
一代で大きくなった会社の社長のエピソードを調べていると、必ず社長が社員にムチャ振りがあります。
社員はそのムチャ振りに対して、反発はするものの、社長に押されて取り組み、涙を流し、「絶対無理なこと」を実現させています。
その社長が、自分自身にムチャ振りをして成功していったことを、社員にも経験して乗り越えて行ってもらいたいと考えます。ですので、社長は社員にムチャ振りをします。
このムチャ振りを乗り越えて実績を出した社員が、大企業に成長した会社を支える一流の経営者に育っていきます。
誰かが実現したものを真似して実現させることは簡単です。売れているものを、自社でも取り扱うことは簡単です。人まねをしないで、その「初めて実現できた」「初めて売れた」というものを初めて成し遂げた人は、パイオニアです。そういった新しい価値を生み出す人、産業を起こせる人が、日本の経済発展のために不可欠です。
私が尊敬する経営者のお一人、本田宗一郎を例として、他の人が「絶対無理だ」と考えてチャレンジを避けたことと本田宗一郎がチャレンジしたことを比較して解説いたします。
本田宗一郎に見る「絶対無理だ」を乗り越えたエピソード
本田宗一郎先生は、「絶対無理だ」と言われると燃えるタイプだったようです。しかし、藤沢武夫先生が合流してからは、本田宗一郎先生のやる気を引き出すことをしていたようです。
パワーの出る4サイクルエンジンの開発
本田技研工業では、ドリームD型までは2サイクルエンジンでした。2サイクルエンジンは、構造が簡単で壊れにくく、パワーを出しやすいという性質があります。
本田宗一郎が社員と力を合わせてドリームD型を開発したのは、1949年でした。その頃は、戦後で物資が不足し、ガソリンも手に入れにくい中で、戦後復興のための荷物を運ぶ需要もあり、小型オートバイが売れました。そういったこともあり、ドリームD型は飛ぶように売れました。
ところが、1951年になると、顧客が求める価値に変化がありました。それは、パワーは出るけれども音がうるさい2サイクルエンジンよりも、音が静かな4サイクルエンジンの方が売れるようになっていったのです。
マーケッターである藤沢武夫は、その変化を見抜き、すぐさま本田宗一郎に4サイクルエンジンの開発を依頼します。ところが、本田宗一郎はそれを拒否します。
藤沢「本田さん、今のお客様は音のうるさいエンジンよりも、音がポンポンポンと静かなものを求めている。音がポンポンポンというエンジンを作ってもらえないだろうか?」
本田「おまえさんはエンジンのことなど知らないだろうけれども、そのエンジンはパワーが出ないからダメなんだ。しかも、そんなにホイホイと新しいエンジンなんて作れなんだよ!」
藤沢「いや、でもその困難な開発を、あんたならホイホイとやってのける。私は、パワーの出るエンジンを作ってくれると信じていますよ。いや、これはあんたにしか出来ないんですよ!」
本田「・・・、わかった」
技術について自信のあった本田宗一郎でしたが、会社の売り上げ不振には勝てなかったようです。藤沢武夫のうまい誘導もありましたが、他人の言葉を信じたことは、自分のプライドを捨てたことも意味します。
その直後に、東京工場から浜松にあった野口工場に電話し、すぐさま河島喜好先生を呼び寄せ、パワーの出る4サイクルエンジンの設計に取りかかります。河島喜好は、本田宗一郎の気迫から「これは緊急性が高い」と察し、夜行列車ではなく特急に乗って駆け付けました
当時、4サイクルエンジンはサイドバルブ方式(SV)が主流だったのですが、これだと燃焼室が広くなってしまい、燃焼効率が悪いためにパワーが出ませんでした。オートバイを荷物運びで利用する時代でしたから、やはりパワーが求められていました。
また、パワーの出やすいオーバーヘッド型(OHV)は機構が複雑なので、部品点数が多くなり量産が難しくなります。小型オートバイ用ですから、エンジンも小型ですので、部品も小型になります。ですので、本田宗一郎が言うように、「ホイホイ」とできるものではないのです。
しかも、同じ大きさでも日本一パワーの出るオートバイ用の小型4サイクルエンジンにチャレンジします。
本田宗一郎は、アート商会の時代にたくさんのエンジンを修理してきた経験がありますが、自分で4サイクルエンジンを設計した経験はありませんでした。どうやって設計をしたのでしょうか?
