社長の夢実現への道

社長の徳についての考察

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社長の徳についての考察

社長には徳があった方が良いですし、これを否定する方は少ないはずです。

では、徳のある社長とは、どのようなことが備わっている人のことか、ご一緒に考えていただけたらと思い、このコラムを書くことにしました。

当社の大きな目標の一つとして、徳のある社長をたくさん輩出して、日本を豊かにしたいというものがあります。経営コンサルティング事業では、論理的にクライアント企業を支援することはもちろんのことですが、徳のある社長への成長もご支援できたらと考えている次第です。

このコラムでは、またまだ木鶏たりえない著者が、社長の徳について、過去の偉人が説いたさまざまな文献を引用して、徳の研究の途中経過として、批判を恐れず大胆に述べたいと思います。

徳のない社長とはどういった人か?

徳のある社長はどういった人なのかを考える前に、徳のない社長について考えたいと思います。ネガティブな内容については、考えやすいからです。ごいっしょにお考えいただけたら幸いです。

では、どのような社長が、徳がないと言われそうなのか、いくつかの例と、仏教で伝えられている六大煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)、徳を失ってしまう6つの項目に照らし合わせたいと思います。

貪(とん)とは、むさぼることです。瞋(じん)とは、怒りのことです。癡(ち)とは、愚かな行為のことです。慢(まん)とは、慢心のことです。疑(ぎ)とは、人を疑うことです。悪見(あっけん)とは、何でも悪く見てしまうことです。

自己中心的な考えや行動をする社長

すぐに激高する社長も含まれることかもしれませんが、自己中心的な考えや行動をする社長には徳が無いと言えます。

どういった社長が、自己中心の社長なのでしょうか。いろいろとありますし、ケースバイケースでしょうけれども、あえて述べるとするならば、会社のお金の使い方と、社員の指導方法で、自己中心かどうかが、おおよそわかります。

会社のお金の使い方では、取引先へのお金の支払い方や、何にどれぐらいの経費を使っているのかです。

会社帰りに飲みに行っているお金を、会社の経費から出している人は、社員のことをあまり考えていないかもしれません。「自分の給料は安くしているから」と言っても、経理担当者は経費の使い方を見ているわけです。

社員の指導方法で、「とにかく仕事を取ってこい」ばかりの社長は、自己中心的でしょう。どのように仕事を取ってくるべきなのか、方針は何かあるのか、仕事の取り方を実践して見せるなど、いろいろな方法で指導してあげられ、従業員に仕事で成果が出せるように丁寧に導ける社長は、徳があると思います。

自己中心的な考え方や行動は、仏教で六大煩悩の1つ「貪(とん)」に該当すると思われます。

天台宗の開祖、天台智顗(538~598年)大師は、六大煩悩を止める摩訶止観(まかしかん)を提唱しています。「摩訶」は、偉大なという意味だそうです。「止」は六大煩悩を止めること。「観」はそのための智慧だそうです。今現在でも、徳が失われることを止める方法としても、とても参考になります。

山本五十六(1884~1943年)元帥の部下指導の言葉から、徳のある指導方法を学びたいと思います。

やって見せ、説いて聞かせて、やらせてみ、讃(ほ)めてやらねば、人は動かぬ。

すぐに激高する社長

従業員が、道理に合わないことをして、社長から激怒されることはあります。激怒された本人も、「それなら仕方がない」と思い、反省することでしょう。

しかし、道理に合わないことですぐに激高する社長がいます。自分の思い通りにいかなかったり、社員が自分の気持ちを理解してくれなかったり、ちょっとしたことで激高する社長がいます。

人前で感情的になり暴言を吐く社長も、徳のない社長の代表格です。徳のある社長は、そのようなことはしません。

社長としては、「社員の指導だ」と思っているかもしれませんが、社長の怒りには破壊力があるので、怒られた本人はたまったものではありません。社長に特別な魅力がなければ、能力の高い人は去っていってしまうものです。

すぐに激怒するけど徳のあった本田宗一郎

本田技研工業の創立者、本田宗一郎(1906~1991年)先生は、すぐに激怒することで有名です。激怒するだけでなく、社員を殴りつけていたぐらいでした。しかし、後の幹部たちは「オヤジに育てられた」と述べ慕っていました。

