社長の夢実現への道
社長の徳についての考察

社長には徳があった方が良いですし、これを否定する方は少ないはずです。
では、徳のある社長とは、どのようなことが備わっている人のことか、ご一緒に考えていただけたらと思い、このコラムを書くことにしました。
当社の大きな目標の一つとして、徳のある社長をたくさん輩出して、日本を豊かにしたいというものがあります。経営コンサルティング事業では、論理的にクライアント企業を支援することはもちろんのことですが、徳のある社長への成長もご支援できたらと考えている次第です。
このコラムでは、またまだ木鶏たりえない著者が、社長の徳について、過去の偉人が説いたさまざまな文献を引用して、徳の研究の途中経過として、批判を恐れず大胆に述べたいと思います。
徳のない社長とはどういった人か?
徳のある社長はどういった人なのかを考える前に、徳のない社長について考えたいと思います。ネガティブな内容については、考えやすいからです。ごいっしょにお考えいただけたら幸いです。
では、どのような社長が、徳がないと言われそうなのか、いくつかの例と、仏教で伝えられている六大煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)、徳を失ってしまう6つの項目に照らし合わせたいと思います。
- 貪(とん)=むさぼること
- 瞋(じん)=怒りのこと
- 癡(ち)=愚かなこと
- 慢(まん)=慢心のこと
- 疑(ぎ)=疑うこと
- 悪見(あっけん)=何でも悪く見てしまうこと
自己中心的な考えや行動をする社長
すぐは激しく怒る社長も自己中に含まれることかもしれませんが、自己中心的な考えや行動をする社長には徳が無いと言えます。
どういった社長が、自己中心の社長なのでしょうか。いろいろとありますし、ケースバイケースでしょうけれども、あえて述べるとするならば、会社のお金の使い方と、社員の指導方法で、自己中心かどうかが、おおよそわかります。
経費の使い方
会社のお金の使い方では、取引先へのお金の支払い方や、何にどれぐらいの経費を使っているのかです。
会社帰りに飲みに行っているお金を、会社の経費から出している人は、社員のことをあまり考えていないかもしれません。「自分の給料は安くしているから」と言っても、経理担当者は経費の使い方を見ているわけです。
貪の心と部下の指導方法
社員の指導方法で、「とにかく仕事を取ってこい」ばかりの社長は、自己中心的でしょう。どのように仕事を取ってくるべきなのか、方針は何かあるのか、仕事の取り方を実践して見せるなど、いろいろな方法で指導してあげられ、従業員に仕事で成果が出せるように丁寧に導ける社長は、徳があると思います。
自己中心的な考え方や行動は、仏教で六大煩悩の1つ「貪(とん)」に該当すると思われます。
天台宗の開祖、天台智顗(538~598年)大師は、六大煩悩を止める摩訶止観(まかしかん)を提唱しています。「摩訶」は、偉大なという意味だそうです。「止」は六大煩悩を止めること。「観」はそのための智慧だそうです。今現在でも、徳が失われることを止める方法としても、とても参考になります。
山本五十六(1884~1943年)元帥の部下指導の言葉から、徳のある指導方法を学びたいと思います。
やって見せ、説いて聞かせて、やらせてみ、讃(ほ)めてやらねば、人は動かぬ。
「むさぼり」の現代風の意味
「貪」を社長当てはめると、次の3点が代表的な欲だと思います。
- 過度な自己保存欲
- 自分中心の自己実現欲
- 行き過ぎた名誉欲
1つ目のよくある例としては、「社員にとって夢のない会社」「社長だけ給料がべらぼうに高い会社」です。2つ目のよくある例としては、「社員を働かせるための経営理念」です。3つ目は、2つ目とも重なりますが、「名刺を何種類も持っていて自慢する社長」です。
すぐに激しく怒る社長
従業員が、道理に合わないことをして、社長から激怒されることはあります。激怒された本人も、「それなら仕方がない」と思い、反省することでしょう。
しかし、相手が理由や道理もわからないのにすぐに怒ってしまう社長がいます。自分の思い通りにいかなかったり、社員が自分の気持ちを理解してくれなかったり、ちょっとしたことで激しく怒る社長もいます。
怒りの心は、仏教で六大煩悩の1つ「瞋(じん)」と言われるものです。
人前で暴言を吐いてしまう社長
人前で感情的になり暴言を吐く社長も、徳のない社長の代表格です。徳のある社長は、そのようなことはしません。
社長としては、「社員の指導だ」と思っているかもしれませんが、社長の怒りには破壊力があるので、怒られた本人はたまったものではありません。社長に特別な魅力がなければ、能力の高い人は去っていってしまうものです。
取引先などの外部の人に対して怒ってしまう人は、もっての他です。お客様に怒る社長も、限度を超えるようであれば、「徳のない人だな」と感じてしまいます。
すぐに激怒するけど徳のあった本田宗一郎
本田技研工業の創立者、本田宗一郎(1906~1991年)先生は、すぐに激怒することで有名でした。激怒するだけでなく、社員を殴りつけていたぐらいでした。しかし、後の幹部たちは「オヤジに育てられた」と述べ慕っていました。
本田宗一郎が怒るケースは、社員が技術者としての原理原則に外れた考えを示したり、それによってミスをしたりしたときでした。
激怒された社員は、その理由について言われてみれば納得のいくものでしたし、相手を技術者として認め育てようとして激怒し、人格を否定するような発言はしませんでした。