それは、当時本田宗一郎が乗っていた自動車(おそらく、イギリスMGのYタイプ)のオーバーヘッドバルブ型(OHV)の4サイクルエンジンを参考にしました。ここで面白いことに、本田宗一郎は弟子や社員たちに、「人マネはするな」と言い続けていたのですが、マネをしているようにも思います。そこで、製造やメンテナンスのしやすさ、耐久性の高さなど、本田宗一郎オリジナルのアイデアがふんだんに盛り込まれました。
本田宗一郎は寝ても覚めてもエンジンのことを考え続けました。あるとき、本田宗一郎が寝ている間に新しいエンジンの構造を考えていたら、夜鳴きそばが自宅の前を通りました。その音が思考の邪魔になり、「そばを全部購入して追い返した」というエピソードは有名です。それほど気迫の取り組みでした。
河島喜好を呼び寄せてから2ヶ月ほどで図面が完成。その後改良を重ね、構想から4ヶ月後にできた3台目の試作エンジンで箱根越えを達成しました。
箱根峠を超えられる4サイクルの国産エンジンは珍しく、この快挙によって、パワーが出て安定して走行ができ、耐久性が高いという実証になりました。このエンジンをE型と名付けられ、これを搭載したドリームE型が、当時日本で最も売れたオートバイになりました。
ここから本田技研工業の躍進が始まり、日本一の売上高のオートバイメーカーに成長していきます。
ここで伊藤機関工業という会社をご紹介したいと思います。伊藤機関工業は、1950年代に実在したオートバイメーカーの1社です。社長は、伊藤仁一氏です。
伊藤仁一は、三菱航空名古屋機械製作所で戦闘機を製造していた優秀な技術者でした。戦後に名古屋で本田宗一郎と同様に、軍用のエンジンを仕入れて自転車に取り付けて売っていました。
伊藤仁一は、「エンジンの開発は技術力と資金が必要なので、自社はアッセンブリメーカーとなり、部品は外注する」という経営方針を出します。エンジンは、自分で図面を描き、当時オートバイで名をはせていたトーハツやみづほ自動車製作所に依頼します。当時は、オートバイレースに出場して優勝することで、性能の高いオートバイであることが実証され、人気が出ていました。
伊藤仁一のその経営方針によって、エンジンの性能を高められず、レースで惨敗していきました。さらには、本田技研工業の値下げ交戦やスーパーカブの出現、伊勢湾台風による工場の操業停止などで売上は激減し、1962年に日産系列に吸収合併されて消滅しました。
本田宗一郎の「何としても高性能なエンジンを開発する」というスタンスと、伊藤仁一の「難しいものは外注したら良い」というスタンスがぶつかりましたが、運/不運もあり本田宗一郎に軍配が上がりました。
マン島TTレースの出場宣言、そして優勝
1954年は、本田技研工業にとってもっとも辛い時期でした。日本一のオートバイメーカーになったものの、既存オートバイのエンジンの不調や新車種の販売不振などで売上が前年比で20%ほど下がり、在庫の山をかかえ、資金繰りが悪化して倒産寸前でした。
マン島TTレースの出場宣言は、そういったときに打ち出されました。
そのときのドリーム号に搭載されたエンジンパワーは、マン島TTレース出場チームのエンジンと比べて、実に1/3ほどだったのです。つまり、マン島TTレースに出場するためには、エンジンパワーを3倍に高めないといけなかったのです。
さすがの本田宗一郎も、その現実をしったときに、「とんでもない宣言をしてしまった。本当に大丈夫だろうか?」と弱気になったそうです。すでに、マン島TTレース出場宣言は、さまざまなところに発表してしまっていました。
誰からも、「それは絶対に無理だ」と言われたようですし、社員ですら「社長がまた変なことを言いだした。さすがに無理ではないか」と思っていたようです。
しかし、藤沢武夫は「本田さんなら必ずやってくれる」と信じていました。そして倒産の危機を乗り切り、マン島TTレースのための資金づくりに奔走します。本田宗一郎と藤沢武夫は、二人して徹底的な合理化を行うのです。徹底的という言葉は、生やさしいものかもしれません。
藤沢武夫の手腕で難局を乗り切り、会社の財務状況を改善させ、生産体制を整え、価格戦略を打ち出して世界一の売上高に近づいたところで、スーパーカブの開発です。藤沢武夫は、波状攻撃でさまざまな手を次々と打ち出し、マン島TTレース用のレーサー開発やドライバー育成などの資金を用意しました。