本田宗一郎が激高するケースは、社員が技術者としての原理原則に外れた考えを示したり、それによってミスをしたりしたときでした。激怒された社員は、その理由について言われてみれば納得のいくものでしたし、相手を技術者として認め育てようとして激怒し、人格を否定するような発言はしませんでした。

激怒した後は、社員に謝るようなことはしなかったようですが、怒りが後を引くことはなく、雨の後のカラッと晴れた青空のような感じだったようです。「このバカ野郎!」と激高した後に、笑顔で振り返ることもあったそうです。

怒りの心は、仏教で六大煩悩の1つ「瞋(じん)」と言われるものです。激高してしまっても、すぐさま反省して、相手に頭を下げられるぐらいの人が、徳のある人と言えます。

自慢話の多い社長

社長は、どうしても自慢話が好きです。私自身も自慢話をしたいという衝動に駆られるときがあるので、自制を心がけています。

従業員にとっては、社長の自慢話は初めて聞いたときには、共感や学びがあることでしょう。それが、何度も何度も続いたらどうでしょうか?

従業員にとっては、「また始まった。これで30分は時間を失ってしまった。聞いているふりをしておこう。」という具合です。経営理念の解説は、何度も何度もすべきですが、繰り返される自慢話は従業員にとって迷惑です。

自慢話が多い社長は、慢心していると考えて良いでしょう。慢心も、仏教で六大煩悩の1つにあります。「慢(まん)」と言われるものです。

当の社長からすると、「このような良い話は、何度でも聞かせてあげたい」と、従業員を思いやる気持ちがあるのかもしれませんが、従業員は聞いていませんので、時間のムダですから、自慢話をしたい持ちをグッとこらえてください。

社長が、自慢話したい気持ちをグッとこらえるだけで、徳が発生するとお考えください。

社長の徳が失われていく行為は、他にもたくさんあります。どれにも共通することは、「他人への思いやりや配慮が足りない」ということです。言い換えると、「他人の幸福を考えていること」がキーワードになりそうです。

仏教によると要するに、人は六大煩悩を知らずのうちにも、うっかりやってしまうことがあります。六大煩悩を考えてしまうだけでも、ダメだそうです。それを反省して、愛他の想いで事業活動をしたり、慈善活動に取り組んだりすることによって、悪と善の天秤にかけて、善の方を大きくしていきなさい、ということになります。

六大煩悩は、徳の出血部分に当たると思います。「社員がすぐに辞めて困る」という社長は、徳の出血を止めることから始めると良いでしょう。

徳のある社長とはどういった人か?

冒頭にも申しました通り、私自身、「徳のある人物になりたい」と願っていますが、「徳のある人物だ」とは全く思っていません。また、私は哲学者でもありません。ここから書かれている内容には、批判もあることでしょう。

それでも、あえて徳について述べたいと思いますので、ご指導いただけたら幸いです。

徳の定義

そのような私ではありますが、徳のある社長とはどういった社長なのかを定義したいと思います。

自分のこと以上に、他人の幸福を考えている社長

他人とは、自分以外の人のことです。家族のこともあるでしょう。会社の従業員も、元は他人です。その人たちの幸福を、自分のこと以上に考えている人が、徳のある人だと定義しておきたいと思います。

他人の幸福を考える人は、仏教的には「慈悲」ですし、キリスト教的には「愛のある人」ということになります。

もちろん、考えているだけでなく、それが行動に移されなければ、他人は幸福にはなりません。王陽明(1472~1529年)先生が陽明学で述べているところの「知行合一(ちこうごういつ)」が大切です。

知行合一とは、「知っていることと行動することは、本来は同一のものだ」という教えです。知っていても行動していなければ、知らないことと同じことだということです。

なぜ人は「徳が大切だ」と思うのか?

道端にゴミが落ちていたら、イヤだという気持ちが浮かびます。人によっては、ゴミを拾っていく人もいます。道端に花が咲いていたら、美しいと思う心があります。人によっては、その花に水をあげる人もいることでしょう。

なぜ人は、そのような気持ちが勝手に浮かぶのでしょうか。そこには、人間にはそういった性質が備わっているからだと思います。

人は、ときに自分の利害を超えて、また自分の命をも顧みずに、人を助けようとすることがあります。川で子どもが流されて、父親が自分の命を引換に子どもを救ったというニュースを、時々見ます。それが、見ず知らずの人の命を助けるために、命を失った人もいます。

そういった人を、尊い人だと感じる人は多いことでしょう。私たちは、どこから、自分の命を投げうってでも他人の命を助ける行為に、「尊い」という気持ちが浮かんでくるのでしょうか?

