社長の夢実現への道

電力の鬼 松永安左エ門に学ぶ意思決定術「天下国家のため」

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危機の時代を乗り切るための知恵を求めて

老欅荘

前回のコラムでは、近鉄の中興の祖、佐伯勇に学ぶ意思決定術「独裁するが独断はせず」をご紹介しました。今回ご紹介したい大先輩は、松永安左エ門(まつながやすざえもん、1875~1971)です。佐伯勇が生まれた頃には、松永安左エ門は博多を中心として、いくつかの電力会社の経営に携わっていました。

松永安左エ門は、お茶の世界で松永耳庵(じあん)という名前で知られ、益田鈍翁と野崎幻庵で小田原三茶人とも呼ばれています。小林一三(逸翁)や原三渓とも交流があったようです。

小田急線の小田原駅から箱根登山鉄道に乗り換え、箱根板橋駅で下車。そこから北へ徒歩10分ぐらいの静かな住宅街のはずれに、松永記念館があり、晩年に利用したご自宅やお茶室などが残っています。

記念館のスタッフにご案内していただいたときは、お互いに知っていた松永安左エ門や老欅荘(上の写真)の知識を交換し合いました。ここだけの話になりますが、普段は解放していないお茶室も見せていただき、面白エピソードや豪快エピソードに花を添えて頂けました。

松永記念館では、年に2~3回程度、お茶会も開催されていて、そのタイミングを合わせて行けたら最高です。箱根合宿のときは、経営者の方と訪れることもあり、「今は小さな会社だけど、いずれは大事業を成功させたい」と思っている経営者の方々にとっての聖地の一つと言えます。

松永安左エ門の電力事業

松永安左エ門は、若いころはさまざまな事業を行いますが、34歳の頃に博多の路面電車とそこに電力を供給する事業を行ってから、電力業界に参入します。

松永安左エ門が生前に残した言葉で印象的なものが、晩年に収録された音声の中でのお話です。それを一言で述べると

電力事業は天下国家のため

松永安左エ門が30歳を過ぎたころ、それこそ一文無しで借金取りに追われていたときに、「今自分が生きているのは世間のおかげである。世間への恩返しのために事業をしなければならない。」と悟りました。そして、松永安左エ門は、34歳のときに鉄道事業や電力事業などを通じて、今の日本の繁栄を実現すべく動き出したのです。

「天下国家のため」と聞くと、「そのような綺麗ごとでは商売はできない」と言われそうですが、「世のため人のため国家のため」を正しく本気でやり抜いたときに、会社はどうなるのかを、松永安左エ門は実証しました。

松永安左エ門が電力事業に取り組みだした当時、国内には電力会社やガス会社が、数百社以上ありました。その中で、松永安左エ門は安価で安定供給ができる水力発電を開発していき、電力会社として日本で初めて科学的経営を取り入れ、より安価で安定した電力共有に務めます。水力の開発には、現地調査員と共に自ら山林に赴きました。

体力のない電力会社やガス会社を次々と合弁していき、多くの需要地に安価な電力を供給していきました。その結果、「東邦電力」を日本最大級の電力会社に成長させ、社長に就任します。関東大震災のときに関東に進出し、電力を供給した場所は、九州と中部を中心に、関西、関東で、東邦電力のグループ会社は100社を超えたと言われています。

戦後の日本の繁栄を支えた大事業家、松永安左エ門

松永安左エ門は、1939年の電力国家管理のときに、隠遁生活に入ります。そのときに、趣味であったお茶に没頭することになります。ところが1950年、戦後の電力事業再編のときに、電気事業再編成審議会会長に選ばれます。74歳のときです。

政府から、「電力の再編には松永さんしかいません」ということでお声がかかったわけですが、そのときに松永安左エ門は、「私に依頼するということは、本気だということだな。」と聞き返すほどの熱気ぶりでした。