宣言から5年後の1959年に初出場し、チーム賞受賞。さらには、その2年後の1961年に初優勝をしました。誰しも無理だと思っていたマン島TTレースに、宣言からたった5年後に出場を果たし、その2年後には初優勝です。
しかもその優勝は、4クラス中2クラスに出場し、その2クラスで1位から5位までをホンダ車で独占するという、前代未聞の快挙だったのです。
マン島TTレースの出場さえ、誰からも絶対に無理だと言われたのですが、本田技研工業の社員が一丸となって取り組んだ結果でした。
ホンダが先陣を切った後のマン島TTレースでは、スズキが出場し、ヤマハが出場しという具合に、次々と日本勢が参戦していきました。そして、日本車に乗らないと優勝ができない時代を築いたのです。
当時、マン島TTレースに出場していた50ccのオートバイのエンジンのパワーは、1947年に本田宗一郎が初めて開発した50ccのエンジンと比較すると、20倍以上のパワーが出ていたのですから、15年ほどで凄まじい早さで日本の工業力が上がっていったことを意味します。
本田宗一郎は、さまざまな不可能を可能とし、日本の工業力が高まるための先駆者として、業界をけん引し、オートバイ産業を起こしました。
本田技研工業が倒産の危機に喘いでいた頃、躍進していたのが丸正自動車製造というオートバイメーカーです。社長の伊藤正氏は、本田宗一郎がアート商会を経営していたときのお弟子さんで、スパナで何度も頭を殴られて、10円ハゲができていたほど、技術を叩き込まれた一流の技術者でした。
当時、丸正自動車製造はライラック号というシャフトドライブ方式のオートバイで浅間火山レースに出場します。そして優勝候補だった本田技研工業を差し置いて優勝し、勢いに乗ってしまいました。その勢いとは、部品メーカーからの接待三昧の堕落でした。
部品メーカーから「伊藤さん、我が社から部品を仕入れてください」という接待を受けたら、その接待の代金は、どこに請求されるのでしょうか?
もちろん部品代に上乗せです。
シャフトドライブ方式は、機構が複雑で部品点数が多いため、オートバイの値下げがしにくい構造です。さらには、接待の欲に負けてしまい、部品代も高いと来ました。するとオートバイが次第に売れなくなるわけですから、レースの資金も捻出できなくなります。
1957年の本田技研工業の値下げ交戦に負けて、赤字や粉飾決算が露呈されてしまい、倒産してしまいました。この差は、欲の有無というよりも、志の高さだったかもしれません。
接待など許されない本田技研工業の徹底した生産性向上と、社長が接待三昧の丸正自動車製造。もし、本田宗一郎を真似していた伊藤正が、自省して「当社もマン島TTレース出場を目指す」と本気で宣言していたらどうなっていたのか?
人は欲に弱いものです。当時は接待されることは当たり前のことでしたし、業界によっては接待が当たり前のところもあります。しかし、自社の業界内に、社長のムチャ振りで徹底的に効率化している企業が出現したら、弱小企業であっても要注意なのです。
社長のムチャ振りに大義はあるのか?
松下幸之助先生や稲盛和夫先生のムチャ振りも調べていると、社長のムチャ振りには根拠というか、大義があります。その大義で共通することは、「自社が生き残るため」というものです。本田宗一郎のムチャ振りも、「自社が生き残るため」というものでした。
先ほど、みづほ自動車製作所という名前を出しましたが、その社長は内藤正一氏です。
内藤正一のムチャ振りは、「大型オートバイをワンランク下のオートバイの価格で販売し、大型オートバイが世の中に普及するようにする」というものでした。内藤正一は、戦後の復興の時代でも、「大型でないとオートバイではない」と言わんばかりに、大型オートバイの製造にこだわったのです。
とkろが、需要は小型でパワーの出る安いオートバイでしたから、大型オートバイが飛ぶように売れるはずがありません。
そこで内藤正一は、オートバイ価格を下げて大型車に需要が向くように考え、無謀な価格に設定したのです。そのため、部品メーカーや社員たちに圧力がかかり、みずほ自動車製作所のオートバイは「安かろう悪かろう」の代名詞となり、売り上げが激減してしまいました。
小型オートバイの製造に着手したときには、時すでに遅しで、伊勢湾台風の影響もあり倒産しました。
それに対して本田技研工業が行った値下げ交戦はどうだったのでしょうか?この値下げもムチャだったのでしょうか?