命を助けるまで行かなくても、他人を幸福にしたいという気持ちを持っている人は、多いと思います。そこにも人間の性質が関わっていると思います。

その気持ちを、仏教的には「慈悲」、キリスト教的には「愛」と言っています。

社長の愛と徳の関係

愛には、パトス的な愛とアガペー的な愛があるそうです。パトスとは、感情的や熱情的と訳されるようです。アガペーとは、神の愛や自己犠牲の精神と訳されるようです。

パトス的な愛は、どちらかと言えば情愛といった、相手に対して受け身の愛になります。アガペー的な愛とは、智恵が伴い人を導く愛といった、相手に対して能動的な愛です。

社長は、自分の家族の幸福はもちろんのこと、お客様の幸福や従業員の幸福も考えなくてはいけません。そういった多くの人を幸福にしようとするならば、パトス的な愛では、どうしても経営を成り立たせることができなくなってしまいます。やはり、社長にはアガペー的な愛が必要となります。

つまり、社長の徳の性質は、パトス的な愛ではなく、アガペー的な愛であるべきだと思います。

アガペー的な愛では、マズローの欲求5段階説を超えたものがあります。この5段階は次の5つです。

  1. 生理的欲求
  2. 安全欲求
  3. 社会的欲求
  4. 承認欲求
  5. 自己実現欲求

生理的欲求は、食事や睡眠などの、生きていくための基本的な欲求です。これが満たされて、安全欲求が強くなってきます。安全欲求は、命の危険がない生活を求める欲求です。社会的欲求は、孤独を嫌い、何らかの集団に属したいという欲求です。承認欲求は、人から認められたいという欲求です。

最後は、自己実現欲求です。1~4の欲求が満たされて、5番目の自己実現欲求が強くなります。この段階では、まだパトス的な愛ですので、社長自身の欲求がこの段階であれば、徳としては小さいものと思われます。

マズローの欲求5段階説を超えたところのアガペー的な愛の実践において、徳が発生するのではないかと思われます。マズローは、これを6番目の欲求として「自己超越欲求」としました。

社長の徳の成長

昔から「徳を積む」という言葉があるように、徳は貯金のように蓄積していくものだと思われます。徳行をすることで、徳の総量を増やしていくことで、社長は大きな仕事ができるようになっていくものと思われます。

大きな徳のある社長になるためには?

徳がある人だと言われるためには、「勇気のある人だ」とか「智恵のある人だ」とか、さまざまな要素があり、必要条件が満たされて「徳のある人」になります。

また、勇気や智恵にはレベルがあることは明らかです。アガペー的な愛には段階があるはずです。

つまり、徳のある人は、「何らかの敷居を超えたら徳のある人になる」という、スイッチのような必要条件はあるものの、矩形的な要素ではなく、さまざまな要素の総合点で、線形、もしくは非線形に徳が増えて、大きな徳を持つ社長に成長していくものだと考える方が妥当です。

先ほどの徳の定義について、徳の成長を当てはめてみると、次のようになると思います。

事業活動や慈善活動などを通じて、多くの人を幸福にした社長が、大きな徳のある社長

社長の徳の成長

社長は、今現在は多くの社員をかかえている人もいることでしょう。社長お一人で会社を経営されている方もいると思います。

どういった社長にしても、最初は自分一人が生活することで精いっぱいだったことでしょう。もしかしたら、親に経済的な支援してもらっている人もいたかもしれません。

マズローの欲求5段階節の第5段階「自己実現欲求」を満たすところまで行かなければなりません。そのためには、先ほどのアガペー的な愛が必要となると思います。

二宮尊徳の教え

二宮尊徳の教えで、タライに入った水の教えがあります。タライに水を入れ、その水を手でかき寄せたら、水は手の周りから向こう側に移動します。反対に水を向こう側に押し出すと、水は手前に流れてきます。先に与えることで、後から自分が与えられる例えです。

また、先ほど、「多くの人を幸福にした人が徳のある人だ」と述べましたが、ある時期からいきなり多くの人を幸福にすることは難しいと思います。

二宮尊徳の教えで、「積小為大(せきしょういだい)」というものがあります。小さな積み重ねによって、大きなことを成し遂げるという意味です。普段から人の幸福を願って行動している社長が、積小為大で徳が成長していくものと思われます。