激怒した後は、社員に謝るようなことはしなかったようですが、怒りが後を引くことはなく、雨の後のカラッと晴れた青空のような感じだったようです。「このバカ野郎!」と怒った後にもかかわらず、笑顔で振り返ることもあったそうです。
社長はいつも心穏やかであることが望ましいですが、怒ってしまっても、すぐさま反省して、相手に頭を下げられるぐらいの人が、徳のある人と言えます。
摂受と折伏による部下の指導方法
仏教の用語に、「摂受(しょうじゅ)」と「折伏(しゃくぶく)」というものがあります。この用語を、部下指導に当てはめたなら、次のような意味になります。
- 摂受=愛情を持って、丁寧に導くこと。
- 折伏=一喝して、間違いを正すこと。叱ること。
先ほどご紹介した山本五十六の事例では、摂受に該当します。本田宗一郎の事例では、折伏に該当します。しかし、山本五十六は軍人でしたので叱ることはあったことでしょう。本田宗一郎が、理解の浅い部下に丁寧に説明した逸話も残っています。
徳のある社長は、摂受と折伏をバランスよく駆使しているものと思われます。
形を変えて表れる瞋の心
瞋の心は、単に怒りだけではありません。形を変えて現れることもあります。
例えば、「自社だけ儲かれば、他の企業など蹴落としても良い」といった考えを持っていたり、「競合他社が成長してきたので、撃ち落としてやりたい」といった自社中心だけの考えの場合です。
企業は切磋琢磨によって、世の中により良い商品やサービスを提供して、顧客に選ばれて成長していくものです。「他社を打ち落として自社だけ儲かれば良い」という発想は、貪も含まれていますが、それを実行してしまうことは、瞋に該当します。このように、貪が瞋に進展することもあります。
「世の中を良くしていきたい」という利他の気持ちで事業活動を行い、その結果、競合他社が破れ去っていくのであれば、競合他社の責任ですので、瞋には当たりません。
自慢話の多い社長
社長は、どうしても自慢話が好きです。私自身も自慢話をしたいという衝動に駆られるときがあるので、自制を心がけています。
従業員にとっては、社長の自慢話は初めて聞いたときには、共感や学びがあることでしょう。それが、何度も何度も続いたらどうでしょうか?
従業員にとっては、「また始まった。これで30分は時間を失ってしまった。聞いているふりをしておこう。」という具合です。経営理念の解説は、何度も何度もすべきですが、繰り返される自慢話は従業員にとって迷惑です。
自慢話が多い社長は、慢心していると考えて良いでしょう。慢心も、仏教で六大煩悩の1つにあります。「慢(まん)」と言われるものです。
当の社長からすると、「このような良い話は、何度でも聞かせてあげたい」と、従業員を思いやる気持ちがあるのかもしれませんが、従業員は聞いていませんので、時間のムダですから、自慢話をしたい持ちをグッとこらえてください。
社長が、自慢話したい気持ちをグッとこらえるだけで、徳が発生するとお考えください。
また、自慢話の多い人は、人の話を聞かない傾向があります。それが行き過ぎた場合は、社員からの諫言を受け入れられない場合もあります。
諫言の聞き入れ方について、経営危機の近鉄を優良企業にした中興の祖、佐伯勇から学びたいと思います。佐伯勇の著書「運をつかむ―事業と人生と」には、諫言について次のようにあります。
衣冠束帯を問わず
衣冠束帯とは、衣類や冠、帯の色のことで、その色によって役職が決まっていた時代の話です。この意味は、「そういった役職にとらわれず、会社にとって良いと思ったことがあるなら、それを社長に報告してもらいたい」というスタンスです。人々と古都を結ぶ近鉄らしい言葉です。
社長の徳が失われていく行為は、他にもたくさんあります。どれにも共通することは、「他人への思いやりや配慮が足りない」ということです。言い換えると、「他人の幸福を考えていること」がキーワードになりそうです。
仏教によると要するに、人は六大煩悩を知らずのうちにも、うっかりやってしまうことがあります。六大煩悩を考えてしまうだけでも、ダメだそうです。それを反省して、愛他の想いで事業活動をしたり、慈善活動に取り組んだりすることによって、悪と善の天秤にかけて、善の方を大きくしていきなさい、ということになります。
六大煩悩は、徳の出血部分に当たると思います。「社員がすぐに辞めて困る」という社長は、徳の出血を止めることから始めると良いでしょう。
徳のある社長とはどういった人か?
冒頭にも申しました通り、私自身、「徳のある人物になりたい」と願っていますが、「徳のある人物だ」とは全く思っていません。また、私は哲学者でもありません。ここから書かれている内容には、批判もあることでしょう。
それでも、あえて徳について述べたいと思いますので、ご指導いただけたら幸いです。
徳の定義
そのような私ではありますが、徳のある社長とはどういった社長なのかを定義したいと思います。
自分のこと以上に、他人の幸福を考えている社長
他人とは、自分以外の人のことです。家族のこともあるでしょう。会社の従業員も、元は他人です。その人たちの幸福を、自分のこと以上に考えている人が、徳のある人だと定義しておきたいと思います。
他人の幸福を考える人は、仏教的には「慈悲」ですし、キリスト教的には「愛のある人」ということになります。
もちろん、考えているだけでなく、それが行動に移されなければ、他人は幸福にはなりません。王陽明(1472~1529年)先生が陽明学で述べているところの「知行合一(ちこうごういつ)」が大切です。
知行合一とは、「知っていることと行動することは、本来は同一のものだ」という教えです。知っていても行動していなければ、知らないことと同じことだということです。
なぜ人は「徳が大切だ」と思うのか?