そうではありません。
本田技研工業では入念な生産性向上、価格調査、競合他社の体力分析、社内調整などを行い、公定歩合引き上げのタイミングを見計らって価格を下げたのです。まさしく、藤沢武夫の決定的な一手を打ちました。
その結果、一時期本田技研工業の国内オートバイシェアは、80%まで達したそうです。このシェアの高さに、さすがの藤沢武夫も危機感を抱いたそうです。ここで危機感を抱くのは、さすが藤沢武夫先生です。
そのときの本田技研工業の大義は何だったのか?
それは、経営理念の実現です。世界一高性能なオートバイを世界位置の安さで提供する。それを実現できなければ、いずれ実施されるオートバイの貿易の自由化が始まれば、世界の高性能で安価なオートバイが日本を席巻し、本田技研工業をはじめ、日本中のオートバイメーカーが倒産していくはずです。それに対抗し、自社が生き残ることを前提とした施策でした。
みづほ自動車製作所の「市場の流れを変えたい」という大義と、本田技研工業の「自社が生き残るため」という大義の激突。表面的には同じことをしたわけですが、本田技研工業ではそれを実現するために危機感から来る入念な準備があったわけです。
才覚溢れる社長が出てきたらどうしたらいいのか?
本田宗一郎や藤沢武夫のような才覚溢れる社長がたくさん輩出され出世する国は、とても豊かになります。そして、本田宗一郎のような才覚溢れる社長は、実は世の中にたくさんいると思います。
しかし、多くの人は名も知られずにうもれていきます。
才覚溢れる社長の能力を伸ばし、活かして、多くの人に貢献するためには、私達が何をしたらいいのでしょうか?
才覚溢れる人が出てきたら、自由にさせてあげることです。家族が理解してあげることはもちろんのこと、その人物を善導してあげられるようなメンターの出現も大切です。
才覚溢れる人は、他人から理解されないことが多いので、さまざまな圧力がかかることが多いのです。そして敵をつくりやすい性質もあります。才覚のある人の中で熱意の高い人は、さまざまな圧力や規制があってもそれを乗り越えようとします。ところが、世の中には、封殺されてしまう人も見受けられます。
封殺したいという気持ちもわかります。「天才と馬鹿は紙一重」と言われるように変人に見えてしまうことがあります。本当に変人もいます。本田宗一郎も実績が出ていなければ、変人扱いだったことでしょう。
豊田佐吉先生然り、スティーブ・ジョブス先生然り、イーロン・マスク氏然り、常識にとらわれない暴れ馬のような人物が新しい価値を生み出し、業界や産業を発展させるのですが、なかなか理解されないところがあります。多数決からいくと、そういった才覚のある人は少数派ですから、封殺されることもあります。
最近では、「少数派を尊重しましょう」という意見も多いのですが、新しい価値を生み出し、たくさんのお金を得た人は、小数派として尊重されないような傾向もあります。
「変人ではなく、真っ当な人になってもらいたい」と考える人もいますが、自由にさせておいた方が世のため人のために良いものを開発してくれます。素晴らしい才覚のある人には、「素晴らしい人だ」と言える社会を目指したいものです。
才覚溢れる小さな会社の社長はどうしたらいいのか?
小さな会社の社長は、自分の才覚を信じて起業したのですが、なかなか認められなくて苦労なさっていることでしょう。そういった、地団駄を踏んでいる小さな会社の社長はどうしたらいいのでしょうか?