自分が利益を得ようとしたら、まずは、事業を通じてお客様や取引先を幸福にしなければなりません。

お客様や取引先は他人です。その他人を幸福にしようと考えているのであれば、そこから、実は徳が始まっているのだと思います。そうすることで、経済的に自立ができて、家族を幸福にできるようになったとします。そうすると、また社長の徳が成長していると考えて良いと思います。

さらには、従業員を雇い、従業員や従業員の家族を幸福にしていくことで、徳が成長していきます。

ここまでは、キリスト教で述べるところの「与える愛」や「隣人愛」でしょう。ここまでが、社長の徳が線形に伸びていく段階だと思います。

また、事業が拡大していくと、今まで社長が会ったことのない従業員が、会ったことのないお客様を、事業を通じて幸福にしていくことがあります。

事業が拡大していったら、社長の徳が隣人愛を超えて、従業員の隣人愛の連鎖によってレバレッジが働き、徳が非線形に成長していく段階に入ると思います。

自己犠牲の精神

社長の仕事は、給料だけを考えていると、一部の徳のない人物を除いて、つくづく割に合わない役職だとお思いのことでしょう。まさしく、社長業は「自己犠牲の精神」という言葉が合うと思います。

自己犠牲の精神は、マズローが述べた6番目の欲求「自己超越欲求」と同じものです。

お客様からは無茶な要望があり、従業員や役員からは難題が降りかかり、取引先はうまく動いてくれないことが、世の常です。会社が倒産したら、すべて社長一人の責任でもあります。

「何が楽しくて社長をやっているのか」と悩んでしまうときもあったはずです。

徳のある社長は、社長を辞めようと一瞬考えたとしても、また聖書にある「涙の谷」を進み続けるようなものです。場合によっては、オスカーワイルドの「幸福な王子」の主人公のようにもなりえます。

しかし、なぜ社長は社長を続けるのでしょうか?

そこに何らかの魅力があるからです。社長をやる魅力の一つに、「可能性」があると思います。

可能性には、お金持ちになる可能性もあることでしょう。何かを生み出す可能性もあります。もう一つ、徳のある人物になれる可能性もあります。

社長であれば、徳のある人物になれる可能性にも、魅力を感じていただきたいと思います。

聖人君子と自己中心を分けるもの

このように、社長の徳行の規模は成長していくものと考えます。徳のある人の中には、徳の段階的な成長を考えずに、いきなり自分の生活を顧みず、他人の幸福のみを考えて、自己犠牲の精神で行動する人がいます。

社長のことで例えると、分不相応に寄付をしてしまったり、会社が傾きかけているのに社業をそっちのけで名誉職に没頭したりすることです。

そういった人は、2種類の評価があり、一人を聖人君子、一人を自己中心だと思います。

この2種類を見分けることは、私のような凡人にはなかなか難しく、おそらくは、多くの人から尊敬されるようになった人が聖人君子と評され、会社が倒産して誰も相手にされなくなってしまった人が自己中心と評されるのだと思います。

聖人君子になれる自信があるのであれば別ですが、自己中心になりそうだとお考えであれば、徳の蓄積は積小為大でお考えください。そのためにも、できれば他人資本に頼らずに、自己資本で自助努力していくことをお考えください。

なぜ徳のある社長を目指すべきなのか?

社長によっては「徳ではメシは食えない」とお考えの方もいることでしょう。ここまで読まれた方には、そういった方はいらっしゃらないと思います。

なぜ徳のある社長を目指すべきなのでしょうか。結論から述べますと、それは「人間の性質という以外にない」と思います。

あえて、徳のご利益的なことを述べるとするならば、「社長の徳に人材が集まる」ということです。このことについて解説をしたいと思います。

社員は社長の徳を見抜く

社員は、社長のことをどれぐらいの期間で見抜くのかを述べている言葉があります。

上、三年にして下を知り、下、三日にして上を知る

社長が従業員のことを3年もかかって知り、従業員は社長のことをたった3日知るという例えです。

なぜか、会社の従業員は、社長の徳を3日とは言わないまでも、短期間で見抜いてしまうようです。しかし、社長は「この社員の性格は・・・」と答えたとしても、まったく見抜けていないことがあります。