道端にゴミが落ちていたら、イヤだという気持ちが浮かびます。人によっては、ゴミを拾っていく人もいます。道端に花が咲いていたら、美しいと思う心があります。人によっては、その花に水をあげる人もいることでしょう。
なぜ人は、そのような気持ちが勝手に浮かぶのでしょうか。そこには、人間にはそういった性質が備わっているからだと思います。
人は、ときに自分の利害を超えて、また自分の命をも顧みずに、人を助けようとすることがあります。川で子どもが流されて、父親が自分の命を引換に子どもを救ったというニュースを、時々見ます。それが、見ず知らずの人の命を助けるために、命を失った人もいます。
そういった人を、尊い人だと感じる人は多いことでしょう。私たちは、どこから、自分の命を投げうってでも他人の命を助ける行為に、「尊い」という気持ちが浮かんでくるのでしょうか?
命を助けるまで行かなくても、他人を幸福にしたいという気持ちを持っている人は、多いと思います。そこにも人間の性質が関わっていると思います。
その気持ちを、仏教的には「慈悲」、キリスト教的には「愛」と言っています。
社長の愛と徳の関係
愛には、パトス的な愛とアガペー的な愛があるそうです。パトスとは、感情的や熱情的と訳されるようです。アガペーとは、神の愛や自己犠牲の精神と訳されるようです。
パトス的な愛は、どちらかと言えば情愛といった、他人に対して受け身の愛になります。「アガペー的な愛」とは、「智恵が伴って多くの人を導く愛」と言うべき、他人に対して能動的な愛です。
社長は、自分の家族の幸福はもちろんのこと、お客様の幸福や従業員の幸福も考えなくてはいけません。そういった多くの人を幸福にしようとするならば、パトス的な愛では、どうしても経営を成り立たせることができなくなってしまいます。
つまり、社長の徳の性質は、パトス的な愛ではなく、社長にはアガペー的な愛が必要となります。
アガペー的な愛では、マズローの欲求5段階説を超えたものがあります。マズローの欲求5段階は次の5つです。
- 生理的欲求
- 安全欲求
- 社会的欲求
- 承認欲求
- 自己実現欲求
生理的欲求は、食事や睡眠などの、生きていくための基本的な欲求です。これが満たされて、安全欲求が強くなってきます。安全欲求は、命の危険がない生活を求める欲求です。社会的欲求は、孤独を嫌い、何らかの集団に属したいという欲求です。承認欲求は、人から認められたいという欲求です。
最後は、自己実現欲求です。1~4の欲求が満たされて、5番目の自己実現欲求が強くなります。この段階では、まだパトス的な愛ですので、社長自身の欲求がこの段階であれば、徳としては小さいものと思われます。
マズローの欲求5段階説を超えたところのアガペー的な愛の実践において、徳が発生するのではないかと思われます。マズローは、これを6番目の欲求として「自己超越欲求」としました。
社長の徳の成長
昔から「徳を積む」という言葉があるように、徳は貯金のように蓄積していくものだと思われます。徳行をすることで、徳の総量を増やしていくことで、社長は大きな仕事ができるようになっていくものと思われます。
大きな徳のある社長になるためには?
徳がある人だと言われるためには、「勇気のある人だ」とか「智恵のある人だ」とか、さまざまな要素があり、必要条件が満たされて「徳のある人」になります。
また、勇気や智恵にはレベルがあることは明らかです。アガペー的な愛には段階があるはずです。
つまり、徳のある人は、「何らかの敷居を超えたら徳のある人になる」という、スイッチのような必要条件はあるものの、矩形的な要素ではなく、さまざまな要素の総合点で、線形、もしくは非線形に徳が増えて、大きな徳を持つ社長に成長していくものだと考える方が妥当です。
先ほどの徳の定義について、徳の成長を当てはめてみると、次のようになると思います。
事業活動や慈善活動などを通じて、多くの人を幸福にした社長が、大きな徳のある社長
社長の徳の成長
社長は、今現在は多くの社員をかかえている人もいることでしょう。社長お一人で会社を経営されている方もいると思います。
どういった社長にしても、最初は自分一人が生活することで精いっぱいだったことでしょう。もしかしたら、親に経済的な支援してもらっている人もいたかもしれません。
マズローの欲求5段階節の第5段階「自己実現欲求」を満たすところまで行かなければなりません。そのためには、先ほどのアガペー的な愛が必要となると思います。
二宮尊徳の教え
二宮尊徳の教えで、タライに入った水の教えがあります。タライに水を入れ、その水を手でかき寄せたら、水は手の周りから向こう側に移動します。反対に水を向こう側に押し出すと、水は手前に流れてきます。先に与えることで、後から自分が与えられる例えです。
また、先ほど、「多くの人を幸福にした人が徳のある人だ」と述べましたが、ある時期からいきなり多くの人を幸福にすることは難しいと思います。
二宮尊徳の教えで、「積小為大(せきしょういだい)」というものがあります。小さな積み重ねによって、大きなことを成し遂げるという意味です。普段から人の幸福を願って行動している社長が、積小為大で徳が成長していくものと思われます。
自分が利益を得ようとしたら、まずは、事業を通じてお客様や取引先を幸福にしなければなりません。
お客様や取引先は他人です。その他人を幸福にしようと考えているのであれば、そこから、実は徳が始まっているのだと思います。そうすることで、経済的に自立ができて、家族を幸福にできるようになったとします。そうすると、また社長の徳が成長していると考えて良いと思います。
さらには、従業員を雇い、従業員や従業員の家族を幸福にしていくことで、徳が成長していきます。
ここまでは、キリスト教で述べるところの「与える愛」や「隣人愛」でしょう。ここまでが、社長の徳が線形に伸びていく段階だと思います。
また、事業が拡大していくと、今まで社長が会ったことのない従業員が、会ったことのないお客様を、事業を通じて幸福にしていくことがあります。