「才覚溢れる小さな会社の社長はどうしたらいいのか?」ということですが、世間の目は厳しいので、短期間で花火のように成果を出す方法はありません。能力や実績も大事ですが、もっと基本的なことを述べたいと思います。
とにかく行動し続け、1日1歩の進化を目指す
小さな会社の社長で、才覚があるのに成長していない社長は、「同じことの毎日を繰り返している」という傾向があります。それはある意味での志の低さを物語っています。
高い志のある方は、とにかく行動します。行動が早いのです。そして、その行動を出来るまで止めません。そして、毎日毎日「今日も何か進歩があったか?」を自問自答して確認します。
「私の辞書には『不可能』という文字は無い」とナポレオン・ボナパルト先生は述べましたが、「どうやったら出来るのか?」ということを考えています。「絶対にできない」という言葉ではなく、「絶対に出来る方法があるはずだ」と考えるのです。
何をしたらいいのか判らなくても、「何かできるはずだ」と、とにかく行動するのです。
「絶対無理だ」とか「出来ない」という言い訳は、市場には通じません。何があっても行動し続ける健気さに感動し、支える人が出てきます。他人の手助けを得て、誰もが無理だということを実現してみせ、新しい価値を生み出した企業だけが伸びるのです。
本田宗一郎がピストンリングの製造方法を発明したときは、研究開始から販売ができる製品ができるまで約3年という期間を要しました。その3年間は、明けても暮れてもピストンリングのことばかりで、さち夫人は生活費で苦労したようです。
本田宗一郎は、浜松高等工業専門学校(現静岡大学工学部)や製鉄所、南部鉄瓶の製造所などさまざまな場所に武者修行に行って、鋳造について学びました。
一流の人は一流の人に会いに行くことも、何らか1歩を進める行動だと思います。一流の人に会いに行くことは、横内祐一郎先生のご著書も参考になります。
心を磨く
「なぜ自分の技術が認められないのか?」と思っている社長は、自分が認められたいという気持ちが強いと言えます。そのような気持ちがあると、逆に認められないものなのです。それはプライドとも言えます。
「自分は才覚がある」とプライドを持てるくらいになることは、とても大変な努力が伴うと思います。しかし、そのプライドが成長を止めてしまうのです。
自分の欲を抑え、「自分の才覚は、自分が認められるためにあるのではなく、天から授かったものである。この才覚を活かして、世のため人のために貢献したい」と考えることができ、プライドを捨てることができたら、そのときに自分を支えてくれるナンバー2が現れてくるものです。
これを、「類は友を呼ぶ」です。
自分に欲があるうちに出会ったナンバー2は、欲のある人か、もしくは社長の欲を見抜いて去っていくかのどちらかです。
そこで社長が反省をして、次なるステージに上がり、本来の仕事に取り掛かるのです。
本田宗一郎は、数々の失敗をしてきました。その失敗を反省して、自ら会社を去っているときが3回あります。
- アート商会の退社
- 東海精機重工業の退社
- 本田技研工業の退社
私は、この3回はどれも本田宗一郎の人生における失敗のときだと考えます。そして、その失敗を反省して次のステージに上がっているのです。
まず、アート商会の退社では、今までは欲だけのために生きてきた節がありますが、それを反省して、ピストンリングの開発に打ち込みます。世のため人のために生きることを誓い、東海精機重工業を立ち上げました。
東海精機重工業は、トヨタ自動車の資本が入り、送り込まれた経営陣や石田退三先生から大きな事業をしていくための心構えを学んだものと思います。そして、「この会社では自分の求めていた道では無い」と反省をして退社します。
そして、戦後の生活を立てるために本田技術研究所を立ち上げますが、そのときにエンジン開発に目覚め、天下国家のために生きることを誓います。それが今の本田技研工業の経営理念にも残っています。それが後輩たちに受け継がれ、本田宗一郎の時代の「世界的視野に立ち」という文言が「地球的視野に立ち」というよりグローバルな文言に進化しました。
さて、本田技研工業に改名してからすぐに藤沢武夫と出会い、それまで倒産寸前のボロ町工場だったものが、水を得た魚のように、次々と成長のための策が繰り出されます。藤沢武夫が入社してから4年後に、日本一のオートバイメーカーになりました。
本田素一郎が無理を乗り越えていった例をいくつかお伝えしましたが、どのように無理を乗り越えていったのかをまとめると、次のようになります。
- 「乗り切る方法は必ずあるはずだ」という信念を持つ
- 私欲を小さくし、無理を乗り越えることに思考を集中させる
- どのような妨害があっても諦めないでやり続ける
- 自分を善導してくれるメンターやナンバー2の助言を受け入れる
ごく当たり前のまとめになりましたが、このごく当たり前のことをやり続けることが難しいのだと思います。たいてい他人の助言を受け入れることができることが、壁となります。
難しい理由は、たいていが社長ご自身のプライドのためです。そして、そのプライドを脱ぎ捨てるためには、長い年限つの鍛錬が必要となります。大きな志を持つ社長は、玉ねぎの皮を剥くように、プライドの殻を少しずつ剥がしていくくことで、自己変革を目指してください。
才覚のある人が世に出るための参考になれば幸いです。
この記事の著者

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)
国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら万を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくる独自の戦略系コンサルティングを開発する。