このことは私も経験があります。以前、私は以前に2年ほど勤めた会社がありました。そこを辞めてから数年してコンサルティング会社を起業しました。そのときの勤めていた会社の社長に挨拶に行ったところ、「そんな能力があったなんて、知らなかった」と、とても驚かれていました。

このように、社長は部下の能力や考えていることを見抜くことができないと思った方が良いでしょう。反対に、部下からは、社長の徳については、よく理解できるようです。

もし、部下に能力の高い人がいたとして、社長に徳が足りなければ、その人はいずれ会社を辞めていってしまうことが、世の常です。

徳のある社長に人材が集まる

一般に、「波長同通の法則」というものがあります。「類は友を呼ぶ」とも言います。人とのお付き合いでは、おおよそこの法則に合致することが多いです。

極端な話として、善良な心を持った人の中で、極悪な盗賊の友達になりたいという人は、まずいません。波長が合わないからです。反対に、善良な心を持った人の周りには、基本的に波長の合う善良な心を持った人が集まるものです。

この法則は、徳のある社長にも当てはまります。徳のある社長には、徳のある人が集まってくるものなのです。

また、能力のある人材は、社長の徳に引き寄せられてくるものです。社長の徳の総量に応じた人材が、会社に入ってきてくれるようになります。能力のある人は、社長の徳によって能力が発揮できるからです。

ここで、史記の著者、司馬遷(しばせん、前漢の時代)が、同年代に活躍した漢の将軍、李広(りこう)に贈った言葉が思い浮かびます。

桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す

訳としては、「桃やすももが、花や実をつけていたら、自然に人が集まってくるので、自ずと道ができてしまう」というものです。徳がある人物には、自然と人材が集まってくる例えです。李広将軍は、部下からとても慕われて、李広のためなら命を投げうってでも戦う、屈強な兵士が集まっていました。

社長の徳には、そのような力があります。人材が集まることで、会社が大きな仕事ができるようになっていき、社長の志が達成されます。

巨富を築くための秘訣は対人関係

社長の徳に人材が集まって大きな仕事ができることを考えると、アメリカの鉄鋼王、アンドリュー・カーネギー(1835~1919年)先生が思い浮かびます。アンドリュー・カーネギーは、自身の墓碑銘に次のように刻んだと言われています。

Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.

(彼自身よりも賢い人との付き合い方を知った人物がここにいる)

アンドリュー・カーネギーは、ナポレオン・ヒル(1883~1970年)博士との、成功哲学を学ぶ初めての対話の中で、「成功哲学は人間関係の法則のこと」と冒頭で間接的に述べています。

徳を磨くことは、能力のある人とレベルの高い人間関係を築くことにも直結することです。徳を磨くことで、アンドリュー・カーネギーのように大富豪にもなることができるかもしれません。

社長の徳の発生源

社長のどういった考えや行動が得を生み出すのか、社長に徳が発生する場面について、考察したいと思います。

気配り

まずは、他人を知り、「何か幸福になってもらえることはないか」と探すといった思いやりの心から、気配りが始まると思います。何か見返りを求めての行為は、気配りとは言えないものです。

どうしたら思いやりの心が生まれるのか。それは、幼少のころから親から学ぶ人もいると思いますが、「自分は誰かのおかげで生かされている」という気づきと、それに対する感謝、報恩から生まれてくるものと思います。

今、このコラムを書いているのはパソコンを使っています。このパソコンは誰かが製造してくださったものです。また、電気がなければ動きません。誰かが電気を製造してくださっているので、パソコンで仕事ができています。

それらは、自分でお金を払って使用しているものですが、パソコンや電気を自分で製造して仕事をしようとなると、膨大な時間と労力がかかります。それを、こんなに安い金額で利用させていただいています。

そのように考えると、あらゆるものは与えられていると考えるのが、妥当だと思います。その与えられているものに気が付いて、深く感謝をする中に、報恩の気持ちが生まれてくるものです。

学徳

徳が含まれる言葉の一つに、学徳があります。学徳とは、学問と徳行を合わせたものと言われています。学問だけでは徳がなく、徳行だけでは物足りない。二つ合わせもって、学徳ということです。