事業が拡大していったら、社長の徳が隣人愛を超えて、従業員の隣人愛の連鎖によってレバレッジが働き、徳が非線形に成長していく段階に入ると思います。
自己犠牲の精神
社長の仕事は、給料だけを考えていると、一部の徳のない人物を除いて、つくづく割に合わない役職だとお思いのことでしょう。まさしく、社長業は「自己犠牲の精神」という言葉が合うと思います。
自己犠牲の精神は、マズローが述べた6番目の欲求「自己超越欲求」と同じものです。
お客様からは無茶な要望があり、従業員や役員からは難題が降りかかり、取引先はうまく動いてくれないことが、世の常です。会社が倒産したら、すべて社長一人の責任でもあります。
社長自身が「何が楽しくて社長をやっているのか」と悩んでしまうときが、一瞬でもあったはずです。
徳のある社長は、社長を辞めようと一瞬考えたとしても、また聖書にある「涙の谷」を進み続けるようなものです。場合によっては、オスカーワイルドの「幸福な王子」の主人公のようにもなりえます。
しかし、なぜ社長は社長を続けるのでしょうか?
そこに何らかの魅力があるからです。社長をやる魅力の一つに、「可能性」があると思います。
可能性には、お金持ちになる可能性もあることでしょう。何かを生み出す可能性もあります。もう一つ、徳のある人物になれる可能性もあります。
社長であれば、徳のある人物になれる可能性にも、魅力を感じていただきたいと思います。
聖人君子と自己中心を分けるもの
このように、社長の徳行の規模は成長していくものと考えます。徳のある人の中には、徳の段階的な成長を考えずに、いきなり自分の生活を顧みず、他人の幸福のみを考えて、自己犠牲の精神で行動する人がいます。
社長のことで例えると、分不相応に寄付をしてしまったり、会社が傾きかけているのに社業をそっちのけで名誉職に没頭したりすることです。
そういった人は、2種類の評価があり、一人を聖人君子、一人を自己中心だと思います。
この2種類を見分けることは、私のような凡人にはなかなか難しく、おそらくは、多くの人から尊敬されるようになった人が聖人君子と評され、会社が倒産して誰も相手にされなくなってしまった人が自己中心と評されるのだと思います。
聖人君子になれる自信があるのであれば別ですが、自己中心になりそうだとお考えであれば、徳の蓄積は積小為大でお考えください。そのためにも、できれば他人資本に頼らずに、自己資本で自助努力していくことをお考えください。
なぜ徳のある社長を目指すべきなのか?
社長によっては「徳ではメシは食えない」とお考えの方もいることでしょう。ここまで読まれた方には、そういった方はいらっしゃらないと思います。
なぜ徳のある社長を目指すべきなのでしょうか。結論から述べますと、それは「人間の性質という以外にない」と思います。
あえて、徳のご利益的なことを述べるとするならば、「社長の徳に人材が集まる」ということです。このことについて解説をしたいと思います。
社員は社長の徳を見抜く
社員は、社長のことをどれぐらいの期間で見抜くのかを述べている言葉があります。
上、三年にして下を知り、下、三日にして上を知る
社長が従業員のことを3年もかかって知り、従業員は社長のことをたった3日知るという例えです。
なぜか、会社の従業員は、社長の徳を3日とは言わないまでも、短期間で見抜いてしまうようです。しかし、社長は「この社員の性格は・・・」と答えたとしても、まったく見抜けていないことがあります。
このことは私も経験があります。以前、私は以前に2年ほど勤めた会社がありました。そこを辞めてから数年してコンサルティング会社を起業しました。そのときの勤めていた会社の社長に挨拶に行ったところ、「そんな能力があったなんて、知らなかった」と、とても驚かれていました。
このように、社長は部下の能力や考えていることを見抜くことができないと思った方が良いでしょう。反対に、部下からは、社長の徳については、よく理解できるようです。
もし、部下に能力の高い人がいたとして、社長に徳が足りなければ、その人はいずれ会社を辞めていってしまうことが、世の常です。
徳のある社長に人材が集まる
一般に、「波長同通の法則」というものがあります。「類は友を呼ぶ」とも言います。人とのお付き合いでは、おおよそこの法則に合致することが多いです。
極端な話として、善良な心を持った人の中で、極悪な盗賊の友達になりたいという人は、まずいません。波長が合わないからです。反対に、善良な心を持った人の周りには、基本的に波長の合う善良な心を持った人が集まるものです。
この法則は、徳のある社長にも当てはまります。徳のある社長には、徳のある人が集まってくるものなのです。
また、能力のある人材は、社長の徳に引き寄せられてくるものです。社長の徳の総量に応じた人材が、会社に入ってきてくれるようになります。能力のある人は、社長の徳によって能力が発揮できるからです。
ここで、史記の著者、司馬遷(しばせん、前漢の時代)が、同年代に活躍した漢の将軍、李広(りこう)に贈った言葉が思い浮かびます。
桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す
訳としては、「桃やすももが、花や実をつけていたら、自然に人が集まってくるので、自ずと道ができてしまう」というものです。徳がある人物には、自然と人材が集まってくる例えです。李広将軍は、部下からとても慕われて、李広のためなら命を投げうってでも戦う、屈強な兵士が集まっていました。
社長の徳には、そのような力があります。徳の高い社長には自然と人材が集まり、会社が大きな仕事ができるようになっていき、社長の志が達成されます。
巨富を築くための秘訣は対人関係
社長の徳に人材が集まって大きな仕事ができることを考えると、アメリカの鉄鋼王、アンドリュー・カーネギー(1835~1919年)先生が思い浮かびます。アンドリュー・カーネギーは、自身の墓碑銘に次のように刻んだと言われています。
Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.