委員会では、松永安左エ門以外は全員が国営化を主張していましたが、委員全員や国会などでの反対を押し切り、GHQの協力を得て電力の民営化を実現し、松永安左エ門が考える9電社体制がスタートします(現在は、沖縄電力が加わり10電社)。引退していたとは言え電力会社経営の実務に明るい松永安左エ門は、その委員会の会合で委員たちに「素人は黙ってろ!」と言い放つほどの豪快ぶりだったそうです。

全世界で、電力は国営化の流れにありました。しかし、なぜ公共的な事業である電力を民営化する必要があったのか。理由はこうでした。

自由経済の中でのみ、安定的で安価な電力が供給される。

まさしく、経世済民を知っている人の考えです。

その直後、戦後の復興のままならないときに、次は2度にわたり、7割もの電気代の値上げを提唱します。これには、日本国中の全員が反対し、さすがのGHQも反対します。全国で抗議デモが発生する始末です。「松永を殺せ」と書かれたプラカードもあったそうです。松永安左エ門の自宅には、朝から晩まで電気代値上げに反対する人が押し寄せてきたそうです。

このときに「電力の鬼」というニックネームが付きました。

松永安左エ門は、「安定して安価な電力を供給する」ということを旨としてたのに、また、戦後の混乱の時期にもかかわらず、日本全国を敵に回してまで、なぜ電気代の大幅な値上げを断行しようとしたのか、その理由はこうでした。

復興のためには電力が必要。そして、発電所や送電線、変電所などを建設する電力開発には膨大な資金が必要。その資金は、投資家から集めるしかない。そのためにも、電力事業を、投資家が投資したくなるぐらいの魅力的な事業にしなくてはならない。

また、電力の伸びは政府案の年率3%でなく、8~10%を予測する。資金を集めて電力を開発し、その電力の伸びに対応できなければ、停電が発生しまくり、日本の急速な復興はあり得ない。

松永安左エ門は諦めませんでした。説明を求めた人には、納得するまで分かりやすく丁寧に説明されたそうです。そして、池田勇人や白洲次郎、マッカーサーまでもが、松永安左エ門の熱心ぶりに共感し、彼らの協力もあり電気代の値上げを実現しました。

電力を値上げした後、蓋を開けてみたら、電力需要の伸びは、政府が考えていた年率3%を優に超え、松永安左エ門が予想した以上の伸びになりました。

もし、政府案の3%で電力開発をしていたら、恐ろしく思います。電力供給が足りなければ、停電が頻発してしまいます。すると、日本国内の産業は、エネルギー供給量の少なさに苦しみ、復興が遅れ、「Made in Japan」がネガティブな意味になっていた可能性もあります。

電力事業の再編成という大事業を74歳のときに取り組み、76歳で成し遂げるのですが、志とやる気と実力さえあれば、何かを始めるのに年齢は関係のないことを思い知らされます。

松永安左エ門の意思決定

松永安左エ門は、慶応時代からの朋友でもあり、ビジネスの師匠でもあり、電力事業に取り組むきっかけを与えた福沢桃介と、少しずつ袂を分かつことになります。松永安左エ門の文献を調べていて、完全に福沢桃介のことが出なくなったのは、松永安左エ門が東邦電力の社長になったときからです。そのころに、福沢桃介は財界を引退しました。

電力事業経営のスタンス

松永安左エ門は晩年、いっしょに電力事業を行ってきた福沢桃介について、次のように述べています。

福沢桃介とは、経営の考え方について、(いっしょに電力事業を始めた)当時から若干違っていた。その考え方の違いは、今考えてみたら大きなものだった。

つまり、福沢桃介は、電力事業を金儲けの手段と考えていました。ところが、松永安左エ門は、電力事業は国の開発の支えになる、そして大きく開発し安く提供すると、国が繁栄し、結局は国民の幸福につながるという確信を持っていました。