学徳は、日本国内での陽明学の開祖、近江聖人とたたえられた中江藤樹(1608~1648年)先生の言葉とされています。学徳には限りながいものと説いています。

中江藤樹の学徳について、社長向けにごく簡単に述べるとするならば、「もし、社長に徳がないのであれば、勉強不足だ」ということです。それはもちろん、「多くの人を幸福に導きたい」という気持ちからの学徳です。

私自身は、まったくもって勉強不足です。

また、学徳には「人が見ていないところで、何をしているのか?」という内容も、含まれているのではないかと思われます。つまり、従業員が見ているところでは、勉強したり仕事をしたりしていても、従業員が見ていないところでサボっているようであれば、学徳があるとは言えません。

智仁勇

中国の古典、中庸(ちゅうよう)の中で特について述べられているのが、智仁勇(ちじんゆう)です。そこには、「知、仁、勇の三者は天下の達徳(たっとく)なり」とあるそうです。達徳とは、みんなが実践すべき普遍的な徳だという意味です。

智は、学徳にもつながるものですが、智の徳によって、正邪の判断を付けられるということです。社長の智によって、会社を正しい方向に導くことができます。

仁は、多くの人を幸福に導こうとする愛の心です。これについては、徳の定義のところで述べた通りです。

勇は、勇気のことです。智や仁が備わっていても、行動できなければ、何も変わりません。陽明学で述べているところの「知行合一」に通じるものがあります。

聡明才弁、磊落豪雄、深沈厚重

呻吟語(しんぎんご)によると、1.聡明才弁(そうめいさいべん)、2.磊落豪遊(雄、らいらくごうゆう)、3.深沈厚重(しんちんこうじゅう)という徳の3段階があります。

聡明才弁

聡明才弁の聡明とは、頭が良い人のことです。才弁とは、頭脳と弁舌が優れていることです。これも学徳にもつながるものがあると思います。

しかし、単に頭の良いだけでは、人が慕ってくることはありません。頭の良い人は、ときに人を裁いてしまうためです。聡明才弁であり、人の成長を促すことができる面倒見の良さ、優しさ、寛容さがあれば、その人の徳を下げてしまうこを防ぐことができます。

社長の資質の一つに、「先見力」があります。つまり、仏教で述べるところの因果応報(いんがおうほう)を、未来について当てはめて考えられる能力です。「今現在の原因では、未来の結果がこうなる」という具合に、未来を見通して事業構想ができる社長には、部下は社長に付いて行きたいと思うことでしょう。

250年先まで構想した松下幸之助

パナソニックの創業者、松下幸之助(1894~1989年)先生は、1932年(昭和7年)にどの会社も昭和恐慌で苦しんでいる中、250年計画を発表しました。

もちろん、当時の松下電器も経営難に苦しんでいました。そういった中で、松下幸之助は知人に誘われて天理教の教会を訪れます。そこでは、使命感に燃えた信者たちが力を合わせて活動し、繁栄している姿を見ました。

それを見た松下幸之助は、「我社の使命は、製品を水道の水のごとく安価で無尽蔵に供給して、この世を楽土にすることだ」と考えました。その楽土の達成のために、250年計画が立てられました。

250年先まで構想しているわけですから、客観情勢の変化で、250年先の読みは外れることでしょう。松下幸之助の先見力もありますが、「何としても使命を実現したい」という強い志が生まれました。

ご自身が死んでからも後を構想するという、世のため人のための壮大な構想です。それが大義名分となって、社員は「よし、やってやろうじゃないか」と奮起し、松下電器は躍進していきました。

先見力でもって人を導くだけでなく、「我社は、世のため人のために貢献するために何を目指すのか」といった利他の大義名分を示し、それを本気で目指していく後ろ姿に、社員は社長の徳を感じるのだと思います。

磊落豪遊

頭が良いということは徳の一部ではありますが、「それだけではレベルの高い徳とは言えない」ということです。

磊落豪遊(雄)とは、豪放磊落(ごうほうらいらく)とも言われるものですが、おおらかな性格のことです。社長になって事業がうまくいき、お金持ちになって、豪遊してしまってはいけないと思いますが、磊落豪雄は簡単に述べると、太っ腹で細かいことには気にしない性格のことです。

部下が命令や理念に違反などで失敗したときには、簡単に許してしまってはいけませんが、失敗を受け入れられるぐらいの度量があるということです。

そういったおおらかな性格の社長は、徳があると言えます。

ここでご注意なのですが、磊落豪遊が先行してしまって、聡明才弁が欠けてしまってはいけないということです。聡明才弁がなく、磊落豪遊だけがあるとするならば、会社をダメにしてしまうことでしょう。