(彼自身よりも賢い人との付き合い方を知った人物がここにいる)
アンドリュー・カーネギーは、ナポレオン・ヒル(1883~1970年)博士との、成功哲学を学ぶ初めての対話の中で、「成功哲学は人間関係の法則のこと」と冒頭で間接的に述べています。(このことが書かれている書籍は、ナポレオン・ヒル著「巨富を築く人、誰でも活用できるそのテクニック」です。)
徳を磨くことは、能力のある人とレベルの高い人間関係を築くことにも直結することです。徳を磨くことで、アンドリュー・カーネギーのように大富豪にもなることができるかもしれません。
社長の徳の発生源
社長のどういった考えや行動が得を生み出すのか、社長に徳が発生する場面について、考察したいと思います。
気配り
まずは、他人を知り、「何か幸福になってもらえることはないか」と探すといった思いやりの心から、気配りが始まると思います。何か見返りを求めての行為は、気配りとは言えないものです。
どうしたら思いやりの心が生まれるのか。それは、幼少のころから親から学ぶ人もいると思いますが、「自分は誰かのおかげで生かされている」という気づきと、それに対する感謝、報恩から生まれてくるものと思います。
今、このコラムを書いているのはパソコンを使っています。このパソコンは誰かが製造してくださったものです。また、電気がなければ動きません。誰かが電気を製造してくださっているので、パソコンで仕事ができています。
それらは、自分でお金を払って使用しているものですが、パソコンや電気を自分で製造して仕事をしようとなると、膨大な時間と労力がかかります。それを、こんなに安い金額で利用させていただいています。
そのように考えると、あらゆるものは与えられていると考えるのが、妥当だと思います。その与えられているものに気が付いて、深く感謝をする中に、報恩の気持ちが生まれてくるものです。
学徳
徳が含まれる言葉の一つに、学徳があります。学徳とは、学問と徳行を合わせたものと言われています。学問だけでは徳がなく、徳行だけでは物足りない。二つ合わせもって、学徳ということです。
学徳は、日本国内での陽明学の開祖、近江聖人とたたえられた中江藤樹(1608~1648年)先生の言葉とされています。学徳には限りながいものと説いています。
中江藤樹の学徳について、社長向けにごく簡単に述べるとするならば、「もし、社長に徳がないのであれば、勉強不足だ」ということです。それはもちろん、「多くの人を幸福に導きたい」という利他の気持ちからの学徳です。
私自身は、まったくもって勉強不足です。
また、学徳には「人が見ていないところで、何をしているのか?」という内容も、含まれているのではないかと思われます。つまり、従業員が見ているところでは、勉強したり仕事をしたりしていても、従業員が見ていないところでサボっているようであれば、学徳があるとは言えません。
智仁勇
中国の古典、中庸(ちゅうよう)の中で特について述べられているのが、智仁勇(ちじんゆう)です。そこには、「知、仁、勇の三者は天下の達徳(たっとく)なり」とあるそうです。達徳とは、みんなが実践すべき普遍的な徳だという意味です。
智
智とは、「知」と異なります。「知」は知識や情報のレベル、「智」は経験から得られた「智恵」や、さらなる高レベルの「智慧」を意味します。学徳は、「知」のレベルではなく「智」のレベルまで高まったものです。
智の徳によって、正邪の判断を付けられるということです。社長の智によって、会社を正しい方向に導くことができます。
仁
仁とは、多くの人を幸福に導こうとする愛の心です。これについては、徳の定義のところで述べた通りです。
仁とは真逆の心は、嫉妬です。嫉妬は、「自分さえ良ければ、他人が不幸になっても良い」という気持ちから出てくる、ある種の恨み心です。競合他社に嫉妬したり、部下の成長に嫉妬したりする人は、社長として徳のない人だということです。
勇
勇とは、勇気のことです。現代の用語では、チャレンジ精神とも言えます。智や仁が備わっていても、行動できなければ、何も変わりません。
成長意欲があったり、倒産の危機に瀕していたりする企業のいろいろな目標は、過去の実績からすると不可能なものが多いことでしょう。その不可能を可能なものにしていくことが、社長の役割です。勇気をもって行動し、実績を出した人に対し、人は尊敬するものです。
陽明学で述べているところの「知行合一」に通じるものがあります。
キリスト教や仏教にも見られる智仁勇
智仁勇は、キリスト教や仏教の教えにも見られるのではないかと考えます。
キリスト教に見られる智仁勇
キリスト教での智は、「求めよさらば与えられん」に当てはめたらどうでしょうか。「自分は智を何のために求めるのか」といった仁の心と相まって、天なる父からの大いなる智慧が与えられます。それがまさしく「智」です。
また、仁は「与えよさらば与えられん」に当てはめたらどうでしょうか。キリスト教は愛の教えです。愛は与えたら与えただけ与えられるものです。与え切りの心は、まさしく「仁」です。
勇は、「叩けよさらば開かれん」に当てはめたらどうでしょうか。勇気を出して自ずから行動しなければ、得られるものも得られません。自ら叩いて行動するということは、まさしく「勇」です。
仏教に見られる智仁勇
仏教では、因縁果報(いんねんかほう)に智仁勇を当てはめることができます。因縁果報は、「縁起」や「因縁」などと言われるものです。本来の意味は、「今の現状は、仏が創られた法則の中で原因があって報いとして結果が現れたものである」というものです。