福沢桃介の方針では、電力供給は、利益の出やすい電灯電源の供給に力を入れていました。それに対して松永安左エ門は、海外の視察で「世界の先進国では、工業は気力(水蒸気)から電力に移行しつつある」と見抜き、それまで国内では開発があまり進んでいなかった動力電源の開発と供給、そして動力電源のPRに力を入れました。

松永安左エ門の先見性と決断力の高さは、自社の利害を抑え、国家繁栄のために考え抜いた結果だったのです。

人事での意思決定

9電社でスタートした電力会社の人事では、電力国営化を推進していた統制派を排除し、電気事業で経営経験のある者に加え、吉田茂の側近を会長職に据えるなどしました。この人事は、会長と社長の組み合わせでお互いの長所を生かし、かつ電力業界の波立ちを抑えるような、事業の安定化を行うような人選だったように思います。

また、面白いことに、松永安左エ門は、会長や社長に就任しませんでした。自分が死んでも、電気事業が継続していくために、「やらせてみる」という経営者育成を行ったのでしょう。

電力再編後の松永安左エ門

晩年、松永安左エ門は、経営の神様、松下幸之助と何度か対談をしています。松下幸之助のお茶室(真々庵)に松永安左エ門をお招きしたこともあるようです。その中の一つに、松下幸之助は、「松永さんがいなければ、今の松下電器の繁栄はありませんでした。」というようなことを述べたと聞きます。戦後にタケノコのように出てきて急成長していった企業を、電力事業の再編で陰から支えたのです。

松永安左エ門は、電力再編に成功した後、私設のシンクタンクを設立、主宰し、さまざまなことを提言します。国際空港の整備、東京湾横断道路、東京―神戸間の高速道路、東京-大阪間の高速電車、国鉄やJTの民営化、石油時代の到来などです。そして、老欅荘に首相などの財政界人を招いています。お茶を楽しみながら、未来の天下国家について語り合ったのでしょう。

お茶で有名でもあった松永安左エ門は、お茶会で使用するために、茶器や掛け軸などを集めていました。晩年は、それらや、自宅までも小田原市に寄贈しようとするのですが、コレクションの価値の高さゆえに、受け取った小田原市が困ってしまったこともあったようです。(釈迦金棺出現図などの絵巻物や茶器などの国宝や重要文化財)

松永安左エ門の意思決定スタイル

松永安左エ門の意思決定スタイルをまとめました。若干、私の解釈が入っていると思いますが、ご了承ください。

  • 自分の利害を抑えて事業を構想する
  • 勉強や研究開発を怠らない
  • あらゆる情報を自らの足で集める
  • 経済的な裏付けを取る
  • 構想実現に向けてスタートしたら、闘魂で信念を貫く
  • 実施では人事を尽くすが天命は待たない。特に根回しは怠らない
  • 人の強みを活かし、適材適所で人材を配置する
  • 人を教育する

チームコンサルティングIngIngでは、このような大先輩の事例を交えて、小さな会社の社長が会社を大きく成長していくための、さまざまな知恵を学ぶ公開セミナー「小さな会社の社長のためのセミナー」を定期開催しています。ご参加しやすいように、低めの価格設定をしています。

また不定期ですが、箱根の温泉地で松永記念館の見学もしながら、長期事業計画を立てる研修を行っています。

ご興味のある方は、ぜひご連絡ください。

この記事の著者

平野亮庵

経営・集客コンサルタント
平野 亮庵 (Hirano Ryoan)

国内でまだSEO対策やGoogleの認知度が低い時代から、検索エンジンマーケティング(SEM)に取り組む。SEO対策の実績はホームページ数が数百、SEOキーワード数なら数千を超える。オリジナル理論として、2010年に「SEOコンテンツマーケティング」、2012年に「理念SEO」を発案。その後、マーケティングや営業・販売、経営コンサルティングなどの理論を取り入れ、Web集客のみならず、競合他社に負けない「集客の流れ」や「営業の仕組み」をつくりる独自の戦略系コンサルティングを開発する。

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