深沈厚重

深沈厚重とは、どっしりと構えた性格のことです。何があっても動じない人物のことです。西郷隆盛(1828~1877年)先生をイメージしてください。

もう一つ加えるのであれば、沈思黙考型です。従業員の意見や諫言を受け入れ、じっくり考えて、経営判断を出せる人は、徳のある人だと言えます。

無欲の大欲

無欲とは、欲のない人のことです。大欲とは、大きな欲のある人のことです。この矛盾する言葉が組み合わさった言葉があります。

無欲の大欲とは、「自分の利得のためではなく、多くの人の幸福のために、何か大きな仕事をしたい」という願望のことです。この願望の実現性と徳は、相乗効果で成長していくものと思います。まずは、利他のための立志が大切だと思います。

お金に関する徳

無欲の大欲を実現していくためには、お金の使い方の徳も心得る必要があるのではないかと思います。

幸田露伴(1867~1947年)先生の言葉で、「三福(さんぷく)」というものがあります。この3つとは、惜福(せきふく)、分福(ぶんぷく)、植福(しょくふく)です。

ここで福とは、平たく言えば、お金のことです。惜福は、お金を惜しむことですが、ケチのことではありません。商売で成功したことを吹聴したり、無駄遣いしたりせず、将来のために貯めておくことです。

分服は、お金を分け与えることです。お金を独り占めしないで、従業員の評価に応じて給料を出してあげることは、分服に当たります。植福は、植樹のように福を植えること、つまり未来投資のことです。

では、そのお金をどのように得て、どのようなマインドで使うのか。これも、仏教の言葉を引っ張りだしてくると、「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」という教えがあります。

この3つは、1.お布施をするときの施す人、2.施しを受ける人、3.施す物を表しています。三輪清浄は、これら3つが清らかであることを教えています。

これをビジネスに当てはめると、社長の心が清らかであり、お客様や取引先には清らかな人を選び、正しい売り方で、正しい商品やサービスを提供するものと言えます。

これは理想論かもしれませんが、そのようにできるための基になるものは、社長の徳でしょう。

徳は誰が評価するのか?

社長自身が「私は徳のある人物なのだ。だから私を尊敬しなさい。」と自分で評して言ったところで、周りからは、「なんと徳のない人でしょう」とか「とりあえず尊敬していると言っておこう」と思われるに違いありません。社長の徳を評価する人は、明らかに他人です。

他人と言っても、徳のある社長と接した人、社長を評するものを見た人です。社長と直接接した人であれば、「この社長は徳があるな」と思って評してくれることでしょう。

また、徳のある従業員と接した人が、間接的に社長を評することもあります。「こんなに立派な従業員がいる会社の社長は、とても立派な人に違いない」という具合です。

つまり、社長の徳の評価は、直接会った人と、従業員や商品・サービスに接した人がします

日本では、報徳神社、松陰神社、東郷神社のように、徳のある人物を神格化して認める文化があります。しかし、会社の社長で祭られている人は、私の知る限りいません。松下幸之助は、祭られても良いと思いますが、「経営の神様」という称号で終わっています。

会社の社長は、徳のある人であったとしても、多くの場合が忘れられていってしまう運命にあります。一部の大企業では、社史などで社長が徳のある人物に描かれ、残されていく場合もあります。

私は、「徳のある社長が無名で終わることはもったいない」と感じています。そこで、将来的に社史編纂をサービスの一つに加えようと考えています。

以上、社長の徳について、考えているところを簡単にですが、さまざまな角度からまとめてみました。

徳とは、目に見えないものなので、言葉で表すことが難しいですが、明らかに存在するものです。私の心境が進むにつれて、もっと明確に述べることができるようになるかもしれません。そのときは、この記事をブラッシュアップしたいと思います。

私は徳のある社長を目指している端くれですが、そのような私といっしょに徳を学んでいただける社長に出会えることを願っております。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

経営全般からマーケット分析、集客コンサルティング、SEO対策、SEOコンテンツ・マーケティング、ホームページ制作等を主に行っています。Web集客と併せて、新商品開発やブランディングの支援など、クライアント企業が競合企業に勝つためのコンサルティングを提供しています。

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