「因」とは思いのことです。これは、どのような思いを持っているのかですが、徳のある思いである「仁」に該当すると思います。
「縁」とは行動の内容のことですが、これは「智」に該当すると思います。良い智があって、初めて良い行動につながります。
「勇」は行動することですが、これは「果」に該当します。
それらのトータルで、思い、方法、行動の内容によって、最後の「報」である報いが得られます。報いの部分は、仏の法則の中にあるので、仏に全託するものです。「どのような思いで、何を行い、どれだけの行動をしたかによって、仏の法則の中で報いがある」というものです。
聡明才弁、磊落豪雄、深沈厚重
呻吟語(しんぎんご)によると、1.聡明才弁(そうめいさいべん)、2.磊落豪遊(雄、らいらくごうゆう)、3.深沈厚重(しんちんこうじゅう)という徳の3段階があります。
聡明才弁
聡明才弁の聡明とは、頭が良い人のことです。才弁とは、頭脳と弁舌が優れていることです。これも学徳にもつながるものがあると思います。
リーダーとして必要な力の1つ目として、問題に対して勇気をもって決断する力が大事です。聡明才弁である人は、先ほどご説明した「知仁勇」を兼ね備えている人のことです。聡明才弁でもって、決断して説得し、物事を推し進めていく力のことだと思います。
聡明才弁は、決断力を身に着けるためのポイントなのではないかと考えます。
聡明才弁である人の弱点
しかし、単に頭の良いだけでは、人が慕ってくることはありません。頭の良い人は、ときに人を裁いてしまうためです。聡明才弁であり、人の成長を促すことができる面倒見の良さ、優しさ、寛容さなど、仁の心があれば、その人の徳を下げてしまうこを防ぐことができます。
磊落豪遊
頭が良いということは徳の一部ではありますが、「それだけではレベルの高い徳とは言えない」ということです。
磊落豪遊(雄)とは、豪放磊落(ごうほうらいらく)とも言われるものですが、おおらかな性格のことです。社長になって事業がうまくいき、お金持ちになって、豪遊してしまってはいけないと思いますが、磊落豪雄は簡単に述べると、太っ腹で細かいことには気にしない性格のことです。
部下が命令や理念に違反などで失敗したときには、簡単に許してしまってはいけませんが、失敗を受け入れられるぐらいの度量があるということです。
そういったおおらかな性格の社長は、徳があると言えます。
このおおらかな性格は、真なる意味は、おそらく「自分が正しいと思うことを、批判されても信念を持って積極的な心で耐え抜く」という『忍耐力』や『不動心』のことだと思います。西郷隆盛(1828~1877年)先生をイメージしてください。
打たれ弱い社長だと、打ちのめされている社長を見た社員は右往左往してしまうことでしょう。人は恐怖心があり、前例主義になりがちです。社長には耐える力、逃げずに立ち向かう力が必要です。
ここでご注意なのですが、磊落豪遊が先行してしまって、聡明才弁が欠けてしまってはいけないということです。聡明才弁がなく、磊落豪遊だけがあるとするならば、会社をダメにしてしまうことでしょう。ちなみに、知恵のない勇気のことを、蛮勇といいます。
深沈厚重
深沈厚重とは、常に落ち着いた、どっしりと構えた性格のことです。
しかし、これにはもっと深い意味があるのではないかと思います。つまり、沈思黙考型です。従業員の意見や諫言を受け入れ、じっくり考えて、経営判断を出せる人は、徳のある人だと言えます。
リーダーに大切な資質は「先見力」と「人を見抜く力」です。これらの力を得るためには、深沈厚重の資質が必要なのではないかと考えます。
簡単にコロコロと方針が変わる社長は、社員はなかなか社長のことを信頼しないことでしょう。しかし、方針の変更があったとしても、普段から深沈厚重な社長でしたら、社員は「社長が方針転換するということは、よほど意味のあることに違いない」と感じ、付き従うものです。
先見力
社長の資質の一つに、「先見力」があります。先見力のある人は聡明だと言えます。
先見力は、仏教で述べるところの因果応報(いんがおうほう)を、未来について当てはめて考えられる能力です。「今現在の原因では、未来の結果がこうなる」という具合に、未来を見通して事業構想ができる社長には、部下は社長に付いて行きたいと思うことでしょう。
250年先まで構想した松下幸之助
パナソニックの創業者、松下幸之助(1894~1989年)先生は、1932年(昭和7年)にどの会社も昭和恐慌で苦しんでいる中、250年計画を発表しました。
もちろん、当時の松下電器も経営難に苦しんでいました。そういった中で、松下幸之助は知人に誘われて天理教の教会を訪れます。そこでは、使命感に燃えた信者たちが力を合わせて活動し、繁栄している姿を見ました。
それを見た松下幸之助は、「我社の使命は、製品を水道の水のごとく安価で無尽蔵に供給して、この世を楽土にすることだ」と考えました。その楽土の達成のために、250年計画が立てられました。
250年先まで構想しているわけですから、客観情勢の変化で、250年先の読みは外れることでしょう。松下幸之助の先見力もありますが、「何としても使命を実現したい」という強い志が生まれました。
ご自身が死んでからも後を構想するという、世のため人のための壮大な構想です。それが大義名分となって、社員は「よし、やってやろうじゃないか」と奮起し、松下電器は躍進していきました。
徳のある人物は、先見力でもって人を導くだけでなく、「我社は、世のため人のために貢献するために何を目指すのか」といった利他の大義名分を示すといった、仁の深さが大事です。それを本気で目指していく後ろ姿に、社員は社長の徳を感じるのだと思います。
