局は経営理念の差

本田技研工業では、1956年(昭和31年)に「社是」と「わが社の運営方針」として、経営理念が発表されます。また、毎月の社内報を通じて、トップが何を考えているのかを従業員に伝えることをしています。

その社是の中には、「わが社は、世界的視野に立ち」と世界を目指していることが明記されています。また、運営方針には会社を運営していく上での経営判断の方針が描かれています。

本田技研工業の当初の経営理念

一方、丸正自動車製造には経営理念はあったかもしれませんが、私の調査では発見できませんでした。

経営理念を作成していない会社の従業員数は、通常であれば30人ぐらいまでが限界です。経営理念を作成し、浸透させることで、30人の壁を突破することができます。

会社が大きくなるためには、組織戦で戦ってスケールメリットが出なければなりません。また、30人以上の社員に給料を払うためのヒット商品を出す必要があります。

従業員数が30人まででしたら、社長の目の届く範囲内ですので、社長の考えが伝わります。もともと会社の創業期に集った人は、家族だったり、知り合いだったりと、気持ちの伝わりやすい人が多いはずです。

30人を超えてくると、一般採用の人が増えていくため、経営理念を浸透させるなどして、社長の目の届かないところでも、質の高い仕事をしてもらうように育成する必要があります。

今までアットホームな会社の雰囲気だったものを、会社の成長に合わせてイノベーションさせていき、従業員数が500人を超えたときには、ガバナンスが完全に別のものになっている必要がありました。

そのためにも、従業員数が30人を超えたあたりで社長の考えを経営理念などに昇華し、明文化して従業員に浸透させ、従業員全員が高いレベルの仕事ができるようにすることが大切です。

2社を比較して見えてくる正しい経営理念とは?

丸正自動車製造が倒産した理由と、本田技研工業が躍進した理由から、正しい経営理念がどのようなもので構成されているのか、またどのような文章を記載すべきかを読み解くことができます。

魅力的な目標

1つ目に魅力的な目標です。本田技研工業は販売台数だけでなく、パワーや品質、価格、アフターフォローなどで、世界一のオートバイメーカーを目指しました。そして、「エンジンで便利な世の中をつくり、世界中の人々を幸福にしたい」という崇高な想いを抱き、その実現に本気で取り組んでいました。

伊藤正がオートバイ製造で目標としたものは、「本田宗一郎に負けないこと」でした。

本田技研工業の経営理念からは、どのような人にどのように貢献するのか、また魅力的な大きな目標が見て取れます。魅力的な目標とトップの人間的な魅力によって、優秀な経営参謀が集まり、人材が育っていくのです。

伊藤正は、アート商会から独立・起業したときの目標は、「まずは浜松一の自動車修理屋」を目指します。それが見えてきたら次に「静岡一の自動車修理屋」を目指します。丸正自動車製造を設立したときの目標は、「本田に負けるな」です。

それに比べ、アート商会時代の本田宗一郎は、最初から日本一の自動車屋を目指していました。本田技術研究所が設立されたとき、本田宗一郎は本気で世界一のオートバイメーカーを目指し、日本の技術力向上に貢献することを誓いました。

このコラムの読者様は、どちらが魅力的な会社か、一目瞭然のことでしょう。

だれでも経営判断ができる経営方針(社是)

さまざまな経営判断をするときに、伊藤正は情や妥協によって経営判断している場面があります。特に、厳しい局面で情や妥協で経営判断をして、悪い方へと行っているように思えます。

経営理念には、経営幹部が合理的に経営判断ができるように、成功哲学なども盛り込まれた経営方針が必要だと言えます。

本田技研工業の当時の社是には、「顧客の要請に応えて、性能の優れた、廉價(廉価)な製品を生産する」とあります。自社都合で価格を高く設定するのではなく、顧客のために高性能で廉価なオートバイを製造することを述べています。そのためには、徹底した合理化が必要になります。

もし、丸正自動車製造の経営方針の中に、「ムリ・ムダ・ムラを無くし、合理化に努めよ」といった一文が入っており、経営理念を浸透させていたら、営業マンが経費を無駄遣いしたときに経営理念に基づいて戒めることができたことでしょう。

ちなみに、現在の本田技研工業の経営理念はこちらです。当時の社是や運営方針から進化しており、人間が地球上で幸福に生きるための哲学にまで昇華しています。

質の高い仕事をし続けるための行動指針(社訓)

本田技研工業では、行動指針は創ってはいませんでしたが、行動指針になりうるものを社内報で発表しています。本田宗一郎の記事には、「三つの喜び」や「120%の良品」などがあります。藤沢武夫の記事には、「松明は自分の手で」と行動指針に関することを述べていますし、「万物流転の法則」と称して組織論について述べています。

これらの行動指針は後の経営陣にも受け継がれ、本田宗一郎や藤沢武夫が引退した後も、本田技研工業は世界のホンダとしてさらに成長していきました。

伊藤正は、幸いにも本田宗一郎から指導されたため、丸正自動車製造の技術陣の育成には成功していたと思われます。高性能なオートバイを開発し続けられてたことが、その理由です。

しかし、大きな市場に参入して会社が大きくなると、小さな会社でのやり方の延長ではうまくいきません。

伊藤正には、藤沢武夫のような会社組織全体や財務、市場の状態などを正しくつかみ、トップの弱点を補ってくれる参謀がいなかったため、バランスの取れた組織づくりができなかったと言えます。

バランスの取れた経営ができてこそ、会社が大きくなっても質の高い仕事をし続けるための行動指針ができると思います。つまり、トップや参謀の成長、会社の規模などに合わせて、行動指針を進化させていく必要があると言えます。

以上のことをまとめると、魅力のある目標経営陣の正しい判断基準となる経営方針、技術だけに片よらないバランスの取れた行動指針が、正しい経営理念として構成されている必要があるのではないかと考えられます。

以上、丸正自動車製造の伊藤正に関する、あまり文献になっていない情報をまとめ、本田技研工業の本田宗一郎を比較して、倒産理由を探りました。また、2社を比較して正しい経営理念とはどのようなものなのかを検討しました。

あなたの会社の経営理念は正しいものでしょうか?

もし、自社の経営理念が「正しい経営理念なのだろうか?」と疑問に思われたり、「足りないものがある」と思われたりしたのであれば、このコラムを振り返ってお考えください。

また、ご自身で作成された経営理念が正しいものかどうかの判断に迷われたら、当社の経営理念コンサルタントにぜひご相談ください。

大戦後の浜松の混乱は、新型コロナでの不況とは比べものにならないぐらい悲惨なものだったと思われます。その中で魂を高揚させ、オートバイ開発を果敢に挑戦した男たちの歴史をだとっていると、私にも事業に取り組むエネルギーがみなぎりました。

ある意味で不運で悔しい思いをされた伊藤正氏でしたが、死して現在を生きる私たちにたくさんの学びや教訓を与えてくださっています。最後に、伊藤正氏に心から感謝いたします。

経営理念コンサルティング
平野亮庵

チームコンサルティングIngIng 代表
Web集客コンサルタント

平野 亮庵 Hirano Ryoan

Web集客だけでなく、新商品開発やブランディングの支援など、クライアント企業が競合企業に勝つためのコンサルティングを提供しています。チームコンサルティングIngIngでは、各コンサルタントが持つ技術や理論の体系化やサービス開発を担当しています。


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