無欲の大欲(理想を描く力)
無欲とは、欲のない人のことです。大欲とは、大きな欲のある人のことです。この矛盾する言葉が組み合わさった言葉があります。
無欲の大欲とは、「自分の利得のためではなく、多くの人の幸福のために、何か大きな仕事をしたい」という願望のことです。
この願望が実現した姿を理想として描き、その実現に向けてのみに全力を尽くす社長は、徳のある社長です。智仁勇の仁に該当する徳と言えます。
仏教では、「利自即利他」という言葉があります。自分を利することが、利他に通じることです。つまり、無欲の大欲は、願望の実現性と社長の徳が、相乗効果で成されていくものと思います。
まずは、利他のための立志が大切だと思います。それを大義名分として、会社の未来ビジョンとして掲げると良いでしょう。
お金に関する徳
無欲の大欲を実現していくためには、お金の使い方や得方などの徳も心得る必要があるのではないかと思います。
三福(さんぷく)
幸田露伴(1867~1947年)先生の言葉で、「三福(さんぷく)」というものがあります。この3つとは、惜福(せきふく)、分福(ぶんぷく)、植福(しょくふく)です。
ここで福とは、平たく言えば、お金のことです。
惜福
惜福は、お金を惜しむことですが、ケチのことではありません。商売で成功したことを吹聴したり、無駄遣いしたりせず、将来のために貯めておくことです。資本主義の精神とも言えます。
分福
分福は、お金を分け与えることです。お金を独り占めしないで、従業員の評価に応じて給料を出してあげることは、分福に当たります。
植福
植福は、植樹のように福を植えること、つまり未来投資のことです。植林をしても、その木が財になるのは、自分の命が終わった後かもしれません。自分の利益を超えて、未来の人のための福を植える行為です。
社長のお給料のバランス
社長は、自分のお給料を自分で決めることができます。世間相場というものもあります。しかし、私は安定した会社にするために、社長のお給料は充分に利益が出たら充分な金額を得ても良いと思っています。
社長のお給料のバランスについて、洪応明が著したとされる、中国古典の「菜根譚」の中の一節に、お金に関して次のようにあります。
寵利は人前に居るなかれ。徳業は人後に落つるなかれ。受享は分外に踰ゆるなかれ。修為は分中に減ずるなかれ。
訳してみると、「自分の利益を追求することは人よりも控え、徳行は人に遅れを取らず、お給料は限度を超えず、修行は人並みを下回ってはいけない」ということです。
一つ目は利益についてです。会社が高付加価値商品を提供しているのであれば、相対的に利益がたくさん得られることでしょう。しかし、人一倍に利益追求は良くないということです。二つ目は徳の行いです。社長は、人よりも積極的に徳を積む行為をしていった方が良いということです。三つ目はお給料の限度について述べられており、四つ目は修行についてです。
要するに、社長は「自分が得る報酬に倍する価値を提供すべき」ということでしょう。金額的には、小企業の社長であれば、5~10倍の価値を提供するぐらいが、通常であると言われています。
三輪清浄(さんりんしょうじょう)
では、そのお金をどのように得て、どのようなマインドで使うのか。これも、仏教の言葉を引っ張りだしてくると、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という教えがあります。
この3つは、1.お布施をするときの施す人、2.施しを受ける人、3.施す物を表しています。三輪清浄は、これら3つが清らかであることを教えています。
これをビジネスに当てはめると、社長の心が清らかであり、お客様や取引先には清らかな人を選び、正しい売り方で、正しい商品やサービスを提供するものと言えます。
これは理想論かもしれませんが、そのようにできるための基になるものは、社長の徳でしょう。
社長は創業期から徳があるべきなのか?社長の成長段階
もし、「社長は創業期から徳があるべきなのか?」と聞かれたら、「もちろん」と答えたいと思います。しかし、現実的に起業したばかりの社長が、全員が徳のある人とは限りません。
必死に経営していく中で、ある時は頭をコツンと打ち、ある時は落とし穴にはまって、ある時は成功していく中で、徳の原型となる教訓をつかんで成長していくものと思われます。
社長の経営姿勢の成長段階
「社長は、事業経営に本気で取り組んでいく中で、段階的に成長していく」ということを発見しました。
その段階を先に述べるとするならば、次の通りです。
- 第一段階の経営姿勢「自我の経営」
- 第二段階の経営姿勢「利他の経営」
- 第三段階の経営姿勢「天下国家のための経営姿勢」
一代で大企業を築いた社長は、ほとんどと言って良いほど、この段階で成長しています。
第一段階から第二段階にステップアップするときに、徳が発生しだします。第三段階の経営姿勢では、実績と相まって徳が急成長していくものと思われます。
本田宗一郎の経営姿勢の成長
本田宗一郎が、自ら起こした主な会社は次の3社です。
- アート商会浜松支店
- 東海精機重工業
- 本田技研工業
それぞれの会社を経営している頃の本田宗一郎は、経営姿勢の進化が見て取れます。
第一段階の経営姿勢「自我の経営」
1928年(昭和3年)、本田宗一郎(21歳)は一流の自動車修理技術を身に付けて、のれん分けを許され、アート商会浜松支店を開きます。
この頃の本田宗一郎は、「遊ぶために金儲けをしていた」という節があります。初期的な経営の原理・原則は、父や師匠の榊原郁三から教わっていましたが、大きな事業を行うための経営姿勢には至っていませんでした。
この自己中心的な発想で経営している段階の経営姿勢が、「第一段階の経営姿勢」もしくは「自我の経営」です。
第二段階の経営姿勢「利他の経営」
1937年(昭和12年)、本田宗一郎(31歳)はピストンリングの製造に成功し、アート商会浜松支店を弟子に譲渡して、東海精機重工業を立ち上げました。
この頃の本田宗一郎は、事業経営を行う理由として「社会的責任を果たすため」という公器的な考えを持つまでに成長していました。
本田宗一郎がもともとピストンリングの開発をし出したのは、「資源が少なくても利益が出るものを開発したい」という私欲からでした。ところが、ピストンリングはエンジンにはなくてはならない部品だったので、戦時中にエンジンの需要が増え、「その需要に応えたい」と社会的責任に目覚めた可能性があります。
この時期の社会的責任のための経営姿勢を「第二段階の経営姿勢」もしくは「利他の経営」と名付けたいと思います。
この経営姿勢を持った社長は、徳のある人物だと思います。しかし、社長がこの経営姿勢のままで会社が大きく成長してしまったら、会社を倒産させてしまうか、別の経営者に代わってしまうことが多いのです。
創業社長は、事業で成功して自我の欲望が満たされても、第一段階の経営姿勢では空虚感が抜けずに悩み、事業を停滞、あるいは倒産させてしまいます。そこで反省して第二段階の経営姿勢に成長できた社長は、第一段階のときよりも大きな事業を成しますが、ここでも挫折を経験してしまうのです。
本田宗一郎の場合、東海精機重工業はトヨタ系列の企業になり、本田宗一郎は会社を辞めてしまいました。
第三段階の経営姿勢「天下国家のための経営姿勢」
第二段階の経営姿勢で挫折し、「自分の経営姿勢はまだまだダメだった」と反省した場合に、巨大企業に成長していく可能性を秘めた第三段階の経営姿勢に進みます。それは、「天下国家のための経営姿勢」です。
終戦を迎え、本田宗一郎はオートバイの会社を設立します。そして、高性能なオートバイを開発し会社も大きくなってきたときに、本田宗一郎は「オートバイの製造を通じて、日本を一流国と認めさせたい。エンジンで世界を変えたい。」という第三段階の経営姿勢に目覚めます。
本田技研工業が15年ほどかけて世界のホンダになっていく中で、本田宗一郎は利己心が完全に消え、公器な社長へと経営姿勢を昇華させていきました。
他の経営者を調べていても、必死に経営して大会社を築いた社長は、たいていこの段階を踏んでいます。私の尊敬する、松永安左エ門先生もピタリと合致しています。
社長の徳は誰が評価するのか?
社長自身が「私は徳のある人物なのだ。だから私を尊敬しなさい。」と自分で評して言ったところで、周りからは、「なんと徳のない人でしょう」とか「とりあえず尊敬していると言っておこう」と思われるに違いありません。社長の徳を評価する人は、明らかに他人です。
他人と言っても、徳のある社長と接した人、社長を評するものを見た人です。社長と直接接した人であれば、「この社長は徳があるな」と思って評してくれることでしょう。
また、徳のある従業員と接した人が、間接的に社長を評することもあります。「こんなに立派な従業員がいる会社の社長は、とても立派な人に違いない」という具合です。
つまり、社長の徳の評価は、直接会った人や、従業員や商品・サービスに接した人がします。
日本では、報徳神社、松陰神社、東郷神社のように、徳のある人物を神格化して認める文化があります。しかし、会社の社長が銅像になることはあっても、祭られた人は、私の知る限りいません。松下幸之助は、祭られても良いと思いますが、「経営の神様」という称号で終わっています。
会社の社長は、徳のある人であったとしても、多くの場合が忘れられていってしまう運命にあります。一部の大企業では、社史などで社長が徳のある人物に描かれ、残されていく場合もあります。
私は、「徳のある社長が無名で終わることはもったいない」と感じています。そこで、チームコンサルティングIngIngでは、将来的に社史編纂をサービスの一つに加えようと考えています。
以上、社長の徳について、考えているところを簡単にですが、さまざまな角度からまとめてみました。
徳とは、目に見えないものなので、言葉で表すことが難しいですが、明らかに存在するものです。私の心境が進むにつれて、もっと明確に述べることができるようになるかもしれません。そのときは、この記事をブラッシュアップしたいと思います。
私は徳のある社長を目指している端くれですが、そのような私といっしょに徳を学んでいただける社長に出会えることを願っております。
この記事の著者

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)
国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジン・マーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら数千を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツ・マーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくりる独自の戦略系コンサルティングを開発する。